●リプレイ本文
●海の邪魔者
海辺に佇む黒い巨大亀に対し、パーティーに参加するつもりでこの地を訪れた半分以上の能力者が戦闘行為を選んだ。
皆、サクッと片づけて楽しみたいのである。いろいろな意味で。
「さぁおいで? 悪い子にはお仕置きしなきゃね♪」
ナレイン・フェルド(
ga0506)があえて前に出て近づくことで、亀キメラの気を引こうとする。
するとキメラは――相も変わらず遅々としたものではあったが――少しだけ陸に上がる速度を上げ、ついでに目の前に迫ったナレインに水鉄砲を浴びせた。
アスナ同様ナレインの服も水浸しになってしまったが、どのみち後で着替えるつもりだったので本人的には問題はない。むしろキメラが狙い通りに陸に上がってきたことの方が大事だ。
速度もなければ行動もとろい。
陸に上がったキメラはやや近くで戦闘態勢をとっていた玖堂 暁恒(
ga6985)や芝樋ノ爪 水夏(
gb2060)に向けて水鉄砲を放ったが、暁恒にはあっさりと避けられ、水夏には水をかけること自体は成功したもののダメージはほとんど与えていなかった。
ただダメージがないのはあくまで肉体的な話、であって。
「着替えなきゃいけませんね‥‥あ、でもジャージしかないですね‥‥」
人手も足りているし見学することにした水夏は、自分の荷物を漁りながら呟く。
でも、それを見ていた他の能力者たちは考えずにはいられなかった。
「‥‥その手に持ってるのは着ぃひんの?」
代表して水無月 霧香(
gb3438)が訊ねる。
水夏が荷物を漁っているのは右手。
そして左手にはバニーさんの衣装。
ちょっとした沈黙の後、
「こっちは着ませんからね。誰が何と言おうと着ません」
水夏は断言した。
寒いですし、などと呟いていたが――理知的な雰囲気の漂うその顔をうっすらと朱に染めていては、それ以外の何かがあるに違いないことは想像に難くなかった。
そんな水夏から少し離れた場所。
――こちらも見学組ではあるが、ちょっと雰囲気が違っていた。
「この亀野郎! ‥‥どうせならば服だけ溶かす都合のいい強酸でも吐きやがれ!」
夜十字・信人(
ga8235)は戦闘中のキメラに向け思いきり毒を吐いた。
というのも――
「そ、それはちょっと困るわ‥‥」
目の前には最初に水鉄砲の被害を受けた恋人――UPC少尉、朝澄・アスナ(gz0064)がいるからである。
服を溶かされたら流石にたまらない、と首を埋めるアスナに対し信人は、
「しかし、安心しろアスナ。こんなこともあろうかと、こいつを持ってきた」
そんなことを言いながら――戦闘用メイド服を取り出す。
「‥‥さあ、俺に任せろ」
台詞には何というか、様々な煩悩が含まれていた。
そのまま信人はアスナを更衣室に連れて行こうとする。
「え、ちょ、ちょっと――!?」
「やめんかーいっ!」
すぱこーん。
ハリセンの強烈な一撃が信人の側頭部にヒットし、前の依頼で負った重傷がまだ十分に治りきっていなかった信人はいとも簡単に吹っ飛ぶ。
「セクハラ禁止っ!」
ハリセンの主であり信人の幼馴染でもある沢良宜 命(
ga0673)は未だ砂浜の上で死んでいる信人にハリセンを突きつけた後、アスナにタオルを手渡した。
「だ、大丈夫かしら信人さん‥‥」
「だーいじょうぶ大丈夫。巨大ってもハリセンはハリセンやし、それでどうにかなる信君やあらへんよ」
タオルで濡れた髪などを拭きながら心配そうに信人を見つめるアスナに、命はからからかと笑ってみせた。
一方――命がツッコミとフォローを入れている間に、戦闘の方は片がつきそうになっていた。
「行くわよ!」
ナレインの号令を合図に、那智・武流(
