タイトル:EDEN ―ブランコ―マスター:佐伯ますみ

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 8 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2010/09/19 14:36

●オープニング本文


 ただ、そこにあったのは――赤。
 果てなき蒼天も、丘を覆い尽くす花々も。
 まるで楽園のような景色の全てが色褪せ、姿を消す。
 目を焼くほどに真っ白な世界を、自分だけが見ている。
 唯一の色彩を放つのは修道服に身を包んだ彼女と、それから彼女の双眸から散る赤き涙。
 叫ぼうにも、喉をやられて声が出ない。
 手を伸ばそうにも、立ち上がる力さえない。
 倒れゆく彼女に背を向けて立ち去るのは大型の獣達と――。
 なぜ自分はこんなにも無力なのかと――思うことさえ許されない瞬間だった。


 その修道院は街の喧噪から離れた緩やかな丘の上、森への入口を守るかのように佇んでいる。
 築年数はどれくらいだろう、正確な年数は知らないがかなり古さを感じる建物だ。隣には孤児院が併設され、森や丘を庭代わりにして子供達が駆け回る姿が目に入る。
「今年も多額のご寄付をありがとうございます、ジェフリート様」
 盲目のシスターはそれを感じさせない挙動で紅茶を淹れると、ジェフリート・レスターへと差し出した。ジェフは無言で受け取り、角砂糖を三個落とす。
「いつも三個なのですね。彼と同じ」
 シスター・ヘレナ・オルコットは穏やかに笑み、今度は子供達の成長記録をテーブルの上に積み上げた。
「シスター・ヘレナ。光のない生活にはもう完全に慣れたようだな」
「はい。三年前‥‥この周辺を襲ったキメラ達に目を斬られた時は、絶望にさえ堕ちましたけれど‥‥子供達や他のシスター達、そしてジェフリート様に支えていただいたお陰で、今こうして立ち直ることができました」
「それならよかった」
 頷き、ジェフは成長記録に視線を落とす。前に来たのは三ヶ月前だったか。成長期の子供達はたった三ヶ月でも変化がある。ひとりひとりの変化を、時間をかけて眺めていく。
「あの‥‥ジェフ様。イーノスの行方は‥‥まだ‥‥」
 ヘレナは少し遠慮がちに呟く。
 イーノス――イーノス・ラムゼイ。彼女の幼馴染みの名だ。ヘレナと共にこの孤児院の出身で、赤子の頃から一緒にいる。イーノスは傭兵の道を選び、ヘレナは聖職者の道を選んだ。それぞれに、孤児院の子供達の未来を守りたいと願ってのことだ。
 だが三年前、修道院の裏手にある森にキメラの大軍が押し寄せ、イーノスは仲間達と善戦したものの敗北、そして逃げ遅れたヘレナはそのうちの一体に目をやられ、光を失ってしまった。
 イーノスは重傷を負ったものの命に別状はなく、再び傭兵としての活動を始めるはずだったが――突如として、ヘレナの前から姿を消してしまった。
「月に一度は帰ってきていたイーノスが‥‥帰ってこなくなって。私はまた絶望に堕ちかけていました。でも、ジェフリート様。イーノスのご友人だというあなたが来てくださって‥‥どれほど救われたことか」
 ヘレナは儚げに笑みを浮かべる。
「それどころか、この孤児院への多額の寄付まで。‥‥ねえ、本当のことを教えてくださいませ。この寄付はもしかしたらイーノスがあなたに託しているのではないですか? あなたは彼に頼まれてここに来ているのではないですか? 彼は本当は――」
 本当は、二度と起き上がれないほどの傷を負って、どこかで治療しているのではないですか――。
 それはいつものヘレナの台詞だ。ジェフはその台詞が紡がれる前に首を横に振る。
「本当に、行方不明なんだ」
「そう‥‥ですか。そうですよね、いつもあなたはそう仰って‥‥。ごめんなさい、あなたを信じていないわけではないのですけれど」
 俯くヘレナに、ジェフは手を伸ばしかけて思い留まる。
 信じられないのも無理はない、イーノスは彼女に何も言わずにどこかへ行ってしまったのだから。ジェフは苦笑し、紅茶を一気に飲み干した。
「それにしても、今日はどうされたんです? いつもはご連絡をくださるのに」
「‥‥最近、森の奥でまたキメラの目撃報告があってね」
「また、ですか」
「ああ、また。だが‥‥数が多いんだ」
 三年前の襲撃以来、時折この周辺にキメラが姿を現すようになった。大抵は数体で、修道院や孤児院への被害もほとんどない。能力者数名で対処しきれる程度だ。
 だが今回の目撃報告によれば、その数は十体前後で、群れて行動しているのだという。大型の肉食獣や、鳥型が目立っているようだ。いつもと違う状況に不安を感じたジェフは、自らその調査に訪れていたのだ。
「その対応をするために、何人か協力を頼む予定だ。その際に、修道院や孤児院の皆には街へと避難してもらうことになりそうなんだ」
 ジェフがそう言うと、ヘレナはすぐに頷いた。
「わかりました。では避難が必要となる詳しい日程をお教え願えますか。それとも今すぐがよろしいです――?」


