●オープニング本文

　どこまでも空は青く、その下に広がる村はのどかで、平和で――。
　そんな日々は、あの大規模作戦の時に終わりを告げた。

　――否、生き残った僅かな人々はもう知っている。
　その終わりの兆候は、数年前に既に現れていたことを。

「よく来たね。早速だけど依頼の説明をするよ」
　ユネは特別おどける様子もなく、至って真剣な表情で話を始める。
「今回の依頼は、フランスのある村に巣食っている三体のキメラの退治だ。
　――残念だけど、この村はすでに一度滅んでいるといってもいいと思う」
　彼はそこで無念そうに目を伏せる。滅んでいる――その言葉を聞き、能力者たちもそれぞれの反応を見せた。
「場所が悪かった、というのもある。
　その村はフランスの南西部――ヨーロッパ攻防戦の後のバグア勢力圏から、もっとも近いとされている集落の一つだったんだ」
　微妙な空気を伴った沈黙が流れる。
「‥‥それで、そのキメラっていうのはどういうタイプのものなの？」
　それを嫌ったのか、女性能力者がやや慌てた様子で話を再開させた。
「メデューサ」
　ユネの最初の答えは端的なものだった。
「目が合うと体が石になる瞳で、髪は無数の毒蛇――これをメデューサと言わずに何と言うんだろうね」
「それが、三体」
「うん。‥‥生き残った数人は、命からがら村から逃げ出すことに成功した人たちだ。逃げ遅れた人たちはもう――」
　体が石像となったことで一生を終えたか、毒蛇にかみ殺されて土に還ったか――。
　言葉にしなくとも分かる。悲痛ささえ伴った重い空気が漂い出した。
　――だがそれでも、やらないわけにはいかない。
　それはこの場にいる誰もが分かっている。
「他に敵は見当たらない。‥‥石になることにさえ気をつければ、君達ならどうにかならない相手じゃない」
　ユネはやや語気を強めて説明の続きを始めた。
「逆に言ってしまえば、石になってしまったら君達でさえどうにも出来ないと思った方がいい。
　能力者としての力とよほどの強運で石化を避ける――じゃなかったら石の状態から解かれるってことはもしかしたらあるかもしれないけど、期待はしない方がいいだろうね」
　ただもし戦闘中に石化した者がいても、キメラをすべて倒せば元に戻るはず。それは一般人にも言えることで、だからこそ滅んだことを「一度」と言ったのだ。
　そうユネが付け加えたところで、「質問」と先ほどの女性能力者が挙手した。
「もし石になっちゃって、戦闘中に強い衝撃とかで壊れちゃったりしたらどうなるの？」
「あー‥‥少なくともキメラたちはどうやら石にした時点で興味を失ってしまうらしいよ。
　逃げ延びた人たちも壊れた石像は見ていないと言っていたから、既に石になっている人たちも含めてとばっちりにだけ注意すればいいと思う」
　もちろんそれ以外にも毒蛇の警戒など行うべきことも多く、決して油断ならない相手だ。
　しかし、滅んだはずの村を可能な限り元に戻すこと。それが叶うのならば――。

「――それと、もし勝ったらの話なんだけど」
　ユネはひとつ咳払いをして、唐突に話を切り換える。
「どうしたの？」
　女性能力者がそう訊ねたのは、ユネの表情に困惑とも呼べる色が浮かんでいたからだ。
「石から元に戻った村人に話を聞いてもいいし、とにかく手段は任せるけど、ひとつ調べてきてほしいことがあるんだ。
　――正直、生き残った人から聞いたことが本当の話なのかどうか僕も判断しかねてるんだよ。あまりに突拍子がなさすぎて」
　ユネはそう言いながら、コンソールに置いていた資料を能力者の前に広げる。
　それは村の地図だった。中心には小さいながらも噴水広場らしきものがあり、その他大小さまざまな数十軒の民家や店。
　そして村の入口から最奥に位置する屋敷。地図で見ただけでも、これが村で一番大きな建物だと分かる。
「ここ数年は誰も使っていないみたいなんだけど、一応別荘らしい」
　能力者たちの視線が屋敷に集中していたことに気づいたのだろう。ユネはそう注釈を加える。
　その表情があまりにも険しかったものだから、
「‥‥ねえ、一体何を聞いたの？」
　能力者は思わずそう訊ねた。それに対しユネは、
「バグアに関連していること。しかも本当なら、結構大きいことかもね」
　とだけ告げて口を閉じる。