ga5350)と鳳覚羅(
gb3095)が同時に行動を起こす。
ナレインのエリシオン、武流のケイブルグ、覚羅のパイルスピア。
三本の槍が同時に、側面に隙を見せまくっていたキメラの下の砂浜へと突き刺される。そして、
「いっせいの〜で!!」
揃って、手にした柄をぐっと下に押し込む。
すると刃先がキメラの腹に引っかかっていたためにテコの原理が作用し――キメラの巨体はゆっくりと、横転した。
ここまでくれば締めたも同然である。
「オラオラ、能力者様をなめんじゃねぇぞ!」
甲羅のせいでジタバタするしかない亀キメラに対し、武流は荒々しい物言いでケイブルグを突き刺す。本人的には亀を苛める子供ならぬ神主、というつもりではあったが、その言い方はどこから見てもヤのつく職業の人のそれだった。
続いて狙撃眼を用いることを前提に大きく距離を取っていたラウル・カミーユ(
ga7242)の放った矢が腹に命中し、キメラはより一層激しくもがく。
反撃があるのかと思われたが――結局戦闘態勢をとっていた者全員が行動を起こす前に、キメラは動かなくなった。
「ふぅ‥‥亀の甲羅で小さなプールが出来そうね」
ひっくり返ったままの甲羅を見て、ナレインは苦笑した。
パーティーを行うにしても、キメラの死骸がある場所では雰囲気もぶち壊しである。
そんなわけで少し離れた場所で準備を行うことになったわけだが――。
●海辺の料理と写真撮影会
「なんか創作意欲がわいてきました、ふふ」
歩き去っていく仲間たちを見送りながらも覚羅は不敵に笑い、呟く。
その場には彼の他に神無月 るな(
ga9580)と、白雪(
gb2228)が残っていた。
「――え? この亀、食べるつもりなの?」
白雪――否、正確に言えば覚醒時に現れる彼女の姉、真白の人格――が驚きながらも覚羅に問う。
もちろん美味しく、と肯く覚羅に対し、真白は
「まあ、美味しいっていうし。ぜひ手伝わさせてもらおうかしら」
しばらく考えてからそう決めた。
「亀を捌くのは初めてですよ? ‥‥それにしても誰が食べるんでしょう‥‥」
最初から手伝うことを決めていたるなは、今更ながらにそんなことを考えた。
覚羅は相も変わらず不敵な表情で、答える。
「それももちろん、笑いの神が下りてきた人に、ですよ」
その頃、移動を終えた他の能力者たちはそれぞれに次の行動を開始していた。
テーブルなどの準備をしている者がいる一方で、暁恒はこの場にいる中で唯一料理に取り組んでいた。同じ調理場ではクラウディア・マリウス(
ga6559)が彼の手伝いを、と、材料を洗ったり切ったりしている。
暁恒はまぜ合わせた調味料にイベリコ豚の肉を漬けて下準備に取り掛かる一方、京野菜を切り刻む。
刻んだ野菜は炒めたところに牛乳を数回に分けて加え、よく混ぜてから煮込み始める。そして今度は汁を切った豚肉を焼き始める――と、手際よく作業を進めていく。
そこから少し離れた場所では、霧香が氷細工を作っていた。食べるわけではなく、料理を載せたり飾ったりするためのものだ。
しかしながら人数も人数であることに対し、彼女は一人で細やかな作業を進めている。
「あ〜! 時間が足りひん、そこの兄さん飾りつけ頼む、飾る暇ないんや〜」
今回は質より量を心がけているものの、流石に飾り付けまでは追いつかない。そんな風に手の空いている者に頼らざるを得なかった。
「前準備しとくんやったなぁ〜、忙しすぎるで〜」
そうぼやきながらも、せめて顔だけでも分かるようにと意識して動物の姿を彫る。
とはいっても作っているものの大半が小型犬であることに加え、彼女自身が犬が大好きであることから――意識せずともきちんと犬の姿が象られてはいた。
