●リプレイ本文
正午、昼、晴天の下。
ベンチに座る老人。隣には、白銀の髪の男性が座っていた。歳の差は、祖父と孫ほどにも離れていただろう。一人は、かつては弓の世界にその人ありと謳われたシグナス。そしてもう一人は、傭兵のラウル・カミーユ(
ga7242)だ。
空は澄み渡っていて、遠い遠い雲の先まで見渡せるかと思うほどに、綺麗だった。
天気が良いと何でも上手く行きそうとはラウルの談で、ただ、その手元に広がる見よう見まねのお手製和風弁当は、かなり国際色豊かというか、ところどころ微妙にピントのずれたおかずが詰められていた。
「その時その時を活かせるよーに、なりたいネ♪」
珍しく聞き手に回ったシグナス。
口を挟む暇も無い程に言葉を繋げるラウルを前に、意外と落ち着いた表情で、うん、うんと頷いていた。
――ふと、顔を上げた。
ほのかな笑みを見せて、誰かが立っている。
「こんにちわ、お爺さん‥‥」
傍らに立ったのは、なつき(
ga5710)だった。彼女もまた、傭兵だ。
●シグナス
老人は、弓道界に名を轟かせた男だった。
しかし、それも過去の事。バグアの襲来以降、世界は様変わりした。能力者でなければ、とてもではないが、戦えない。ただの人間は、戦闘に必要とはされなくなって久しい。その上、弓道なぞという『趣味』には、誰も構っていられなくなってしまった。
今は既に、彼を持て囃す人間はいない。
煙たがる人間、哀れむような人間であれば、幾らでも見かけるのだが‥‥。
そんな彼の、私宅。隣には、弓道場が並んでいた。
だが、弓道場も閑古鳥が鳴いていたりして、彼が足を踏み入れるその背中は、余計に物悲しい。
「へえ、これは‥‥」
足を踏み入れたNATZ(
ga6948)は、思わず感嘆の声を漏らした。
如何にも寒々しく見えた道場は、それでも、きちんと清掃されている。だが、道場を見渡すNATZに対して、シグナスは、NATZの口元をじいと見詰めた。
「お主、道場に入る時は、ガムはやめぬか」
咎められて、はたと気付く。
常に口にしているガムを紙に包み込み、詫びた。が、老人からの叱責はまだ止まらない。あーだ、こーだと、長く長く叱責した挙句、溜息一つまで織り交ぜ、それからようやっと気が付き、皆へ上がるよう促す。
想像以上の偏屈、なのかもしれない。
皆、訪れた理由はそれぞれだ。
NATZは弓の指南を受けたいと思ったからだし、老人が寂しそうだと感じた来栖 晶(
ga6109)や、シグナスから学ぶものがある筈と考えた者もいる。そして‥‥
「へえ、じっちゃん弓の凄い人だったんだ!?」
「本日夜半、美海は戦地に赴くのです。願わくば、シグナス殿には最後の見送りの言葉を賜りたく‥‥いはいいはい」
ぴしりと喋る美海(
ga7630)の言葉を遮って、シグナスの拳が頭をぐりぐりと押さえつけていた。
「最後とはどういう意味じゃ」
頭頂部をさすりながら、美海は座り込んだ。
「一期一会の精神ですよ、ね?」
「ム‥‥」
霧雨 夜々(
ga7866)が、とりなそうと間に割って入る。持ち前の明るい声が当たりに響いて、僅かばかりでも、その場の空気を柔らかくしている。
ぷい、と眼を逸らし、シグナスは壁に近寄った。
そこに、弓があった。
「これがシグナス様の弓‥‥」
木花咲耶(
ga5139)が呟き、弓をじっと見つめる。彼女自身、弓道を嗜んでいる。その彼女にとって、弓道の達人、そして彼の弓を前にする事は、格別感慨深い。そんな彼女の横に、夜々が立つ。
「良い弓だね。使い込まれてるけど、きちんと手入れされてて、年季‥‥いや、貫禄、って言うのかな」
「それでも、戦いには使えんよ」
呟くシグナスは、しかし自分の弓には触れず、NATZへと眼を向ける。
「よし、型を見てやろう。引いてみろ」
洋弓に矢をつがえ、NATZは弦をひく。
小枝を手折るような音を響かせて、矢が飛んだ。
一呼吸。おいて、弓を下ろした。
「‥‥雑念がある」
「え?」
「わしは、洋弓の事は詳しくしらん。しかしな、お主が的以外のものを考えていたのは解る。なんだ、言ってみろ」
参ったな、という感じに、NATZはきょとんとする。
が、それでも恥かしさ交じりに、口を開いた。
「私、将来は花屋さんになりたい。いつか、KVもこんな弓矢も世の中に必要がないくらい平和になったら、沢山のお花に囲まれて暮らしたいの」
「ならばだ、その願いを叶えるには」
「解ってる。その為に私、弓を引き続けるわ‥‥私の一矢が皆の希望を射抜くまで‥‥」
別に聞き咎めた訳ではない。
ただふと、咲耶は、自分の想いを口からこぼした。
「大切な人々を護り、世界の平和を願いながら戦うのも大事ではあります。しかし、それだけではなく、人類が先祖代々、守り継承されてきた伝統や精神を守るのも、大切な事です‥‥」
「当然だ」
鼻をならし、シグナスはじろりと二人を見た。
