タイトル:Singerマスター:佐伯ますみ

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 8 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2011/07/26 23:34

●オープニング本文



 ねぇ、フランツ。
 私、あるお客さんからプロポーズされたの。
 どうすればいいと思う?
 条件はとてもいいの。その人は資産家で、歳は私より十も上。だけど優しくて穏やかで、身分だとかそういったものは気にしない。私のこと、とても大切にしてくれると思うわ。
 ご両親はもう随分前に亡くなられてるんだって。大きなお屋敷で、使用人と犬と暮らしているそうよ。
 もしプロポーズを受けたら、私は今の仕事を辞めなきゃならない。
 そうよね、場末のクラブを点々としてる歌手なんて、資産家の妻には相応しくないもの。
 ねぇ、フランツ。
 どうすれば‥‥いい?


「どうぞ、フランツ様」
「僕はアーベルです。フランツは、死んだ祖父の名前です」
「承知の上でございます、『フランツ』様」
 そう言って、彼は眉一つ動かさずにその扉に手をかけた。
 大きな扉は、嘘のように静かに開く。
 僕の実家にもこんなに大きな扉はない。ピアニストとして成功した祖父が建てただけあって、実家はかなり大きな家だが、この屋敷には到底敵わない。
 一体、ここにはどんな人物が住んでいるのだろう。
 この部屋の主は、なぜ僕を呼んだのだろう。
 なぜ僕を――祖父の名で呼ぶのだろう。
 部屋の中央には天蓋付きのベッドがあり、どこかから淡い薔薇の香りがした。僕はこの香りを知っている。祖父が好んでつけていた女性ものの安物の香水だ。
 なぜこれを、と訊いてみたことがある。祖父ならもっと高い香水だって手に入るだろうに。僕は不思議で仕方がなかった。
 ――昔、まだ売れなかった頃に素晴らしい歌手と組んでいてね。これは彼女がつけていた香水なんだよ。いつも一緒に仕事をしていたから、自分もこの香りがないと落ち着かなくなってしまって。
 そう言って笑う祖父はどこか寂しげで、失った何かを探すように視線を彷徨わせていた。
 僕はそのとき、祖父はその歌手のことが好きだったのだと悟った。それ以来、香水については何も問わずに、祖父が死んだときには柩にも入れた。
 その香水の香りが、この部屋に漂っている。
 僕の心臓は早鐘を打つ。
 そして――。
「来てくれたのね、フランツ――!」
 ベッドの中、上体を起こした老女が満面の笑みを浮かべた。


