タイトル:死の香りがする世界マスター:リラ

シナリオ形態: ショート
難易度: 難しい
参加人数: 7 人
サポート人数: 1 人
リプレイ完成日時:
2008/01/22 01:58

●オープニング本文


 私は馬鹿だった。
 どうして止められなかったんだろう。どうしてこうなったんだろう。どうして、私は笑って送り出してしまったのだろう。
 初めて心の底から愛しいと思える人だった。私にはこの人しかいない、本気でそう思えていた。

 あの日。エミタの適性検査を受け、能力者になれるのだと分かったあの日。あの人は無邪気に笑っていた。まるで子供がテレビの中のヒーローに憧れるように、期待に胸を膨らませて。自分でも誰かを救うことが出来るのだと。それが嬉しくてしょうがないと。そう言って笑うあの人に負けて、私は傍にいて欲しいって気持ちを押し殺して言った。
「良かったね」
 あの人に気付かれないよう必死で笑ってた。本当は不安とか恐怖とか、そんなのでいっぱいだったのに。それ以上にあの人が好きだったから。だから。だから。

 傭兵になり、家からいなくなることの増えたあの人を私は全身全霊で支えてきた。怪我を負って帰ってきたときは身体が震えたけど、仲間がどういう人で、どういうことがあって‥‥と笑いながら話されちゃったら、泣くなんて出来なかった。泣くのを我慢してるうちにつられて私も笑ってた。
 幸せだった。本当に。ようやく私も、あの人の生き方を本当に受け入れられそうだったのに。

 私が心から「良かったね」と言える前に。あの人は私の前から姿を消し、そして動かなくなって帰ってきた。未だに焼きついたその姿はもはや人間とも言えないただの肉の塊で。その無残さはかえって非現実的なくらいだった。だから、まだ。まだそれだけなら私は、こんなことにはなっていなかっただろう。

 あの人の葬儀に集まった親類や友人は皆、彼が能力者だったことを誇りに思っていたけど、ずっとその話ばかりで。それを聞いていた私は絶望した。
 まるでそれじゃあ、あの人の価値は能力者だったことだけみたいで。それ以外に価値などないみたいで。無性に悔しくて悲しくて辛かった。この人たちにとって彼は一体何だったのか。それまでにも思い出は沢山あったはずなのに、それを忘れてしまったようなこの人たちが許せなくて。私は歯噛みして。

 この人たちの同情なんて受けたくない。そう思った私は生まれ育った街を一人離れることにした。
 不安はある。悲しみも未だ癒えない。けれど、私は死ぬわけにはいかないの。絶対に、絶対に。
 向かったのは彼の生まれ故郷。彼の身内に頼るつもりはない、ただ彼の思い出に浸りながら生きていければそれでいい。

 なのに。私にはそれすら許されない。



 全身の痛みに喘ぎながら、ミゼットはそれでも走り続けていた。暗く、停電状態の為まったくと言っていいほど視界は利かない。ろくに見えない状態で何度も壁に鼻を打ちつけ、転倒して足や手に傷を負いながら逃げ続ける。
 夫の故郷に向かっていた彼女は、通過点であるこの駅でキメラたちの襲撃に巻き込まれていた。
(「まだ安全って聞いてたのに、どうして」)
 悲痛な叫びは声にもならず霧散する。
 巨大なデパートと繋がる、その通路を通り抜けたミゼットは出入り口を探してさまよっていた。だが、警報装置が働いたのか閉鎖されているらしく、空しくも開きそうもない。何処かに解除する装置もあるのだろうが、この視界状況では見つけられるはずもなかった。そうしている間にも狼の遠吠えのような声が耳に入り、彼女は別の脱出口を探すべく移動し始める。
 見つかりませんように、そう祈りながら危うい足取りで階段を上り。物音がすると必死で声をあげた。やはり同様に閉じ込められたのだろう、デパートの従業員や客と会い、皆が避難している場所を知ると共に向かう。だが、いつ見つかってもおかしくない、その状況に変化はないだろう。
 ミゼットは亡き夫の言葉を思い出し、携帯を手に取った。何故今まで気付かなかったのか。取り出した携帯、そのディスプレイの明かりに安堵しながら繋がることを祈って必死に電話をかける。万が一のことがあったら電話してくれ、そう言われていたところ。夫の仲間たちがいるところとしか彼女は知らない。
 決して良くない電波状況と電池の残量。かけたいちるの望みはしばらくしたのちに届いた。
(「お願い、助けて」)
 腹部にあてた手は小刻みに震えている。必死に動揺を押し付けながら、彼女は唇を開いた。