さて、そんな準備をしている者たちがいる一方で――。
「今日はどんな髪型にしよ〜かなぁ」
亀キメラの水鉄砲によって濡らされた衣服の代わりにチャイナドレスに着替えたナレインは、そうやって髪型にしばし悩み――やがて三つ編みポニーテールに決め、上機嫌に砂浜へ戻る。
そこには――何故か戦闘用メイド服に身を包んでいるアスナの姿があった。
その姿を見、満足げに肯いたナレインは――
「信人ちゃんの前でキレイにしてなきゃね♪」
アスナに化粧をさせるべく準備を始めた。
「‥‥見て居るか、伯爵」
どこぞの空へ向かって、信人は呟く。
「お前の妄言の産物は、今ここで美へと存在を昇華させたぞ」
妄言の産物――それは、化粧も済ませたメイドアスナの姿である。髪型はナレインとお揃いの三つ編みのポニーテールになっていた。
もはや語るべくもないが、このメイド服は先ほどの戦闘中に信人がアスナに着せようとしたものだ。
小柄なアスナに対しメイド服はサイズが大きく、肩が露わになりそうになっているのは信人の趣味という名の仕様であるに違いない。
アスナとしては信人に「着て欲しい」と言われてはどうにも断りにくいのだが、肩が出そうなことに関してはちょっと恥ずかしく顔を朱に染めて俯いていた。
「着替え手伝ったんは私やけどな」
そんなアスナを写真に収めるのに夢中になっている信人の隣で、命がやれやれと肩を竦めた。
信人が着替えさせてはかなりのセクハラになる――が、別にアスナを着替えさせること自体は反対ではないので自分が手伝ったのである。
「ア〜ちゃん、可愛い〜」
ナレインが華やいだ声を上げたところで――。
「おーい、そろそろ料理出来るぞー」
そんな武流の呼び声が四人の耳に届いた。
●海辺に広がる様々な香り、そしてあまりに魅惑的なトラップ
全員――キメラのいた地点で一度別れていた覚羅たちも合流し、いよいよパーティーの始まりである。
もっともその前に、武流が一帳羅に、ナレインがチャイナドレスに、白雪が十二単にそれぞれ着替えていたり、アスナがメイドアスナにクラスチェンジしていることに面喰った面子ももちろんいたが。
パーティーが開始され、それぞれ食事を楽しみ始める――。
「皆の無事な帰還に、乾杯」
「お疲れ様でしたっ、これからもよろしくお願いしますねっ」
「ああ‥‥」
翡焔・東雲(
gb2615)が音頭を取り、同じ小隊員であるクラウディアと暁恒と三人で乾杯する。つまり、小隊としての打ち上げである。
「はわ、美味しいですっ」
クラウディアはそう言いながら、先ほど暁恒が作っていた料理の一つ――京野菜のチャウダーに舌鼓を打つ。
美味しそうな料理や飲み物・デザートが並ぶ中、彼女の鋭い直感は危険物の気配を感じ取っていた。
彼女にとっての危険物=キメラ。
暁恒が蛸キメラを使って蛸飯を作っているのは見ていたが、それ以外で彼がキメラを材料に使ったものはないはずだ。そういう意味では暁恒作のチャウダーやイベリコ豚の生姜焼きは、確実に味を楽しめる安全パイだった。
クラウディアの横では、
「イタリアに来たらワインだろ。パスタははずせないし‥‥おっ、デザートもやっぱ本場だなぁ」
東雲が言葉通りマロングラッセを食していた。目の前のテーブルには彼女用のグラスもあり、やはり言葉通りにその中にはワインが注がれている。
照れ屋故に知らない人ばかりの場所では上手に喋れない彼女だが、クラウディアや暁恒は同じ小隊の仲間であるから心強く、またそのおかげで楽しむことが出来ているようだった。
「波の音が美しいですね」