「フランツ、窓を開けて風を入れてくれる?」
「わかったよ、マリー」
 僕は言われるがままに、窓を開ける。広いバルコニー、吹き込んでくる生ぬるい風。
 この屋敷に来て一ヶ月が過ぎた。その間に、色々なことがわかった。
 屋敷の主は、マリーという老女。夫であった男性と、二歳になる息子は結婚して数年後に事故で他界し、それからマリーの心は時を止めてしまったのだという。
 元は売れない歌手であったマリーは夫の事業をよく理解し、彼の死後は遺志を引き継いで精力的に働いていたらしい。心は時を止めたまま、若く美しい「マリー」のままで。
 夫と息子を喪った瞬間で止まってしまった心とは裏腹に、体は正直に年老いていく。マリーはそれを「老化」ではなく「病」だと思い込んでいた。
 そして、本能で自らの死期を悟ると、「フランツ」に看取ってもらいたいと思い始め――「僕」を呼んだのだ。
 祖父は若い頃住んでいた土地から遠く離れた場所で、ピアノの恩師の娘と結婚した。ピアニストとして成功したのはそれから暫くしてのことだが、すでに時間を止めてしまっていたマリーのことだから、気づかなかったのかもしれない。
「死ぬ前にフランツ様にお会いしたいという方がいらっしゃいます。代わりに会って、しばらく住み込みで話し相手になってくれませんか」
 マリーの使いだという者達は、こう僕に告げた。
 僕はちょうど職を失ったばかりで時間もあったし、軽い気持ちで引き受けたのだが、まさか祖父のフリをすることになるなんて。
 ――そりゃ、僕は祖父の若い頃にそっくりだけれども。
 一言でいい、「僕は祖父じゃない」と突き放して、マリーに現実を見せれば済むだけの話だ。だが、そんな残酷なことはできなかった。
 そうしてずるずると一ヶ月。
 最初こそ上体を起こすくらいはできたマリーだが、今では完全に寝たきりとなっていた。
「ねぇ、フランツ、お願いがあるの」
 マリーはぼんやりと天井を見つめて言う。
「‥‥私たちが作った曲、ピアノで弾いてくれないかしら。私はそれに合わせて歌うわ。もう随分長いこと歌っていないから、少し不安だけれど――」
 ピアノなら祖父から手ほどきを受けていたから、充分弾ける。だが、ふたりの曲なんて知らない。
「えぇと、マリー。ふたりで組まなくなって随分になるから、僕も不安だな。楽譜、あるかい?」
 苦し紛れに訊いてみる。楽譜さえあればなんとかなるだろう。
 それに、ふと――マリーの歌声を聴いてみたくなったからだ。
 古い使用人達は口々に言っていた。
「旦那様が独り占めしたくなった気持ちが、わかるような歌声だった」
 と――。
 きっと、これがマリーの生涯最後の歌になる。
 そう考えるとなおさら、彼女の願いを聞き届けてやりたくなる。
「楽譜は‥‥郊外の別荘にあるわ。地図を渡すから、持ってきてくれる?」
 マリーは地図を僕に渡し、そしてどこに楽譜があるかを教えてくれた。
 ここからはそう遠くはない。朝出発すれば、夕方には戻ってこられるだろう。明日すぐに行くと告げると、マリーは嬉しそうに笑った。


「フランツ様」
 出発の準備を整えていると、使用人が部屋に来た。
 かなり神妙な面持ちで、彼は僕に告げる。
「別荘のバラ園に――キメラが侵入したそうです」
 彼に話によると、別荘の庭の大半はバラ園になっているらしい。そこにキツネ型のキメラが六体いるという。ただ、これは別荘の中からざっと数えただけであり、恐らくはもう少し多いに違いない。
 別荘の管理を任されている者達は、避難することもできずに別荘内に留まるしかなく、傭兵達の到着を待っている状態だ。傭兵達は明日の昼前には到着するという。キメラはそれほど強力そうではないため、排除は容易そうだが――。
 ひとつだけ、問題があった。
 それは、マリーが大切にしているバラ園のこと。
 そこに咲くバラたちはマリーが植えたもので、彼女がつけている香水にとても近い香りの品種だという。開花のピークは過ぎたようだが、キメラとの戦闘によってひどく荒れてしまえば、来年はどうなるかわからない。
 そして、マリーも――。
 先の短いマリーの、命の灯火。それをさらに縮めてしまうことになるのではないか。
 それだけは、避けなければ。
 僕はまだ、マリーに訊いていない。祖父をどう思っていたのか。
 だが、最期に祖父に会いたがったということは――。
 マリー。
 あなたの話を、訊きたい。本当のことを知りたい。心を知りたい。
 歌を――聴いてみたい。
 そして僕は、出発の準備を進めた。
 どうかバラ園を守って欲しいと、傭兵達に「依頼」するために――。

●参加者一覧

石動 小夜子(ga0121
20歳・♀・PN
メアリー・エッセンバル(ga0194
28歳・♀・GP
新条 拓那(ga1294
27歳・♂・PN
キア・ブロッサム(gb1240
20歳・♀・PN
常 雲雁(gb3000
23歳・♂・GP
澄野・絣(gb3855
20歳・♀・JG
日下アオカ(gc7294
16歳・♀・HA
星和 シノン(gc7315
14歳・♂・HA