●参加者一覧

リディス(ga0022
28歳・♀・PN
江崎里香(ga0315
16歳・♀・SN
ファファル(ga0729
21歳・♀・SN
新居・やすかず(ga1891
19歳・♂・JG
篠崎 公司(ga2413
36歳・♂・JG
篠崎 美影(ga2512
23歳・♀・ER
終夜・無月(ga3084
20歳・♂・AA

●リプレイ本文

 ‥‥そのとき、私は涙が溢れて止まらなかった。無性に、無性に。

●闇に飛び込み
 光の届かない、閉鎖されたデパート。その周囲も静まり返っていた。駅では電車の発着も止められているのだろう。立っているだけでは、自分たちの発する物音と風の音ばかりが耳につく。野次馬やマスコミは離れた場所で騒いでいるが、声は聞こえない。運良く脱出出来た利用者も重傷者から順に運ばれていったらしく、少々揉め事はあったようだが今は落ち着いていた。
「これじゃまるで戦場ね」
 半ば呆れたように息を吐くのは江崎里香(ga0315)だ。暗視スコープを頭の上に乗せ、二丁の銃を改めて腰にセットすると目の前にそびえ立つデパートを見つめ、また仲間に視線を向けて。
「厳しい状況だけど‥‥出来る限りの努力はしましょ」
 電気が落ち、幾つかの区画に区切られ閉鎖された状態のデパート。それだけなら警察が入り口を破壊して人々を救出すればいい。問題は、建物内を徘徊しているキメラだった。もっとも、依頼主とて暗闇の中、その姿をはっきり見たわけではない。特定出来ない以上、より一層手腕が問われることになる。
 だが、デパートの見取り図が手に入ったのは幸いだった。ある種当然の処置とはいえ、客ごとキメラを閉じ込めた会社は今後、世間から非難囂々を受けるに違いない。ならせめて迅速な救助の為に誠心誠意協力する、と言うのが今取れる手立てだろう。
「あまり良い印象は持てませんけど、ね」
 篠崎 美影(ga2512)が悲しげな表情で呟き、その横に立つ夫の篠崎 公司(ga2413)がその肩にそっと触れる。夫の顔を見上げた美影は言葉は交わさず頷いた。彼女も傭兵の一人。今自分に出来ることを見失いはしない。
「それじゃあ‥‥行こう‥‥」
 終夜・無月(ga3084)が装備の確認を終えたことを確認し、告げる。その言葉にリディス(ga0022)と美影がそれぞれ応えた。
 まずは無月、リディス、美影の三人が先に突入し、キメラの誘引と殲滅を目的に動く。閉じ込められた人々の救出を優先したとしても、避難途中にキメラと遭遇しては、すべての人間を護りきれる保証はない。ならばいっそ、先にその脅威を取り払うほうが得策というわけだ。また、少し遅れて里香、新居・やすかず(ga1891)、公司、ファファル(ga0729)の四人で構成する隠密班も追って潜入し、彼らは各エリアに隠れているであろう人々の捜索に向かう。発見し切った段階で別れ、里香とやすかずは先に突入した三人‥‥殲滅班に合流してキメラ殲滅を急ぎ、公司とファファルは生存者を各階で避難出来そうなポイントへの誘導及び護衛にあたり。階数ごとに同様の作戦を続け、デパート全体の制圧を試みるというわけだ。
 正面入り口を破壊して侵入する三人を見送った後。
(「通報者の名‥‥これは、奴の」)
 口に銜えた煙草を一度手で持ち、煙とともに息を吐き出しながら。ファファルが依頼主の名前を思い起こす。ふとよぎったのはある男の快活な笑みだった。
(「奴の忘れ形見、か。‥‥必ず、助け出す‥‥」)
 静かに、決意を胸に秘め。彼女はそびえ立つ悪夢の世界に強いまなざしを向けた。