食事を楽しみながらも、ハイン・ヴィーグリーズ(
gb3522)は壮観なる蒼を眺め、
「――後ろが騒がしくなければですが」
一瞬だけちらり、と背後の賑わいを見て、また視線を海へと戻す。楽しみ方は人それぞれなので、どうこう言うつもりはないのである。
その、賑やかな一部分。
「これ、僕が作ったんだヨ♪」
食べてみて、とラウルに差し出された葡萄のパウンドケーキを見、アスナは目を瞬かせながら皿を受け取る。
「‥‥ラウルって本当に多才よね――あ、美味しい」
葡萄の酸味がよく効いていて、かつ生地の甘みとマッチしている。アスナの口から洩れた感想はごく当然の評価ともいえた。
そのアスナのすぐ後ろでは、
「む――摂取カロリーが一日の規定量を超えたか‥‥御馳走様でした」
それまで料理を楽しんでいた信人が手を合わせる。見た目だけでカロリー計算出来るスキルが本物であるなら、ぜひとも習得したいものだと思う者も少なくはないだろう。
「なぁなぁアスナちゃん、信君の昔話とか聞きとうない?」
ラウルが自分の楽しみに戻った後、命がそう言ってアスナの腕を引いた。
「え、信人さんの?」
「‥‥何を話す気だお前」
アスナは興味津々といった顔で、信人は何となく嫌な予感がする、と言いたげな顔で命を見る。
「何って――十年前のこと?」
げ、という表情に変わった信人をよそに、命は話を始める。
幼馴染である命が当時住んでいた神社に、信人はよく遊びにいっていたこと。
その度にアレ的な意味でからかわれていたこと――。
アレが何であるかは命は明言しなかったが、信人の顔がやや赤くなっていたこととその視線が命の豊かな胸に向いていることから、アスナにも何となく察しがついた。
「ま、そんなわけやけど」
からかっていた本人である命はからからと笑った後で、言う。
「彼良え所も沢山あるからね、義理堅い所とか。
まあ、今後も信君を宜しゅう頼みますえ♪」
「‥‥ん、こっちこそ」
命の言葉に対しアスナは肯き――続いて恋人の顔を見、微笑を浮かべて小首を傾げた。
アスナにケーキを振る舞った後、ラウルはといえば――
「ジョセフィーヌ! 変わり果てた姿になって‥‥」
暁恒作の蛸飯を前に大仰に叫んだ後、一瞬前の絶叫っぷりは何だったのかと思わせるほどあっさりと蛸飯を口にした。
ただ咀嚼している間、彼はやけに遠い目をしていた――ジョセフィーヌと名付けられた蛸との間には微妙に思い出したくない出来事があったようだ。
それを知る者がここに他にいないのは、彼にとってある意味幸運かもしれない。
■
「これ作ったんだれや? レシピ教えて〜な〜」
霧香がカルパッチョを指差して訊ねると、俺です、という答えが覚羅から返ってきた。
ちなみに彼がキメラ専門の料理人である、ということを霧香が再認識するのは、その『蛸キメラを材料にした』カルパッチョの作り方を聞いた後である。
「こちらもどうですか? 覚羅特製スープですよ〜。コラーゲンたっぷりで、滋養強壮・美肌にもいいはずです」
そう言って覚羅は、自ら液体をスープ皿によそう。
それらを霧香を含め数名が持って行った後――
「‥‥え? 鳳さん、あのスープ出しちゃったんですか?」
おそるおそる白雪が――ちなみに着替えた折に、彼女は覚醒前の、本来の自分の人格に戻っている――覚羅におそるおそる訊ねる。
「出しましたけど?」
不敵に笑う覚羅。
なんだなんだ、と彼から皿を受け取った能力者たちは集う。まだほとんどが口をつけてもいないか、飲んでいても一口だった。
彼らに向け、るながその答えを放った。
「よかった〜♪ みなさん亀キメラのスープ大好きだったんですね?」