「子供達もシスター達も皆、避難が終わりました。あとは私と、付き添いのシスターだけです」
 森でのキメラ掃討作戦が決行される前日、ヘレナは誰もいなくなった修道院でジェフにそう告げた。隣にはヘレナの付き添いだという若いシスターもいる。
「ではヘレナ達も街へと避難していてくれ。明日、森に入る。事後、安全を確認して、数日でまたここに戻れるだろう」
 ジェフはそう言って、ヘレナとシスターを車に乗せた。だが車に乗り込む瞬間、シスターが森のほうで何かが動くのを発見する。
「今、誰かが森の奥に‥‥。‥‥イーノスに‥‥似てたわ」
 その呟きは、ヘレナを突き動かした。
「イーノス‥‥っ!」
 ヘレナは手探りでドアを開けると、空気の匂いを読んで森へと駆けていく。見えない目でも、子供の頃から嫌と言うほど駆け回った丘だ。森だ。足が、体が、感覚と景色を覚えている。
「ヘレナ!」
 シスターは慌ててヘレナを追おうとするが、しかしジェフがそれを遮った。
「危険だ。あなたは街で待っていてください。ヘレナは俺が見つけます」
 そう、キメラが跋扈する森だ。能力者でない者が入るのは危険でしかない。作戦決行は明日だったが――すぐにでも決行する必要がありそうだ。
 ジェフは街で待機する傭兵達に連絡を入れると、自身はヘレナを捜すために先行する旨も伝える。
 恐らくヘレナはあそこに向かったに違いない。
 子供の頃、イーノスとよく遊んだという大樹――。
 古ぼけたブランコが、今もあるはずだ。あそこまではそれほど距離はないが、キメラがどう出てくるのかが気になる。
 それから、「イーノス」に似ていたという存在も。一体誰が森の奥へ向かったというのか。しかしそれが「イーノス」であるはずがない。きっとシスターが何かを見間違えたのだろう。
 仮に誰かがいたとしても、何よりも優先すべきはヘレナの安全とキメラの掃討だ。他のことに気を裂いている暇はない。
 ジェフは小さく息を吐き、森へとその歩みを進めた。

●参加者一覧

暁・N・リトヴァク(ga6931
24歳・♂・SN
シャーリィ・アッシュ(gb1884
21歳・♀・HD
鹿島 綾(gb4549
22歳・♀・AA
夢姫(gb5094
19歳・♀・PN
黒瀬 レオ(gb9668
20歳・♂・AA
ティナ・アブソリュート(gc4189
20歳・♀・PN
天野 天魔(gc4365
23歳・♂・ER
香月・N(gc4775
18歳・♀・FC

