タイトル:無謀なる復讐劇 マスター:白尾ゆり

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 8 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2008/07/12 06:50

●オープニング本文


 生い茂った樹木の間を、ジャックは自らを呪いながら走り続けていた。昼間だというのに森は暗くのしかかり、小さな田舎町までの細い道を覆い隠す。細い枝に顔を打たれ、何度も太い根に躓き、それでも彼は速度をゆるめるどころか上げてゆく。彼はずっと思いつく限りの悪態を誰にともなしに呟き続ける。基本の呼吸法も忘れて不規則に息を吸い、痛む喉からかすれた音を漏らしながら。
 絶対にこの方向に敵がいるのだと確信し、それを的中させた数時間前の自分を言葉を限りに罵り、神には心の中で唾を吐き、それから思いの限りをこめて祈った。奴の足跡を見つけさえしなければ良かった。一人でねぐらを見つけ出そうなんて思わなければ良かった。
 ジャックは重くなり始めた足を無理矢理跳ね上げながら、声なき声で絶叫する。
「これ以上奪わないでくれ!」

 北米の田舎町で生まれた彼は、数年前にキメラの襲撃によって両親を失った。以来たった一人の妹と二人、肩を寄せ合って生きている。
 数日前から、人食いキメラが彼が住む町近辺を狩り場に定めた。町全体で傭兵を呼ぶための金策も始めていたところだというのも聞いている。
 ジャックは単独でキメラの動きを探っていた。一刻も早くキメラを排除したいという強い気持ちは抑えられなかった。どうやら敵が四足獣であること、二、三日おきに餌を求めて現れることは突き止めた。あとはねぐらを見つけ出し、情報を傭兵に渡せばいい。すぐに駆除してもらえるだろう。それまでの数日で何人かは犠牲になるかも知れないが、幸いキメラはそれほど食欲旺盛ではないようだ。何とか襲撃から逃げおおせればいい。

 だが彼がねぐらのある場所に目星をつけて帰る途中に町の方から聞こえてきた騒ぎが、彼の心を奈落にたたき込む。騒ぎの方角は彼が住む家のある所。たった一人の妹が待つ家がある区域だ。
 嫌な予感は的中する。破壊された柵や壁を越え逃げ惑う人を押しのけ、たどり着いた我が家の前で、ジャックはしばらく呆然と立ち尽くす。
 彼の見開かれた瞳に、悠々と獲物を貪り食う、猛獣に似た牛ほどの大きさのキメラの姿が目にうつっていた。

 頭が真っ白になる。湿った音や何かを砕く音がやけにはっきりと聞こえる。
 べろりと口の端をなめて満足げに顔を上げたキメラと目が合った。大きな顎を真っ赤に塗らし、キメラは嗤ったように見えた。すっと背筋が冷える。次の瞬間彼は、妹の名を叫んで飛びかかっていた。

 彼が殺されなかったのは、幸運だった、その一点に他ならない。おそらく腹一杯になって早く休みたかったのだろう。キメラはジャックを文字通り一蹴すると、ひと跳びで間に合わせの柵を飛び越え姿を消した。
 彼は飛び散った鮮血に指を浸し慟哭した。彼の妹の存在を示すものはおろか、犠牲者が人間だったことすら判別不能だった。

 今回の死亡者は確認が取れているのが八人ほどらしい。負傷者は数十人に及ぶとのことだ。しかし正確なところはいまだ不明。混乱状態の町では、誰が無事なのか、そうでないのかを知ることは難しい。ただ行方不明なのか、キメラの腹に収まってしまったのかを確認することもままならないのだ。
 依頼を出すにあたって警察はキメラの情報を求め、ジャックは自分が知った情報をおおまかに伝えた。
「居場所は大体俺が知っている。奴が生まれたことも後悔するほど徹底的に殺してくれ」

 警察から帰ったジャックの目に、家の前に飛び散った赤黒い物が目にうつった。頭の芯がぐらりと揺れ、視界が浮いた。
 ジャックは家に入ると猟銃を取り出し、震える手で弾丸を込めた。更に武器になりそうな刃物を身につける。冷たい金属に触れるごとに、悲しみは憎しみと怒りに置き換わってゆく。