　ユネは最後まで、自分が生存者から聞いたことが何なのか喋らずに。
「自分たちの目で確かめてくるのが何よりの証拠になると思うよ」という言葉を最後に、説明を終えた。

●参加者一覧

●リプレイ本文

●石に閉ざされた生命の息吹
　無意味に青い空の下、三体のメデューサは退屈していた。
　街に住む多くの人間を石にしたのは彼女たちではあるが、彼女たち自身にとってそれはもはや何の意味もなさないオブジェでしかなく。
　自分たちと目を合わせることをせず、代わりに頭の蛇がその牙と毒を以って殺めた人間たちも、既に食料として頂ける部分は頂いてしまっている。
　最後の食料を得てから三日が経つ。
　そろそろ別の獲物が住まう集落を探しに出ようか――本能的にそんなことを考えていた彼女たちだが、ただ同類だからともに行動しているだけでその中に仲間意識というものはあまりない。
　だからほぼ同時に別方向から現れた三匹の獲物の存在に気づいたとき、互いのことは気にせずに一匹につき一体、その姿を追いかけはじめた。
　――誘い込まれていることなど、知る由もなく。

　親しい人間が危険な依頼に参加したために追いかけるように同行したトリストラム（gb0815）だが、目的はそれ以外にもある。
　そのためにも誘導役として捕まるわけにはいかない。
「二人とも、くれぐれも気をつけてください」
　奇しくも、他の二人の誘導役はその親しい仲間である。そう声を投げてから無線を切り、シグナルミラーを取り出す。
　シグナルミラーを日光にかざす――するとキメラはその反射信号さえも嫌ったのか、心なしかその前よりもこちらに迫る速度を上げた。
　トリストラムも踵を返し、駆け出す。
　信号は仲間への合図であると同時に、キメラを誘い込むための餌でもある。
　誘い込んだ先――戦場の準備はすでに出来ている。誘導を始める前に、手頃な場所を探し出しておいたのだ。そこにあった――これからその本来の生命を取り戻させる石像は、近くの家屋に移してある。
「何所を見ているんです？　貴女の相手はこちらですよ」
　時折そんな挑発のセリフを発しながら逃げる、逃げる、逃げる――。

　やがて、一人と一匹は戦場に到着する。
　その瞬間――

　トリストラムがキメラの気を引いているうちに背後に回り込んでいた木場・純平（ga3277）が、両手に広げた布でキメラを覆い隠した。

　キメラにとっては一瞬にして視界が奪われたように見えたろう。動揺を表すかのように暴れるものの――そう簡単に元には戻すまいとばかりに、自らの肉体に秘められし力を開放した純平が渾身の一撃を叩き込む――！
　吹っ飛ばされるキメラに、
「最大出力で、吹き飛ばして差し上げましょう」
　防御を犠牲にする形で自らの力を改変させたトリストラムが、エネルギーガンで追撃の一射を与える。
　二つの攻撃を一連の流れの間で受け、極めて不安定な体勢で地面に墜落したキメラは――そのすぐ背後にあった家屋の影から、鳴神　伊織（ga0421）が姿を現したことに気付かなかった。

　■

　一方別のキメラは、レイヴァー（gb0805）を獲物と見定めていた。
「コインは嘘をつかない。後は、俺等がヘマしなければいいだけさ」
　やはりシグナルミラーをかざしながら、自らに言い聞かせるように呟く。
　彼は先ほど行ったコイントスの結果を思い出していた。表――それは村を救うことができるという未来の暗示。
　だが、その未来への道はそう平坦なものではないらしい。
「危な‥‥囮がやられちゃ世話ないぞ、俺」
　思ったより彼我の距離が詰まるのは早かった。レイヴァーは軽く舌打ちし、敵に背を向け走り出す。