●リプレイ本文


 ――静かな、静かな森。
 木々の枝に結ばれているのは、茂る葉の中で存在を誇示するかのような赤い紐。
 濃緑色の中に隠されているそれは、確実に視界の端へと余韻を残す。
「目印があるのは助かるな‥‥」
 先頭を行く鹿島 綾(gb4549)は手を伸ばして紐に触れた。
 シスター・ヘレナやジェフリート・レスターが森に入ってから既に一時間が経過している。その間に彼等がどれほど移動したのか、そしてキメラの動向が掴めない以上は、一刻も早い合流が必要だ。
「これなら、迅速に合流することができそうだ」
 紐から指先を離し、進行方向と左右を確認して歩を進める。
「ジェフさん、ヘレナさん大丈夫かな‥‥」
 ティナ・アブソリュート(gc4189)は呟く。
「‥‥無事なら良いけど‥‥。早いとこジェフさんに追いつこう」
 頷くのは黒瀬 レオ(gb9668)。彼は周囲に残された痕跡や異変はないか確認を続けているが、これまで特に異変はない。
「なるべく急いで移動したいですね、二人が心配ですし」
 ティナは次第に速くなる皆の歩調に合わせる。誰もが周囲への警戒を怠らないが、歩調が速まれば速まるほど見落としも出てくるだろう。
「集中集中‥‥よし!」
 歩調と呼吸を合わせ、ティナは自身に言い聞かせた。
「ヘレナさんは目が見えなくて‥‥ジェフさんと二人だけで森の中に‥‥早く追いつかないと!」
 夢姫(gb5094)の心が逸る。香月・N(gc4775)と共に殿を進む彼女は、後方を警戒しつつも心は森の奥へと吸い寄せられていく。
 その夢姫の前に、無線機が差し出された。シャーリィ・アッシュ(gb1884)だ。
「先行することになった場合に必要です。もし、お二人のどちらかがお持ちでないなら私のをどうぞ」
「ありがとうございます。二人とも所持していますが‥‥何が起こるかわかりませんし、お借りします」
 夢姫の言葉に、シャーリィは頷く。状況によっては、無線機の予期せぬ故障などの可能性もある。多く持っていて無駄になることはないだろう。
 香月は音を封じるために、髪飾りの鈴に詰め物をしていた。その様子を盗み見て、微かに笑みを零すのは暁・N・リトヴァク(ga6931)。彼は歩きながら自身の所持品を確認していた。
「えーっと‥‥銃よし、バックアップの銃も、よし。諸々‥‥よし。装備に問題は無さそうだな」
 生身の戦いは三ヶ月ぶりだ。もっとも、戦闘に生身も機体もないが――。それに、若い者達がいると気張ってしまう。
「‥‥年、取ったか?」
 二年戦っても後から人は来る。後続の者達の道ぐらい作っておいてやりたいものだ。
「大人って、そういう生き物だから、さ」
 暁はポケットから飴を取り出し、のほほんとした表情で香月の手に飴を握らせた。
「飴、舐める? なんか口に入れておくと良いよ」
「ありがとう‥‥暁先輩」
 初依頼の香月は、僅かに緊張を緩めた。――顔にこそ出さないが。
「‥‥ジェフさんと、無線で連絡は取れるのかしら?」
 飴を口に含み、香月が言う。それに呼応したのは天野 天魔(gc4365)。
「今、試している」
 ジェフとの距離があるのか、なかなか応答がない。それでも根気よく続けると、やがて静寂を破る雑音と共にジェフからの応答があった。
『――来てくれてありがとう。目印をいくつ通過した?』
 声は落ち着いていた。どうやらキメラの襲撃は受けていないようだ。
「三十五だ」
 綾が言う。ほんの少しの間をおき、ジェフの声。
『了解。あと三十ほどで俺達のいるポイントに到達する。ここで止まって合流を待とう。今のところキメラは出現していない。‥‥気配は、あるのだが』
「気配が?」
 香月が眉を寄せる。
「なのに、襲ってこないのですか?」
 ティナが問えば、すぐに『Yes』。
『わからない。一定の距離を保って、こちらの様子を窺っているようだが』
「威嚇‥‥か?」
「それとも、僕達が来るのを待っている‥‥とか?」
 暁とレオが唸る。
「――急ぎましょう」
 鋭い眼差しを森の奥へと向けるシャーリィ。
「‥‥そして迷えるジェフを後押しするか」
 素敵な劇が見られそうだ――。
 天魔はジェフに告げるように言葉を漏らし、ひとまず通信を切った。