●リプレイ本文

 そのバラ園は中央に通路があり、左右対称が美しいフランス式庭園と呼ばれる形をしていた。庭園を一望できるバルコニーもあり、メアリー・エッセンバル(ga0194)による状況把握や澄野・絣(gb3855)による狙撃もしやすいだろう。
 少し離れた場所から様子を見ていたアーベルが、門の前に集まっている能力者達に恐る恐る歩み寄ってきた。
「あの、僕は――」
 アーベルは簡単に自己紹介を終えると、ぽつりぽつり事情を説明する。能力者達はこの依頼に必要なデータは事前に知っているはずだが、それでも自分の口から説明したかった。
 説明して、そして「依頼」したい。
「‥‥どうか、どうかバラ園を‥‥守ってください。マリーのために‥‥」
 体の奥から絞り出すような声。メアリーが腰に両手を当てて、やや大仰に言う。
「暑さで薔薇達も体力が落ちる時期にバラ園荒らしとは良い度胸‥‥! この手で叩く、と言いたいところだけど、正直戦闘で庭園が荒れる確率の方が高い‥‥。ここは『庭師』に徹しますか!」
「あ‥‥」
 アーベルに言い聞かせるような言葉に、彼は思わず息を呑んだ。
「大切な場所を荒らされたと知ったら、元気な人でも臥せっちゃうよね。また来年も咲き誇るバラを見てもらえるように、被害を抑えながら戦うね」
 星和 シノン(gc7315)が笑む。
「ありがとうございます、よろしくお願いします‥‥!」
 アーベルは何度もそう言って、皆の顔を瞼の裏に焼き付けた。

「綺麗なところだね〜。何も無ければこのまま庭園散歩でもしたいところだけど‥‥」
 新条 拓那(ga1294)は石動 小夜子(ga0121)と共に、庭園内の通路を巡回する。
「思い出の楽譜を置いておく程の場所ですもの‥‥。きっと彼女にとって大切な場所、なのですよね」
 だから、なるべく壊さないようにしたい――老婦人の願いが、叶うように。小夜子は拓那の横顔を盗み見た。
 キメラを倒すため、同じ班での行動となる今回。不謹慎かもしれないが、嬉しくないと言えば嘘になる。嬉しくて、頬が‥‥熱い。
「ふふ、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
 互いに笑みを交わし合い、改めて庭園の隅々まで意識を傾ける。

 庭師が手入れに使う道を選び、ゆるりと歩く。
 日下アオカ(gc7294)はマリーが使っている香水と同じものを自分に吹きかけ、自分を周囲のバラの匂いと同化させる。
「さて、吉と出るか凶と出るかですけど」
 アオカの言葉にキア・ブロッサム(gb1240)は頷き、バラへと視線を流す。キメラがアオカに襲いかかるなら、キメラはここのバラの香りに誘われてきたということになる。
「‥‥薔薇」
 キアはまだ残っている薔薇を見て呟く。
 人の恋や人生には興味がない。この依頼も極めて事務的に対応している。
 ――しかし、薔薇は好きだ。
 ほんの少しだけ長く薔薇に視線を残し、キアは微かに歩を早める。
「‥‥そろそろ‥‥キメラも動くでしょうね」
「そうですわね」
 アオカもその歩調に合わせ、先ほどのキアと同様の言葉を返した。

 常 雲雁(gb3000)は見取り図を手にバラ園内の細部を確認し、微かに目を細める。
「そんなに大切なバラ園なら、これ以上は荒らされたくないな。勿論、俺自身も荒さないように注意しないと‥‥」
「別班のアオのこと心配だけど、今は任務遂行優先! 狐の尻尾を、捕まえる、よ!」
 シノンはアオカを気に掛けつつも、自分に言い聞かせるように力を込める。
「じゃあ、準備しようか。俺達は‥‥メロン班、だな」
「ん? メロン班って何?」
「これ」
 きょとんとするシノンへ、雲雁は香水を一吹き。
「香水なんて持ってないから、友人に借りてきたんだ」
 相手は狐型だ。嗅覚もいいだろう。匂いに釣られて出てくるかもしれない。ダメ元ではあるが、試す価値はある。そして自分にも一吹き。
「メロンの香りがする‥‥だからメロン班?」
 くんくんと、雲雁の匂いを嗅ぐシノン。バラ園のなかでメロンの香りというのも違和感が凄いが、特に気にはしない。
「準備完了。あとは戦闘開始OKの報せを待つだけかな」
 雲雁は別荘のバルコニーに視線を移した。