 昔使われていた薪割り用の斧は、ないよりはましだろうか。ジャックはしばらく使われていなかった物置の前で少し考えて、無造作に斧をリュックにくくりつけた。ずしりと重い荷物で足がふらついた。
「おい、ジャック、何してる」
 投げかけられた言葉は、彼の友人マシューのものだった。ジャックはちらりと視線をやってマシューが無傷であることを確認すると、また作業に戻りつつ途切れ途切れに答える。
「ヤツを、追う。レイチェルと、同じ目に、あわせて、やるんだ」
 ジャックが無表情にぽつりぽつりと語る事情を聞き、マシューは慌てて瓦礫に踏み込んだ。しかし濃い血のにおいに顔をしかめ、眉を寄せる。
「おい、落ち着けよ。お前がかなうわけがないだろう。それに、こう滅茶苦茶じゃあ誰がどこにいるのかわかりゃしないんだ。まだレイチェルが死んだと決まったわけじゃ」
 マシューは言葉を切った。立ち上がって振り向いたジャックの目は空洞のよう。だがその奥には深い憎悪がこごっていた。ジャックは低い声を絞り出す。
「俺は、見たんだ」
「しかしな、お前、待てば傭兵が来てくれるんだろう。なのにあの化け物に一人で‥‥」
「やってみなくちゃわからない。あの化け物だって眠ることもあるだろう。そこを叩けば何とかなるかも知れない」
 到底正気とは思えない友人の言葉に、マシューは首を振った。
「無理だ」
 ジャックは言外の問いかけに応えて歪んだ笑みを浮かべる。
「それでもいい。どうせ俺にはもう何も残っちゃいないんだ」
 ジャックは吐き捨てると、一人猟銃を手に黄昏の森へと消えていった。

●参加者一覧

リゼット・ランドルフ(ga5171
19歳・♀・FT
番 朝(ga7743
14歳・♀・AA
アズメリア・カンス(ga8233
24歳・♀・AA
御巫 雫(ga8942
19歳・♀・SN
サルファ(ga9419
22歳・♂・DF
カララク(gb1394
26歳・♂・JG
シヴァー・JS(gb1398
29歳・♂・FT
梵阿(gb1532
10歳・♀・ST

●リプレイ本文

 町にはキメラが残した傷が生々しく残り、建造物は一部破壊され、そこここに血が飛び散っていた。いまだ行方不明者も多い状況、警官もほとんどが出払ってしまっている。
 リゼット・ランドルフ(ga5171)はまず警察で目撃情報と地図を見せてもらい、地形と目的地の把握に努めた。
 アズメリア・カンス(ga8233)がメモを見てつぶやく。
「情報提供者に会って、直接話を聞いてみたいわね」

 情報提供者であるジャックという男のかわりに、マシューという男が慌てた様子で警察を訪れた。ジャックは妹レイチェルの死に取り乱し、一時間ほど前に一人で敵を討ちに行ってしまったのだという。
 サルファ(ga9419)と御巫 雫(ga8942)は同時に驚きの声を上げる。男の行動は、無謀と言うよりほかない。
 何人かは複雑な表情だった。こんな時代、バグアの侵攻やキメラによって家族を失った者は珍しくない。もちろん能力者たる彼ら自身ですら。

 リゼットが地図のコピーをとり、手早く折りたたみ始める。
「先にジャックさんがキメラを見つけてしまったら大変です。早く行きましょう」
 雫が眉根を寄せた。
「我々の任務は町民の安全確保だ。私はここに残る。‥‥レイチェルを探してみよう。彼の勘違いという可能性もある」
 怒ったような声で言ったのは梵阿(gb1532)。
「可能性? そんな不確かなものが信じられるか。状況把握のため、まず正確な情報を得なければならん。戸籍名簿が必要だな」
 彼女は自らの内にわき上がる想いを簡単な言葉で片付けようとした。
‥‥任務のためだ。感情に流されるなど愚かの極み。
「希望があるなら何とか彼を助けたい。急ごう」
 と、カララク(gb1394)。
「ふたつにわかれよう。おれはキメラをおいかける」
 番 朝(ga7743)は言うなり警察署を出て行った。
 彼らはキメラとジャックを追う追跡班と、町に残り混乱をおさめ、状況の把握を行う駐留班に分かれることにした。

 役所へ出かけようとした梵阿を、シヴァー・JS(gb1398)が呼び止める。彼は机の上に山積みにされた捜索者願いに目を通していた。
「レイチェルさんが生存しているのなら、行方不明の兄の捜索を依頼している可能性があります。役所に行くのでしたら、そちらでも確認してみてください」