　駆けるレイヴァー、追うキメラ。
　そしてその追撃を戦場にて止めるのは――布を構えた西島　百白（ga2123）とアルヴァイム（ga5051）。

　■

　エリアノーラ・カーゾン（ga9802）もまた、手にしていたシグナルミラーをかざしながら逃げていた。
　他の二班の誘導役に比べて最初の距離が開いていたため、背を向け逃げるエリアノーラにキメラの歯牙はなかなか届かない。
　それでも暫く逃げ続けると、キメラの気配はすぐ後ろ――射程圏内にまで近づいてきた。
　だが――。

「さぁ――いい子だ。こい‥‥こい‥‥こぃ‥‥！」
　家屋の影にて藁を被って隠れていたゼラス（ga2924）は、エリアノーラとその背後に迫るキメラの姿を視界に捉えて自らも準備を整える。
　メデューサを倒す自分たちは、さしずめ神話上の英雄ベルセウスか――。
　そうなるための足掛かりはキメラを誘い出したエリアノーラが作り。
　倒すまでの道筋をより確実なものにするべく――キメラの背後へと回り込んでいたアグレアーブル（ga0095）が、一気に距離を詰める。
　横の家屋の壁を蹴り、布を広げながら高く跳躍。
　着地地点はキメラの頭上だった。彼女は自身の体重と疾走の勢いを用い、布でキメラの顔を覆い隠す！

　三班に共通していえること――それは、布で覆い隠した瞬間こそが攻勢に転じるタイミングであるということだ。

「歓迎するぜ！　伝説通りその首、裂き飛ばす！」
　ゼラスは覚醒を済ませると藁から飛び出す。同様に、別の家屋の陰からクラウディア・マリウス（ga6559）も姿を現した。
「先手必勝！　裂き飛べ！」
　髪が赤く滲んだゼラスは、言葉通り初手にして持ちうる全てのスキルを同時に発動させた一撃を繰り出す――！
　そこにタイミングよくクラウディアが強化の練力を投げたこともあったのだろう、キメラの翼は一撃にして千切れ飛び機能しなくなり、それどころか背中に大きな裂傷を与えることに成功した。
　それまで低空飛行でエリアノーラを追っていたキメラは、飛行能力を奪われたことで地面に崩れ落ちる。その拍子に布もはがれかけたが、先ほどまで逃げていたエリアノーラが姿勢を一転させ、盾を前に構えたままキメラに体当たりを喰らわせる――吹っ飛ばされたキメラは着地もままならず、家屋の壁に激突する。
　布がそれで剥がれてしまったために一方的攻勢はここで終わったが、それでもキメラに態勢を整えさせる前に与えたダメージは非常に大きい。
　結果として、彼らはキメラの目を見て石化するどころかまったく付け入る隙を与えずにキメラを粉砕した。

　トリストラムが引きつけていたキメラはといえば、アグレアーブルらの班ほどではないがやはりキメラの視界をふさぐことで戦闘を有利に進めていた。
　もとより三人は、布が剥がれ落ちても敵の下半身を見て攻撃することに決めている。それにより蛇の攻撃をかわすのはやや難儀なこととなったが、回避を考えなかったことでダメージを加えにくくなるということもなかった。
「この一撃で終わりにさせて頂きます――」
　キメラの背後に回り込んだ伊織が、月詠を振るう――毒蛇の大半がそれに反応出来ず、無残に斬り落とされ。
　攻撃手段を失ったといってもいいキメラが土に還ったのは、それから間もなくのことだった。

　一方、レイヴァーが誘き寄せたキメラの相手を行った班は苦戦を強いられていた。
　布被せを担当していた百白だったが、純平やアグレアーブルのような工夫が見られなかったために被せることに失敗し――更には運が悪いことに、接近した拍子にキメラの目を見てしまったのだ。
　瞬時にして、百白の体の表面が灰色に変色し硬直する。レイヴァーと、それまで陰に隠れていたアルヴァイムは急遽戦場を変えるべく移動し始めた。