 バルコニーには、裏口から入ったメアリーと絣。
「よく見えます‥‥ね」
 絣は腰の右側に吊した矢筒「雪柳」にそっと触れる。
 ここからは庭園を一望でき、他の六人がどこにいるのかも一目瞭然だ。キメラも見逃すことはないだろう。
 メアリーはバラ園の管理者から借りた植樹配置図と、庭園全体を確認。ざっと終わらせると、絣と共に頷きあう。
 絣が覚醒を遂げて破魔の弓に矢を番え、そしてメアリーが無線機に唇を寄せた。
「準備完了、戦闘開始OK!」

『九体確認』
 無線機からほぼ同時に、索敵していたアオカとシノンの声が響く。
 その情報を元にメアリーがキメラの居場所を確認、捕捉し、絣に伝える。
「さてと、上手く動いて頂戴ね?」
 絣が弓弦を引き絞り、弾く。何度も、何度も。矢が消えた先々で、不自然にバラが揺れる。
「キメラ移動開始!」
 メアリーが下で待機する者達に次々に指示を出し始めた。
『そちら、行きましたわよ』
 索敵で敵の動向を把握していたアオカが、小夜子と拓那に報せる。
「来ましたね‥‥」
 小夜子は通路に飛び出してきた狐を瞬天足で追う。反対側から拓那も同様に。
「まったく、すばしっこい‥‥けど、こっちだってすばしっこさがウリなんだ。逃げ切れると思うなよ!」
 二人に挟み込まれた狐は、再びバラの中へと戻ろうとする。だが、拓那は射線を外すように跳躍、やや上方から超機械γの電磁波を発生させ、バラ園への被害を抑える。
 そこにタイミングを合わせて小夜子が煙管刀を急所へと薙ぎ入れると、狐はどさりと倒れ込んだ。
「血で汚すのも良くないでしょうから‥‥」
 小夜子は大きめの風呂敷でその亡骸を包む。

『一体撃破、次、メロン班のほうに六体行く!』
 メアリーの指示が飛ぶ。
「一気に六体か‥‥」
 周囲の捜索を続ける雲雁。シノンの索敵があっても、敵は常に移動をする。スキル以外での捜索も必須だ。
 やがて、がさがさという音が近づいてくる。シノンが「もうすぐ来るよ」と頷き、雲雁は覚醒を遂げる。
 直後、狐はシノンを狙って次々に飛びかかってきた。
 シノンは疾風で回避、呪歌を放つ。先頭の狐が動きを止めた。そこに雲雁が瞬天足で入り込み、エクリュの爪で抉る。
 体勢を立て直したシノンは超機械「ビスクドール」で狐を迎え撃ち、再び雲雁の爪が一閃。
 死角に入り込んだ個体が雲雁を後ろから狙う――と、それを阻止するようにバルコニーから矢が飛来する。絣による即射だ。
「この距離でも十分狙えるのよ」
 弓弦を引き、先手必勝を乗せて放つ。続けざまにもう一矢。そこに合わせて雲雁の爪と、シノンのビスクドールが舞った。

『あと二体、出てこない。場所は‥‥』
 メアリーがキアに無線を送る。二体は他班の戦闘により、警戒を強めているようだ。
「出てきたキメラを潰していったほうが早いですわね」
 アオカが言うとキアは頷き、隠密潜行で裏に回る。そして狐達から少し距離を取り、閃光手榴弾を放った。
 アオカの元へと戻りながらカウントダウン開始、中央の路を目指して引く。ほどなくして閃光と爆音が響くと、狐が行動を開始した。
「接近。‥‥来ますわ」
 バラの香りに惹かれてきたのか、狐達がアオカを狙って姿を現す。その瞬間に超機械「スズラン」を鳴らす。
 小夜子と拓那が合流し、四人で二体を包囲。拓那の電磁波が放たれると、一瞬動きを止めた狐にキアのサーペンティンが突き込まれ、一体沈黙。
「もう一体‥‥こちらも、すぐに」
 キアは逃げようとするもう一体へと瞬天即で追いすがると、再びサーペンティンの刃を閃かせる。そこに小夜子の煙管刀も捻り込まれて、狐は二体ともバラの香りの中に沈んだ。