●追跡班

 地図を頼りに大体の方角を把握し地面を注意深く調べると、それらしき足跡を発見できた。アズメリアが地面に目を近づけてつぶやく。
「これだけくっきり残っていれば追跡しやすいわ。急げば追いつけるかも知れないわね」
 夜の森は急速に闇を濃くしてゆく。しかしそれは番にとって恐怖の対象ではない。森で育った日々のことが思い出され、彼女は少し表情を緩めた。
「違うけど懐かしい感じだな」
 そしてすぐ低く腰をかがめて足跡を追い始める。早足で歩き始める彼女の顔の先をそれぞれ手持ちの明かりで照らしながら、追跡班は森の奥へと入っていった。

 アズメリアは町の空を確認しながら進むことにした。
「今から森に入る。無線のスイッチは入れておくわ。もし無線が通じないようなら照明銃を撃ちましょう」
 ほどなくシヴァーから無線で連絡が入った。レイチェルの名でジャックの捜索願が出されていたのだ。ジャックが妹の死に激昂して無謀な行いに走ったのなら、妹の生存を伝えれば思いとどまってくれるだろう。
 しかしカララクは静かに懸念を口にする。確認できたのは依頼者の名だけだ、レイチェルの無事を確実に保障するものではない。
 サルファはカララクの背を力づけるように優しく叩く。
「ジャックの方は任せたからな?」
 リゼットは、無線機から聞こえてくる雑音の中から仲間の声を拾い上げようと苦心していた。
「そろそろ通信限界ですね。言葉で状況を伝えるのはこれが最後になるでしょうから、最終確認をしておきましょう」


●駐留班

 梵阿は警察や有志の協力をあおぎ、町の中央近くにある古い学校に動ける住民を集めるよう指示した。そして手早く作成した一覧と、避難所にやって来た者を照らし合わせ、行方不明者や怪我人の把握に努める。
 あまりの忙しさで冷静さを失っていた警察だったが、的確な指示により混乱からいち早く立ち直った。そして警官の落ち着きが人々に少し冷静さを取り戻させる。

 雫は集まった人々に呼びかけた。
「私はLHから派遣された傭兵、御巫雫である。たった今、私の仲間が、キメラ討伐に向かった。その間、町の警護を担当する。落ち着いて、皆、各々の隣人を確認して欲しい。怪我は無いか、居なくなった者はないか、教えて欲しい」
 若すぎる少女の言葉ではあったが、自信に満ち堂々としたよくとおる声は、聞けば不思議と彼女を信じようと思わされた。不安に身を寄せ合う羊の群れが、自らの意志で動く人間に戻ってゆく。無秩序に群がっていた人々が自然と列を作る。
「東区のものは右側、西区のものは左側だ。誘導に従って進んでくれ」


●追跡班

「あの人影――ジャックか?」
 サルファは繁みの中に座りこんでいる人影にライトを向けた。番が他のメンバーに呼びかける。
「あ、見つけた。居たよぉ」
 カララクが進み出て自分たちの身分と目的を明かすと、ジャックは目を見開いた。慌てた様子で傍らに置いた猟銃を探して手が彷徨う。

 アズメリアの耳には獣の唸り声がかすかに聞こえていた。彼女の右腕から黒い炎が皮膚を這い、全身に模様を浮かび上がらせる。
「いくら頭に血が上ってるとは言え、無謀な事をするわね‥‥」
 間一髪。彼らはぎりぎり間に合ったのだ。

 ジャックは仇に向かい駆け出そうとした。カララクは説得する余裕はないと判断し、覚醒するとジャックを羽交い絞めにする。ジャックの手から粗末な手斧が落ち、悲痛な叫び声が夜の森に響いた。だが一般人の力では覚醒した能力者に抗うすべもない。
「悪いが大人しくしてくれ」
 カララクは言いながら、仲間に目で先へ行けと伝える。番はわき目も振らずに先へ進みながら、「頼む」というように軽く手を振った。全員それぞれの武器を抜き、覚醒する。もう敵は間近だ。


●駐留班

 町ひとつの規模となると、たった三人と警官たちだけの手には余る。
 梵阿の視線は、いまだ行方知れずのレイチェルを求め彷徨っていた。彼女には呼びかけが聞こえないのだろうか。時間がたつほどに焦りがつのる。
 もはや彼女は自身を偽るつもりもなかった。任務からではなく、心から兄妹を救いたいと思っていた。