 目印の紐が途切れたのは、最初の通信からちょうど三十本目の紐を確認した後だった。
 ジェフ達の姿はないが、この付近にいるのは間違いないだろう。
「確かに、キメラの気配が」
 暁が息を吐く。先程までの静寂はなく、不自然な葉擦れの音が響いている。
「ジェフさんっ! 到着しました、どこですか!」
 レオが声を張り上げ、少し奥へと進む。ジェフ達に気付かせると同時に、キメラ達を引きつけるためだ。果たしてどちらが先に姿を現すのか。
 そして樹木の影から現れたのは――ジェフとヘレナ。
「無事でよかった‥‥!」
 夢姫が駆け寄り、彼等に傷がないことを確認する。
「合流できてよかった。ありがとう」
「ん、良かった。追いついたみたい‥‥だね」
 ジェフの言葉にレオは頷き、しかしすぐさま周囲に意識を飛ばした。
 数は十五。空と、陸。完全に囲まれている。
 ヘレナ以外の誰もがその接近に気付き――そして無言で臨戦態勢に入った。


「数が多いな‥‥。なら、まずは速攻で数を減らさせてもらおうか!」
 綾のガブリエルが翼を広げるかのように残像を残し、走り抜けてきた狼を捕らえる。幾度となく羽ばたくガブリエルは、狼を薙いだ後に飛来する鷲達を掻き抱いた。
 剣戟から逃れられないキメラ達は早々に息絶え、戦闘の主導権はこちらに傾く。
 天魔とティナは、ジェフと共にヘレナの周囲を固める。
 虎が単身で突撃を仕掛けてきた。剥き出しの牙がぬめる。天魔は万一に備えて自身の護りを固め、ターミネーターを構えた。
 牽制の意味も込めて放たれた弾が虎の喉に食い込めば、次の瞬間にはティナが間合いを詰め、まさしく「刹那」と言える太刀筋で炎剣を虎の肩口から袈裟切りにする。
 勢いを保ったまま炎剣を後方に引き、上体を捻って刀身を一閃させる。胸元を裂かれた虎は咆吼を上げるが、再びその喉に天魔の弾丸が撃ち込まれ、沈黙。
 沈黙した巨体を踏み越えて狼が迫れば、再びティナがその素早き軌跡を描いた。
 暁は垂直降下を仕掛ける鷲や鷹達をショットガンで確実に撃ち落としていく。しかし散弾の雨をかわした鷲が頭上を捉えた。
「‥‥じゃあ、これはどう?」
 貫通弾を素早く小銃に装填し、狙うと同時に射撃する。それは通常よりも鋭く重い威力を内包して。最初の弾が右足を貫けば、敵は落下の予感を抱いたのか体勢を立て直し、よたよたと上昇を始めた。
 それに目を留めたのは香月。覚醒印の発行を打ち消しつつ、両手に銃を構えて翼に照準を合わせる。射程外に逃げ込んだのを確認するとすぐに間合いを詰め、射程に入った瞬間に引き金を引いた。
 左翼をやられた敵は反転し、無理に羽ばたいて香月へと突撃を仕掛けてくる。しかし香月は素早く武器を持ち替えると、そこに己の力を乗せて瞬時に振り抜いた。
 その様を上空から見ていた個体が、勝ち目はないと判断したのか飛び去り始めた。目で追う、暁。そしてゆるやかに腕を上げ――。
「――BAN」
 腹を、貫いた。
 シャーリィは虎の懐に入り込み、ワルキューレを振るう。迫る爪は刀身で受け、敵の勢いを受け流しつつ大剣を閃かせてカウンターを撃ち込んでいく。
 胸に、腹に、シャーリィの重い攻撃が乗る。援護するべく突進してくる狼には、一瞬だけ振り返り、一閃。
「――獣に龍を殺せると思っているのか」
 低く告げるその言葉が、シャーリィの勝利を確信させる。戦乙女は、尚もその力を誇示し続けた。
 夢姫は駆け回る獣達の中から戦線離脱を謀ろうとする個体に目を付け、すぐさま距離を詰める。
 背後を取り、退路を断てばそこに滑り込んでくるのはレオの放った衝撃波。それを追うようにレオは駆け抜け、ギリギリのところで衝撃波をかわした敵に紅炎の深く重い一撃をねじこんでいく。
「数が減ってきた‥‥ね」
 戦況を確認し、レオは続けざまに迫る獣へと輝く刀身を振り下ろした。
 夢姫とレオ達とは真逆の方向で、逃走を図ろうとする獣がいた。虎が、二体。
 しかし運が悪いと言うべきか――綾の、射程内だった。
 綾はすぐさま一体の側面に回り込み、流し斬りで天槍を突き上げるように撃ち込んでいく。そして――。
「逃がさん――ここで潰れていけ!」
 息絶えた獣を乗り越えるべく跳躍した虎を、渾身の力を込めて地に叩き付けた。