　やや離れた場所に移動し、今度こそ戦闘を開始する。
　とはいえ、二人で撃破するには苦しい相手だった。アルヴァイムは遠方からの射撃に専念しているため、レイヴァーは一人ヒット＆アウェイを意識しながら敵の攻撃の矢面に立つことになったからだ。
　むしろ一つの体に多数の生命をもったメデューサが、彼に意思通りの動きをさせるはずがない――。彼もまたキメラの下半身を見ることを意識していたため石化することはなかったが、代わりに満足に攻撃する暇を与えさせてもらえずにいた。キメラが自由に動けてしまうため、アルヴァイムの射撃も想定より精度を欠いたものになってしまっている。
　まだ大きな傷は受けていないが、最悪の事態がレイヴァーの脳裏を過ぎる――。
　しかしそんな折、既に他のキメラを倒した二つの班が戦場に駆けつけた。移動の間にアルヴァイムが無線で呼びかけておいたのだ。
　戦いを優位に進めているといってもよかったキメラだが、敵が増えたことで一気に窮地に追い込まれることになる。

　殆どの者が、キメラとの戦い方を意識している。
　作戦、そして数の暴力。ここまで来ると能力者たちが負ける要素はなかった。

●其処から総ては始まった――
　キメラたちが完全に息の根を止めると――。
　まるで砂のコーティングが剥がれ落ちていくかのように、百白、そして石と化していた村の人々は本来の姿を取り戻していった。

　キメラに襲われてから後の記憶がない村人たちは、当然何が起こったか知る由もない。
　事情説明をしているうち、村へ来訪したもう一つの理由にも触れることになったのだが――。

　屋敷の持ち主のことを尋ねようとすると、村人は沈黙を通し。
　アルヴァイムがゾディアックのメンバーの写真をそれとなく見せようとしても、彼らは一様に目をそらす。

　村人たちが何か隠しているのは目に見えて分かるのだが、まさか追及するわけにはいかない。
　屋敷は調べるという意見で一致している。村人たちからの聞き込みを終えた能力者たちは屋敷へと向かい、
「念のため、だ。私は外で報告を楽しみに待っているよ」
　そう言って屋敷の外に残った純平以外の九人で侵入を試みることにした。

「お邪魔しま〜す‥‥」
　両開きの玄関の扉を開け、クラウディアは小声で挨拶した。現在は無人とはいえ、侵入には少しばかり気が引けている。
「広い‥‥な‥‥」
　中に足を踏み入れた百白は、辺りを見渡しながら言う。
　確かに広い。まだ昼間であり、窓や開けたままの玄関から光が差し込んでいるというのに――玄関ホールの最奥部は薄暗く見える。無人だけあって明かりは見たところ全く灯っておらず、部屋によってはこちらで用意する必要もありそうだ。そんな状況を予想していた数人は明かりの準備を済ませている。
「一体、この屋敷に何があるのでしょうね‥‥」
　伊織がぽつりとつぶやく。同じ疑問を抱いている者は多い。
「‥‥気をつけていきましょうか」
　レイヴァーの言葉にその場にいる全員が肯き――九人は、再度三班に分かれて探索を開始した。

　■

　調査を始めて間もなく、エリアノーラはそのことに気がついた。
「ねえ、この屋敷‥‥少し綺麗過ぎない？」
「‥‥確かに」
　同行している百白、アルヴァイムがそれぞれ肯きを返す。恐らくは今ごろ、他のメンバーも気が付いているだろう。
　数年は誰も暮らしていないという割に、屋敷内にある全てのものには目立った埃や汚れが見当たらない。朽ちたモノ・壊れたモノなど無論ない。何が起こるか分からない故点けることはしないが、明かりも切れているというよりはただ点けていないだけのようだ。
　――今でも手入れが行き届いている？
　誰が、何のためにそれを行っている？
　新たな疑問を感じつつ、三人は屋敷の奥へと足を踏み入れていった。