 梵阿が軽くため息をついたとき、小さな水筒が差し出された。
「まだ小さいのに頑張ってくれてありがとう」
「任務ですから」
 梵阿はぶっきらぼうに答えて軽く頭を下げると、好意を受け取った。冷たい水は心地よく喉にしみこんだ。水をくれた女性は、何人かの若者を連れていた。
「私たちに何か手伝えることはない?」
「列の整理くらいならできるよ」
「北区の点呼は俺たちが取る」
「声の大きさには自信があります。呼びかけやります!」
「ありがとう、今は少しでも人手が欲しい」
 答えたのはいつの間にかやって来ていた雫だった。彼女は梵阿に向かい、いたずらっぽく笑う。
「これで妹捜しに集中できそうだな」
 梵阿は眉根を寄せ頑なに繰り返す。
「任務のためだ」
 そこへ、医療班のシヴァーから無線が入った。
「北区でレイチェルさんらしい人が見かけられたそうです。負傷者を重点的に捜してみてください。わたくしもすぐ向かいます」


●追跡班

 闇の奥から何かが走ってくる。そう認識した時にはもう、四つ足の獣が迫っていた。鋭い角を持つ、獅子と牛を足したようなキメラだ。
 サルファは一瞬背後に視線を走らせた。まだジャックがいる。ここで避ければ巻き添えになる。
「行かせるかよっ!」
 彼は踏みとどまってユンユクシオを地面に突き立て、突進の勢いを殺そうとした。肩が軋み、血がしぶく。キメラは完全に勢いを止められ、怒り狂って吠えた。
 リゼットの左手に浮き出た青白い蝶のタトゥーが、文字通り闇に舞う。黒い刃がひらめき、硬い皮膚を裂いてキメラの体に無数の傷を刻んだ。
「逃がさないわ!」
 リゼットは巧妙に位置取りをしてキメラの退路を断ち、危険な角の突進を封じている。動きを封じられたキメラは、闇雲に角を振り回した。
 空を凪いだ角のほんの数ミリ先を音もなくアズメリアが動いた。体に刻まれた黒い炎が揺らめいたように見えたかと思うと、月詠がキメラの体をえぐる。
「これ以上の被害を出す前に、倒させてもらうわよ」
 ささやいた彼女の剣が変化した。最初の一撃とは正反対の、力任せの剛剣がキメラの強靱な体を打ち砕く。ぼきりと鈍い音がし、キメラは苦痛の悲鳴を上げた。

 ジャックはカララクの腕を振り払おうと暴れ、子供のように喚く。カララクは彼を引き倒し、馬乗りになって押さえつけた。襟を掴み強い口調で怒りをあらわに叫ぶ。
「頭を冷やせ! お前の大切な妹が、復讐を望むとでも思うのか!!」
 ジャックは声に殴られたかのように震え、つぶれた声でうめいた。
「レイチェルは俺に唯一残されたものなんだ。‥‥もう俺に生きる意味なんかない」
 カララクには親も兄弟もない。真に彼の気持ちを理解することなどできはしないかも知れない。だがそれでも、兄が無駄に命を捨てることを、妹が喜ぶことはないだろうと思った。
「‥‥彼女の事はお前が一番良く知っている筈だ。頼む。解ってくれ‥‥」
 カララクは襟から手をはなし静かに語りかける。あえて彼女が生きているかもしれないことは告げなかった。
 彼の言葉が慈雨のようにジャックの心にしみこんでゆく。やがてジャックは力を抜くと、顔を歪めて大粒の涙を流し始めた。

 アズメリアの視界の端に、一条の輝きが闇を切り裂き上ってゆくのがうつった。合図を知らせる声に緊張が走る。長い十秒が過ぎ、サルファの蒼く染まった瞳が、再び天をはしった希望の輝きをとらえた。妹生存の合図だ。
「あの合図‥‥! カララク!」
 サルファの口調で全てを悟り、カララクは静かに立ち上がると告げた。
「妹さんは無事だ」


●駐留班

 呼びかけに応じて現れたレイチェルは、腕に痛々しいあざ、顔に軽い擦り傷はあるが、元気そうだった。シヴァーが事情を話すと、目を見開き青ざめる。
「どうして!」
「あなたが殺されたと思い、仇を討とうとしているのです」
 合図を撃ち戻ってきた雫が無線片手に難しい顔をする。
「距離がありすぎて無線が通じない」
 梵阿は『思い込みが激しい』というジャックのことを考えつぶやいた。
「合図だけでは信じないかも知れん。声を聞かせてやるべきだと思う」
「で、あるか‥‥通信が途切れてからそう時間は経っていない。少し森に入れば、あるいは‥‥」
 シヴァーは、怪我をしている方にお願いするのは心苦しいのですがと前置きをして、レイチェルに同行を求める。
「あなたのお兄さんを救うために、少々お力を貸していただきたいのです」
 レイチェルは白くなった手をぐっと握りしめ、気丈にうなずいた。