「終わった‥‥か?」
 綾が周囲を見渡せば、元の静寂が森を支配し始めていた。
「皆さん、ご無事でしょうか? 怪我をしてる方がいたら治療しますよ」
 そう言ってティナは皆を確認するが、幸いにも怪我人はいない。
 ヘレナは疲労の色が見えるものの無傷で、気丈にもしっかりと立っていた。そんな彼女の姿を見ながら、レオはジェフに問う。
「ところで、例のイーノスって人は見つかりました?」
「いや‥‥」
「そうですか‥‥。その人がイーノスさんでなかったとしても、人が入っていく姿を見たシスターがいたのなら‥‥この森に放っておくのは心許ないですし、少し、捜索してみません?」
「わかった。だが、その前にヘレナを森から出したい」
 ジェフは少し考えて頷き、ヘレナの手を取った。だが、ヘレナは首を振る。
「もしイーノスなら‥‥きっとブランコの樹に現れると思うのです。だから‥‥私も」
 恐らくはもう、この森にキメラはいない。連れて行くことに大きな危険はないが、ジェフは迷っているようだった。しかし夢姫が紡いだ言葉にハッとする。
「‥‥彼女にとってその人が、自分の身も顧みないほど、とても大切な人なら‥‥このまま彼女を強引に連れ帰るのは酷なことじゃないでしょうか‥‥」
「‥‥わかった、一緒に行こう」
 少しの思考の後、彼は頷いた。


 その大樹の周囲に樹木はなく、小さな広場のようになっていた。
「大きな木‥‥すごい綺麗な景色!」
「この樹だけ‥‥他とは違うな」
 大樹を見上げ、夢姫と綾は感嘆の溜息を漏らす。
 大人数人がかりでようやく抱えられる太さの幹、広場を覆い尽くす屋根となっている葉。地に落ちた木漏れ日が作り出す模様は、まるで雪の結晶のようだ。
 そして一番太い枝に、古ぼけた鎖で繋がれたブランコ――。
 しかしそこには誰もいない。ここに来るまでも、人影を発見することはできなかった。ヘレナはその場にくずおれ、悲哀に満ちた表情を浮かべる。
 ジェフは無言で、ヘレナを見下ろしていた。
「もう充分だろう、ジェフ。君が真実を告げない限り、シスターは何度でも偽りの希望に踊らされ、今日のような無謀を繰り返す。そしていつの日か、その命を散らすだろう」
 天魔の言葉にジェフはぴくりと反応する。
「その生き方も一途で美しいが、君の望むところではないだろう? なら、真実を告げ、シスターの偽りの希望を砕いてやるといい。結果、シスターは絶望に染まるだろうが、今までと同じように君が支えてやればいいさ」
「‥‥わかっている。頭では‥‥ね」
 俯くジェフの表情は、真実を告げることを怖れているようにも見えた。
「‥‥ねぇ、ジェフさん。貴方には誰かがイーノスじゃない確証が、あるの?」
 香月が問う。「イーノス」を積極的に捜そうとしないジェフが気になるのだろうか。
「‥‥ある」
 ジェフは声を絞り出す。ヘレナは弾かれるようにして顔を上げた。
「ならば尚更、シスターに真実を告げ、君とシスター、そして何よりイーノスの止まった時間を動かすといい」
 ジェフの背を天魔が軽く押す。ジェフはぎりぎりと奥歯を鳴らし、そして――。
「‥‥この森に入ったのは、イーノスではない。イーノスであるはずがない。‥‥彼は、死んだのだから」
「信じません!」
 ジェフの言葉が終わると同時にヘレナが叫んだ。しかし彼は、それ以上何も言わない。
「絶対に信じません‥‥! 彼の死を証明するものを突きつけてくださらない限りは!」
 ヘレナは駆け出し、目が見えているかのように真っ直ぐにブランコへ向かった。
「信じない‥‥っ! だって、ずっとともだちって‥‥約束‥‥を」
 鎖を抱き締め、そして右手を伸ばしてブランコの裏側に触れる。
「そこに‥‥何が‥‥?」
 シャーリィが駆け寄り、彼女の指先を追う。そこにあったのは――。