　■

「‥‥画廊、ですかね、ここは」
　他よりやや広めの部屋にたどりついたトリストラムは、周囲の壁を見回して言う。ちなみに彼は片手にやや大きな布包みを提げている。その中身は先ほど倒したメデューサキメラの頭部だ。
　彼も、彼とともに行動している伊織やレイヴァーもランタンを持ち合わせていないため、こちらは危険を承知で明かりを灯す。罠らしきものはないようで、すんなりと広い部屋は照らされた。
　部屋内部はいくらかのオブジェが置かれているだけの簡素なものだが――壁紙だけでも生活の豊かさを感じさせる壁には、額縁に入った絵画が等間隔で掛けられている。
　絵画は全て水彩画で、そのタッチから同一人物が描いたものだと分かる。同じタッチゆえか人物画や抽象画といった別のジャンルのものでも、あまり違和感を感じない。
　その中でも、とりわけ風景画は存在感を放っていた。
　鮮やかかつ繊細にピレネーの山々を描き出している大作を見、三人はおそらくこれこそが本来の得意分野なのだろうと思った。

　■

「よくある話だと――こういうのを動かしたら、隠し部屋的なんがあるよなぁ」
　そう言いながら、ゼラスは本棚に並ぶ本を一冊一冊抜き出したり戻したりといった作業を繰り返す。手ごたえは、今のところない。
　寝室らしきその広い部屋にはクラウディアとアグレアーブルがおり、二人もそれぞれ慎重に部屋にあるものを調べている。彼らは、三階建の屋敷の最上階は下と違い大きな部屋がいくつかあるだけということに気づき、警戒を怠らないようにしながら一部屋ずつ丹念に調べていくことにしていた。
　今探索していたのは、六つある部屋のうちの三つ目。手がかりはないとふみ、部屋を出る三人。
　――少し離れたところにある四つ目の部屋の扉に手をかけたところで、アグレアーブルは気づいた。
「‥‥開きません」
　鍵がかかっているのか。最初はそう思ったが、押し開きのその扉を実際に押した感触はどうにも違う。
　内側で、重い何かがつっかえているような――。
　幸い、ゼラスが工具セットを持ってきている。屋敷の主には悪いが、ここは無理やり扉を破ることにした。

　つっかえの正体は、扉をふさぐように張られた数枚の木の板だった。ゼラスは仕方なしに扉ごと破壊にかかる。
　木が砕ける音と壊れたモノが崩れ落ちる音に耳をふさいだ後、三人は部屋の中を目にし――
「‥‥何、これ」
　クラウディアが呆然とそんな呟きを漏らす。

　屋敷の他のどことも異なり、その部屋の中は荒れきっていた。
　窓はフレームごと大破し、長きにわたる放置の過程で風雨に晒された結果、窓から近い場所では床板が腐っているのが分かる。
　それ以外の場所も酷い有様だ。家財は明らかに人為的な力によって全て破壊され、外からは気づかない程度だが壁にも穴が空いている。
　――そんな中、かろうじて無事といえる状態だったものが一つだけある。三人はゆっくりとそれに近づく。
　イーゼルの上にかけられたそれは描きかけの絵画で――水彩画とは思えないほどに力強く、用紙全体の面積の半分近くに塗りたくられたその色は、赤。
　絵の中では世界が燃えている。赤の中にうっすらと黒ずんだもの――建物や、自然の影が描かれている。人などはそれらに比べると小さすぎて描くつもりもなかったのだろう。
　そしてクラウディアの視線は、絵画の右下隅に密やかに書かれた文字へと向かい――。
「アグちゃん、これってもしかして‥‥」
　小さな声でアグレアーブルに呼びかけてから、その文字――作者の署名を指差す。

　仏語で書かれたその署名の読みは――『イネース・サイフェル』。

　其の名を持つ人間が今、この絵同様の破壊の執行者として世界の前に立ちはだかっているのは――皮肉な偶然なのか、それとも必然なのか。
　今は未だ、誰もその真実を知らない。