素材を訊き噴き出した者――覚羅の言うところの『笑いの神』が降臨した者がいた一方で、
「俺のことはチャレンジャーと呼んでくれい!」
武流はむしろここにきて意気揚々と、手にしたスープ皿の中身を一気飲みする。
反応を見守る人々。
――武流が見せた反応はといえば。
「う、うめー! 最高だぜ!」
好みの問題もあるだろうが、少なくとも食べられる代物ではあるらしい。
となると――後は、キメラだということを気にするかどうか、である。
「え‥‥キメラってもしかして、これ、ですか?」
スープ中に細かく刻まれた形で入っているキメラの肉をまじまじと見つめ、水夏は訊ねる。
そうですよ、という言葉が返ってきて――それでも手をつけた以上は、と緊張しながら飲み込んだ。
「カジキも美味かったが――グロテスクなものほど美味いって言うのはほんとかも‥‥」
東雲は素直に美味しいと感じたクチらしい――が。
それから暫しして彼女が酔い始めたのは、スープのせいかワインのせいか――それは定かではない。
ちなみに、
「‥‥うっ――ホント? もうイヤ‥‥」
真実を聞かされた時は愕然としたナレインだったが、数分後には
「キメラだろうが何だろうが、何でも食べるわよ〜暁恒さん戴くわよ!」
すっかり吹っ切れていたという。
これも酔いのせいかどうか――それも定かではない。
●取り戻した穏やかな海で
食事も一段落し、再びそれぞれに過ごす時間がやってきた。
「平和ですねぇ♪ 一部はちょっと違いますが‥‥」
るなは日傘を差し、飲み物とデザートを傍らのテーブルに置いて周囲を見回した。
彼女が言う『一部』とは、食事の片付けを行っている者たちのことだ。あえて避けた者もいたこともあり、例の亀キメラのスープがえらい量残ったのである。
今はそれを胃袋に処理する作業に追われている。キメラを食べ過ぎて腹を下さなければいいが――。
とりあえず自分は避けておこう。
そう決めて、るなは手にした本に視線を落とした。
その目の前の砂浜では、ラウルとナレインが砂浜で貝を探している。
二人ともお土産にするためではあるが――どんな存在のためのお土産にするかはそれぞれ違った。ナレインは自分のため、ラウルは妹と、今は友達以上恋人未満の関係にある研究員のためである。
「見つかったー?」
「ほら、これとかいい感じじゃない〜?」
収獲を見せ合い、ラウルが探していた狙いの一つであった桜色の貝をナレインが持っていたので、ナレインの狙いである小さく可愛い貝と交換し。
その後もそれぞれに貝探しを再開する。
「幸せのピンクの貝殻とか‥‥有ったりするかな?」
ナレインが新たな狙いを定めて探していると、
「うりゃ」
不意にラウルがそんな声を上げた。
ナレインが彼の方を見ると――ラウルの目の前の砂浜の上には、動く小さな姿がある。ヤドカリだろうか――ラウルはそれを突っついて遊んでいる。
「クスッ‥‥無邪気さんなんだから」
そんなラウルの姿を、ナレインは微笑を浮かべて見守った。
それ以外の多くの者は、海辺を歩いていた。
メイドアスナはノーマルアスナに再びクラスチェンジしていた。
ノーマルというか、メイド服の代わりとして信人が持ってきたワンピースに着替えただけなのだが。
そんなノーマルアスナと信人は、二人揃って海岸線を歩いている。
「ラスト・ホープの外でこうしてゆっくりするのは初めてだな‥‥」
「――そうね」
アスナは肯く。
普段はアスナがUPC本部にある自分の執務室にこもっていることが多いせいか、恋人という間柄になってから二人で一緒にラスト・ホープの外に出たことは、同じ小隊員として出撃したアジア決戦の時だけだった。とてもゆっくり出来たものではない。