 ――ずっと、ともだち   イーノス・ラムゼイ  ヘレナ・オルコット

 刻まれた、短くて幼い文字。簡単な、言葉。それはヘレナとイーノスの、小さな‥‥そして大切な心が込められたものだった。
「ラムゼイ?」
 シャーリィはハッとする。
「‥‥ご存じなのですか?」
「失礼、いとこと同姓だったので少し驚いただけです」
 恐る恐る問うヘレナに、シャーリィは優しく囁く。
「ですが‥‥これも縁、でしょうか。手空きの時でよろしければ、何かあればお手伝いしますよ」
「‥‥ありがとうございます。偶然とは言え彼と同じ姓に縁のある方がいらっしゃる‥‥。‥‥縁があるのなら、きっともう一度逢える気がします。‥‥ジェフリート様が全てを話してくださると‥‥信じたい」
 ヘレナは呟く。そこに歩み寄るのは香月。ブランコを見つめ、鎖を握った。
 ブランコ――寄せて引いて、波みたいな遊具。
 遊んだことはないが、これは二人の思い出のひとつだ。
 ここに留まることはできないが、一緒に待つことならできる。元気な姿のヘレナと、イーノスの再会を。
 たとえそれが、どのような形であろうとも。
「香月は貴女を信じて、待つわ」
 鎖から手を離し、ヘレナの肩に触れる。
「でも、貴女を案じて飛び出した人も、今も貴女を待つ人達も、忘れないで」
「‥‥はい」
 ヘレナは頷き、ジェフの気配を振り返った。
「いつか、真実は明らかになりますか?」
 レオはその眼差しに確信めいたものを乗せてジェフを見つめる。
「‥‥いつか、きっと」
 いつかきっと、ヘレナに全てを打ち明ける時がくるのだろう。ジェフはレオを見つめ返し、頷いた。
「さあ、森を出ましょう」
 夢姫はヘレナの手を強く握る。
 光と友人を「失った」彼女にとって、ここは辛い場所でもあるはず。
 光はもう戻ることはなくとも、イーノスと再会できればと――その願いを、込めて。
「ブランコがキメラに襲われなくてよかった」
「帰路も、もう危険はないだろう」
 表情を緩め、ティナと綾は古ぼけたブランコを記憶に焼き付ける。その姿を見ることができない、ヘレナの分まで。
 そして大樹に背を向け、皆は歩き出した。
 ふと、暁が立ち止まり、ブランコを振り返る。
「目が見えなくても、俺は帰れるかな。あの人のところにいけるかな?」
 思い描く、愛しき姿。だが、きっと待っていてくれるなら、帰れそうな気がする。
「イーノスって人は‥‥どうなんだろ?」
 呟き、再びブランコに背を向けた。そして今度こそ誰も振り返らず、森を出て行く。

 ――誰もいなくなった森で、ブランコが‥‥揺れた。