●追跡班

 カララクが照明銃を撃ち、ジャックの擦り傷の手当を終えても、彼はまだ呆然と座り込んでいた。
「生きているなんてウソなんだろう。俺を連れ戻すために気休めを言っているんだ」
 余程目撃した悲劇が強く脳裏に焼き付いてしまったのだろう。もう彼の記憶では、妹が助けを求めながら食われていく情景がはっきりと像を結んでいるようだった。
「行こう、ジャック。お前の目で事実を確かめるんだ。歩けるな?」
 さしのべたカララクの手を、ジャックは迷いながら取り、ふらふらと立ち上がった。

 サルファが流れるような動きでキメラの側面に回り込む。
「喰らえっ!」
 ごきりと鈍い音がしてキメラは地に伏した。太い足を引きつらせ、泡を吹き、だらりと舌を垂らし、獣は息絶えたように見えた。
 その時だ。今までずっと耳障りな雑音だけが聞こえていた無線から、女性の声が飛び出した。
「‥‥にい‥‥ん! いる‥‥に‥‥さ‥‥! レイ‥‥ル‥‥!」

 ジャックをはじめ全員がその声に気をとられた一瞬、キメラは弾かれたように身を起こし、闇雲に走り出した。
 しかし立ちふさがった小さな影があった。無表情に大剣を捨てると、予備の剣を構え、まるで無防備に行く手を阻む。キメラは人影に真っ直ぐ突っ込んだ。影は鋭い爪にかかってあっさりと倒される。
 だが。そのまま逃げ去るかと思われたキメラは大量の血を吐いてその場にどさりと崩れ落ちた。何事もなかったかのように下から這い出した番は、自分の怪我と返り血で全身真っ赤だった。彼女は無造作にキメラの喉に突き刺さったイアリスを引き抜く。
 キメラは今度こそ完全に息絶えていた。

 リゼットが止血をしようと番の姿を探した時にはもう、彼女の姿はどこにもなかった。血の跡だけが転々と町の方へ続いている。
「もう、いらないな‥‥」
 リゼットはかすかに、そんな声を聞いた気がした。


●帰還

 町に戻ったジャックは初対面の少女たちにいきなり叱られることになる。
「僅かでも味わった、残された者の絶望を忘れたか!」
 と、梵阿。
「たわけ者が! 貴様の妹が、キメラに逆上して同様の行動を起こしたら、貴様はどう思う!!」
 と、御巫。
 大の大人が胸の高さほどもない娘二人に責められる様は滑稽というほかない。ジャックはうなだれて謝った。

「‥‥しかし、無事で良かったのである」
 微笑んだ御巫が示した方から、シヴァーに付き添われたレイチェルが歩いてくる。ジャックの顔がぱっと明るくなった。レイチェルは兄の姿を見るや駆け出し、ジャックが広げた腕にまっすぐ飛び込む‥‥かと思いきや。
「バカ! このバカっ! みんなに心配かけて! 私だってどんなにっ! キメラに向かっていくなんて、ほんと、ばっかじゃないのっ!」
 目で助けを求めるジャックに軽く肩をすくめて見せ、シヴァーが満面の笑みで言う。
「さてさて、いわゆる感動の再会という奴です。邪魔者は退散するとしましょうか」

 立ち去る傭兵たちの背後で、レイチェルの声は涙で歪み始めていた。背に幾度となく投げかけられた感謝の言葉に、梵阿はわずかに目を伏せ、微笑んだ。
「儂は己を救いたかっただけだ‥‥」

 サルファは昔のことを思い出していた。彼自身にもかつてはあった、暖かい家族の情景を。
「――家族、か‥‥」
 彼は還らぬものを思い、静かに、どこか寂しそうに微笑み、傍らを歩くカララクに声をかけた。
「――俺の店で、飲むか?」
 カララクは穏やかに唇を緩めた。
「ああ、寄らせてもらうよ。マスター」

 キメラを倒すのみならず、町の混乱を迅速に収め、その上ジャックを救った。
 その働きは大成功と言っていい。
 数日後、傭兵たち宛に小さな包みが届いた。あの町の名産だというメープルとワイルドベリーをふんだんに使用したケーキ。そして、ジャックとレイチェルの、そして救われた町の皆からの手紙が箱いっぱいに添えられていた。