 全ての狐が沈黙すると、皆で亡骸を片付けた。血痕ひとつのこさないように、丁寧に。
「可哀想ですけど、仕方がありません、よね‥‥。今度生まれて来る時は、キメラではなく普通の狐として生まれてきますように‥‥」
 風呂敷に包まれた亡骸に、小夜子は言葉を寄せる。
 その合間に、絣は皆の傷を救急セットで治療していた。かすり傷程度でしかなく、絣は安堵する。
 それらが終了すると、今度はバラ園だ。メアリーは戦闘ルートを確認する。
「ここと‥‥ここ、それから‥‥」
 見取り図やバラ園に印をつけていくキアとシノン。戦闘場所、歩いた道やキメラの通り道、被害の出た場所やありそうな場所をメアリーに伝える。
「かけがえの無い思い出の場所なんだから、ずっと綺麗なままであって欲しいね。また来年も、鮮やかな花が咲くように」
 拓那が願いを込めて、折れた枝を拾い上げる。
 そのためにも、損傷箇所のケアが可能であるといいのだが――。
「えーと、やるべきことは‥‥痛んだ樹木の剪定、根継ぎ、追肥、痛めた芝の植え替え、レンガ取り替え‥‥他にもあるかな」
 どうやらケアは可能なようだ。メアリーは別荘のバラ園管理者と相談する。
「それで大丈夫でしょう」
 管理者が頷き、そして修復が開始された。

 修復が完了すると、アオカは損傷の激しかったバラへと歩み寄る。その様子を見て、メアリーがアーベルを呼ぶ。
「ひまわりの唄を歌うだろうから、ピアノ伴奏お願いできるかな」
 枝などの再生はしないが、元気にはなる。そして、「治って欲しい」という想いは強く伝わるはずだ。
「バラに歌を?」
 アーベルは眉を寄せた。
「お父様なら、そうすると思っただけですわ」
 アオカはアーベルを見つめ返す。
 ただバラの咲く、人の生きる姿に感動できるかなど、それこそ人によりけりだ。
 だが、バラを一生懸命に生かそうと願う人がいる。
 ダメだと思っても、諦めずに花の咲く力を信じる人がいる。
 ――全く異なる音との調和。
「アオに出せる音は限られる。でも、それができると気づくことが、大切なのかもしれませんわ」
 アオカの言葉にアーベルは頷く。そして、必要な伴奏の確認を終えると別荘へと駆けていく。
 ほどなくして、二階の一室の窓が開いた。
 そして――静かに響く、黒鍵と白鍵の音。
 そこに重なる、アオカの歌声。
「マリー様もよく、バラに歌を」
 管理者が目を細める。誰もが頷き、耳を傾ける。
 バルコニーには、キア。
 透き通る歌声と、それに包まれるバラ園。
 その景色を楽しみ――風に煽られた髪を軽く押さえる。
「‥‥ま‥‥この景色が追加の報酬、かな」
 僅かに頬が緩んだ。

 皆は楽譜を手に入れたアーベルと共に、マリーの屋敷へと向かった。
「バラは意地っ張りの寂しがり屋なんですよ。棘で体を覆っているのに、その香りで愛する人を惹きつけてやまない。そんな薔薇が、私は大好きです」
 残っていたバラを切り花にし、マリーに渡すメアリー。
 もし彼女の命が来年までもたなくても、最後の香りを直接楽しめるようにと。
「意地っ張りの寂しがり屋‥‥私とフランツみたいね。ありがとう、とても良い香りだわ。‥‥フランツ、早速ピアノを」
 マリーは上機嫌でアーベルを見る。
「あの、一緒に‥‥笛を吹かせてもらってもよろしいでしょうか」
 控え目に絣が伴奏を申し出た。もちろん、ふたりの邪魔をしないようにするつもりだ。
「あら、嬉しい! 私ね、一度で良いからピアノ以外の楽器とも歌ってみたかったの」
 マリーは二つ返事で絣の申し出を受ける。
「ま、待って、その前に! メロン班、シャワー!」
 メアリーが慌ててメロン班に厳命する。バラの香りに混ざるメロンの香りは結構強烈だ。
「それもそうだね」
「すぐ戻ってくるから待ってて! 行こう、ユン兄ちゃん」
 雲雁とシノンは部屋を飛び出していく。
「あらあら」
 彼等の様子に、マリーは楽しげに笑みを溢した。