アスナは不意に足を止め、視線を横の海へと向けた。
「‥‥またこの海で、こういう時間が過ごすことができるかしら?」
表に出ることはあまりない、事務系の人間とはいえ――UPCの一軍人であることに変わりはなく、だからこそバグアという存在に対する警戒心とある種の恐怖は、どうしても拭えない。
「できる」
数歩先で足を止めた信人は振り返り、断言した。
「そうするために俺たち傭兵がいて、アスナのような軍人がいる。――まぁ、バグアの連中にアスナには指一本触れさせるつもりはないがな」
真顔でそんなことをいう信人。
そんな彼にはちょっとは慣れていたつもりだったが――それでもアスナは、真っ赤になって照れる自分を抑えきれなかった。
そこからもう少し離れた場所。
「うーんっ」
クラウディアが海を見ながら、伸びをする。
その背後には東雲と暁恒がおり、こちらの三人も飲み物とデザートを確保した上でゆっくりしに来ていた。
適当な位置に腰かけたクラウディアは、持ってきたタルトを食べつつ――ふと、空を見上げる。
そこには日中でも沈むことのない、紅い月が在った。
それを見ていると、不意に先日耳にしたある女性の言葉が脳裏で蘇った。
『あの人は昔の自分を、消したがっている』
怯えながら、女性はそんなことを口にしていた。
(「――何故、昔を消したいの?」)
クラウディアは答えが出るわけもない問いを考える。
寧ろ自分は、出来るなら昔に戻れたらいいのにとすら思っている。
大好きな人たち。
温かな家庭。
穏やかで幸せな日々――。
どれもこれもが、彼女にとってそのままの状態ではもう取り戻せないモノだ。
だからこそ――なのに。
何不自由なく暮らせていた頃の思い出が、ひとつひとつ彼女の脳裏でフラッシュバックされていく。
特に、父親がいる風景が多かった。
視界の裏でそれらを見ているうち――こらえきれなくなったものが、眦に雫となって表れて。
それを決してそのまま流してしまわぬよう、クラウディアは抱えた膝に顔を埋める。
クラウディアの背後にいた二人は、もちろん彼女の様子が少しおかしいことにすぐに気がついた。
「‥‥おい、どうした」
クラウ――そう話しかけそうになった暁恒を、東雲が無言で制する。
今はそっとしておいてやろう。
そう潤んだ瞳で訴える東雲を見、暁恒も黙ってやや丸まったクラウディアの背中を見守ることにした。
もう戻れない時がある――。
だから。
(「――知りたい」)
涙が流れるのをこらえるため、クラウディアはそう強く思う。
かの『あの人』が消したい過去とは何なのか。
何故消したいと思うのか。
『あの人』が人類に仇をなす存在であるとしても――知ることで、何かを確かめられるのなら。
――まだ泣く時なんかじゃない。
クラウディアは立ち上がり、涙を拭く。
そして笑顔で、背後にいた二人の方を振り返った。
「えへへ、ごめんなさい。もう大丈夫ですっ」
彼女が少し無理やり笑ったのは暁恒も東雲も理解していたが、その意味をも分かっているからこそ何も言わない。
代わりに、
「綺麗な海だ――護らなきゃ、な。これからもよろしく」
東雲がそう言って、こちらに来ようとしてちょうど躓きかけたクラウディアに手を差し伸べた。
■
地平線の向こうへ消えていく夕日を見やり。
「いつかみんなが心の底から笑える世界に‥‥」
貝探しを終えたナレインは、岩の上でそう呟く。
皆で取り戻したイタリアの海、地中海。
もう二度と――ここだけでなく、地球上のすべての場所を――バグアの手によって陥れさせないために。
楽しき日々を、思い出を、力に変えて。