「だがな。戦場では、伝統や精神を己に刻み付けていようと、役に立てぬのだ。エミタに適合しておらねば、モノの役には、の‥‥」
恨み節でも聞かせるように、シグナスは呟く。
しかし――と、咲耶は思う。自分達能力者とて、逆に言えば、そのエミタによって力を得ているに過ぎない。覚醒しなければただの人。シグナスには、遠く及ばぬだろう。いや、弓を射る、その心を知るという意味であれば、能力者であろうと、とても及ばぬのではないか、と。
「シグナス殿、弓に触っても宜しいですか?」
「あ、自分も引いてみたーい」
弓を指差す美海に、挙手するラウル。その弾んだ声とは裏腹に、瞳は、真面目そのものだ。構わない、と応ずるシグナスの言葉を聞いて、美海は弓を手にした。
美海も日本人。和弓の扱いは、多少は聞き及んでいる。
だが、形をとろうとしたのに、どうしても、弓を引けない。
和弓は長い。その長さと言えば、2mを遊に越すのが標準で、頭が1mを越すか越さないかという美海にとっては、その長さだけでも構え難い‥‥ただ、彼女が弓をひけなかったのは、そんな事が理由ではない。
シグナスの弓は、重かった。
弦がではない。老人と共に歩んできた、弓の記憶とでも呼ぶべきものが、美海を圧倒したのだ。
「引けないのですよ‥‥」
引きかけた弦をそっと戻し、美海はラウルに手渡す。
逆にラウルは、弦を摘むや否や、さっと、肘を退げた。弦が張り、ぴしりと、空気が引き締まる。
「――真っ直ぐ、カナ?」
誰に言うとでもなく、呟いた。ものは、言い様。悪く言えば、頑固。良く言えば、強固な意思を感じられる。いや、現にラウルは、それを感じた。自分に足りないものかも――そう思って、つい苦笑いする。
ついと、弦が戻される。
「良い弓なのは確かさ。見ているだけでも解るよ」
NATZの言葉に、夜々が頷く。
「ボクはスナイパーじゃない」
金髪を揺らし、精一杯背伸びでもするかのように、上へ上へと、言葉を続ける。
「でも、おじいちゃんがその弓を大切にしている事だけはボクにだって解る。きっと、その弓もおじいさんのことを信頼してるはずだよ」
皆の言葉を聞いても、シグナスはただ、小さく頷くだけだった。
なにかを返そうとしても、使うべき言葉が見付からぬかのように、口は沈んでいる。
静観を続けていた晶が、一歩前に出た。
「良い弓だ。だがくすぶってる」
ポケットから林檎を取り出して、彼は告げる。
「ひとつ、賭けをしよう」
●弓が射るもの
右腕を青色に輝かせ、晶が立っていた。
頭の上に林檎を乗せた彼は、本来なら的があるべき場所に立って、じっとしている。
林檎を射落とす事ができれば、シグナスの勝ち。射落とす事ができなければ、シグナスの負け。負ければ、晶に弓を教える。だが勝ったなら、晶は、シグナスを戦場へ連れて行くと約束した。
SESの搭載されていない、ただの和弓。
作法通り、的に対して身体を垂直に置き、ゆっくりと足を開く。掲げた弓、添えられた矢。矢に力は掛けない。身体の流れに任せ、ただ、弓と矢を下げていく。それだけで、自然と胸が張り、弦が、堅く伸びきる。
一瞬の間。
張り詰めた空気が、一筋に走ってほぐれた。
殺人事件はお断りだ。晶はそう思って、もしもに備えて覚醒していた。だがそれも、彼の余計な心配に終った。
「爺さん、あんたの勝ちだ」
林檎から矢を引き抜いて、晶が笑みを見せた。
約束通り、戦場へ連れて行く‥‥そう言い掛けて、二の句が続かなかった。シグナスは賭けに勝った。勝ったのに、俯き、肩を震わせている。
「爺さん?」
「もういい。もういいんだ」
静かに首を振る。
「解っていた。戦えぬ身である事ぐらい、解っていた。それでも、年甲斐も無く、拗ねてみたくなったんだ‥‥」
「美海は戦地に赴くのです」
誰もが押し黙っていた中で、ぽつり、ぽつりと、一つ一つの言葉を選ぶように、美海が喋りだす。その様子は、困ったようでもありながら、きちんと自分を貫いての言葉だった。
「でも、勝って帰って来る為に行くのです。皆の未来の為に行くのです。だから、帰ってきたときの為にも、見送りが欲しいのです」
「‥‥弓道は、自分との戦いと聞きます」
なつきが傍らに歩み寄り、自身の弓を見せた。
「私は、まだ、これでキメラを射る事しかできませんが‥‥命を奪う事よりも、自分と向き合い、見詰める事。それはとても難しい事です」
貴方は、一番の相手と、戦えています――最後の言葉はとても小さく、シグナスの耳に届いていなかったかもしれないが、それでも、彼には、その後に続くであろう言葉が、朧げに、想像できた。耳に響いていた。
●後日談
『厄介爺さん』は、変わらず出没していた。
出撃前の傭兵をふらりと捕まえては、役に立つような立たないような、小難しい講釈を聞かせる。話の途中で逃がしてもくれない。
ただ、出没する回数は減った。
シグナスにしても、小言だけを言っている訳にはいかなくなったからだ。
何故なら、今の彼は、新たな傭兵達に、弓を教えているからだ。
代筆:御神楽