「じゃあ、改めて‥‥よろしく、フランツ。そして絣さん」
 メロン班が戻ると、アーベルがピアノの前に座る。マリーは少しだけ上体を起こして、軽く発声練習。
 アーベルの指が滑らかに動き始める。
 絣の横笛「千日紅」が、それを追いかけて音を紡ぐ。
 そして――マリーが、喉を震わせた。
 歳を重ねたとは思えないほどに艶やかな声。
 部屋に響く、しっとりとした――それは、ラブソング。
 そこにあったのは、紛れもなく「フランツ」とマリーがかつて恋人であった証。
 話を聞くまでもない。聞かなくても、伝わる。アーベルの指が、震える。
「マリーさんとフランツさんの、二人の愛が魅せる世界‥‥」
 聞き取れないくらいの声で呟き、隣にいるアオカを盗み見るシノン。
 ――しぃとアオなら、どんな世界を奏でられるのかな‥‥。
 この歌のように、込められた想いと世界を聴き手に伝えられるだろうか。
 シノンの視線を感じながら、アオは考えていた。
 人を打つ音楽とは、一体何なのだろう。
 ――技巧に優れるだけでは、至れませんの‥‥?
 ふと、音楽家の父の言葉を思い出す。
 ――御伽噺の中の道化も魔法も音楽も、全ては人を笑顔にする手段に過ぎないんだよ。
 ただ極めた者が使う魔法だから感動するのではない。
 そこに‥‥込められるもの。
「‥‥少しだけ、わかった気がしますの」
 呟き、シノンに視線を返して頷く。
 歌は続く。マリーの眼差しはずっとアーベルに向いている。
「‥‥きっと彼女もアーベルさんの祖父のことが好きだったのですよね‥‥」
 この恋歌を、これほどまでに大切そうに歌い上げるのだから。
「‥‥何だか、胸が痛いです‥‥」
 恋人の手をそっと握り、唇を噛みしめる。切なくて、痛い。
 拓那はマリーの歌と由来を思い返し、少ししんみりとする。
 自分も、小夜子にとって永く想い続けてもらえるような存在になりたい。
 この歌にもそんな想いが込められている。
 重なりながらも、絡まることのなかった想い。
 今この瞬間が、マリーにとって幸せなものであるといいのだが。
 拓那は小夜子の手を強く握り返した。
「決して‥‥値のつけられない、歌‥‥かな」
 キアが言う。
 かつて彼女達が場末で歌ったとき、客は金を払っただろう。
 だが、今のこの歌には評価というものが無粋かもしれない。キアは歌声と薔薇の香りに目を閉じる。
「‥‥マリーさん?」
 歌が終盤にさしかかると雲雁が何かに気づき、眉を寄せた。メアリーも気づいていたようで、小さく頷く。
 マリーは起こしていた上体を、それはとてもゆるやかに横たえていく。
 歌は微かなハミング。だが、この箇所が本当にハミングなのか、それはわからない。
 歌う力の消えた彼女が、精一杯声を絞り出しているのかもしれない。
 ふわりと、大きな枕にマリーの白い髪が包み込まれていく。
 もう、誰もが気づいていた。
 もちろん、アーベルも。
 絣がそっと伴奏を終える。
 やがて、そのハミングは‥‥静かに、静かに、消えていく。
 老婦人の顔に、穏やかな笑みを残して。

 ――バラの香りの中、ピアノの音だけがいつまでも響いていた。