●血臭、そして双頭の魔
 異様な静寂の中、足音が反響する。
「まるでホラー映画ですね」
 と、警戒は怠らないまでもリディスが思わず零す。無月の提案により、キメラを引きつけるため少し血液を付着させてある。また暗闇の中、異形の怪物と戦うのだ。バグアに攻撃されるまでは怖がりながらもまだ、空想で済んだ状況。それが現実となったのは皮肉なことと言えるか。
「血の、匂いですね‥‥」
 反射的に口許を押さえ、美影が小さく呟く。偶然巻き込まれた能力者でもいない限り、傷を負うのは人間のほう。人間の体液に違いないだろう。キメラは近いか、それとも他の場所に向かい始めているか。何にしても、隠密班が入ってくる前に引きつけておきたいところだ。と。
「‥‥美影‥‥どうしたの‥‥?」
 ふと足を止めた美影に数秒遅れで気付き、無月が振り返った。彼とリディス、共に視線を向けられた美影は真剣なまなざしで口を開いた。
「今、人の声が聞こえました。うめき声です」
 歩きながら、足音に混じり聞こえたのだ。確かにそれは聞いていた遠吠えのような声とはほど遠く。だが、そうでなくとも怪我をした者を放ってはおけない。襲われたのであれば、キメラもまだその周辺から離れていない可能性もある。そう判断すると、まだ待機している隠密班と、ここには来れないものの情報収集と各班の状況把握に努めるファルロス(ga3559)に念の為連絡をし、移動し始める。古い無線機だが使えるだけましと思わねばなるまい。
 数分後。声のした方向へ向かっていた三人の前に見えたのは、想像していたとはいえ光の下で直視することは憚れる光景だった。液体がかつて人であったものを深く浸食するように染めている。近付いて視線を落とせば、下半身を主に肉を噛み千切られているのが分かった。おそらく、逃げ惑う人々を背後からキメラが襲撃したのだろう。複数のキメラに襲われたのか、一人が狙われたことで更なる恐慌に陥り動けなくなったのか。およそ十人程度のものと思われる身体が転がっている。繋がっていないものもあるので一瞬で把握することは難しいが。
 その中で一人、かろうじて浅い呼吸を繰り返している者がいた。二十代半ばほどの男性。呼吸さえ辛いのだろう、時折喉の奥から音とも取れる声が単語にもならず溶けるだけで三人に気付いているのかいないのか、視線は虚空に向いたまま動かない。
「早く‥‥治療しないと‥‥」
 無月が言うと近付き、片膝をつこうとしたが。別の気配を感じ取って動きを止めた。同様にリディスと美影もその方向を見、臨戦態勢を取る。と。
 近付いてくる気配。暗視スコープ越しに食料品の並んだ台を跳び越え、迫って来たキメラに無月がとっさに発砲した。破裂音。しかし視認出来るまでの時間が短く、後ろにあった台を撃ち抜き、当たらない。
 狼、確かにそう言って差し支えない姿をしている。ただ決定的に違うのはその胴体に生えた頭部が左右に二つ存在することと一回りほど大きいことだ。それだけに片方の頭部を叩いたところで止まるとは限らない。
「行きます‥‥!」
 宣言するとリディスが覚醒し、キメラの注意を引きつけるためファングで応戦する。だが相手も素早く、回避し続けるだけでは長くは持たない。
「ここは私と無月でどうにかする! お前は早く治療を!」
 漆黒に髪が染まり、荒っぽい口調になったリディスがサポートにあたるか治療にあたるか決めかねている美影に声を張り上げる。銃から刀に武器を持ち替えた無月も、
「大丈夫‥‥一匹なら俺たちに任せて‥‥」
 と微笑んで言い、覚醒する。その瞳が赤から淡い金色に染まり。リディスを標的に定めているキメラの側面に直ぐさま回り込むとその胴を薙いだ。致命傷とまではさすがにいかないものの効いている。複数集まれば厄介そうだが、単体ではそれほど脅威ではないようだ。
 二人の言葉に、膝をつくと美影は重傷者の治療にあたった。

 同時刻、隠密班の四人もデパートの中に入り戦闘に入っていた。生存者を探すということはキメラに狙われている可能性のある人物と接触することに繋がる。大規模なものではないため逃げ遅れた人々は発見しやすいが、反面でキメラとも遭遇しやすい。
 銃と弓矢という遠距離攻撃のエキスパートが揃う為、攻撃がそれぞれヒットすれば想像していたよりも脅威にはならない。殲滅班が重傷者を発見したという知らせもあり、そちらへ合流する方向へ移動しながらの戦闘となる。
 攻撃の要となるのは凄絶な威力を誇る里香だ。覚醒状態を維持し、淡々とかつ正確に銃でキメラの双頭を叩く。彼女自身は好ましく思わない覚醒だが、無慈悲なまでの攻撃は確実にキメラを倒し。合流したのちもまた発揮される。

●その世界を照らす
 その後はまた無線機での連絡と戦闘中の連携を続けながら制圧を続け。
 三階に着き捜索にあたっていた隠密班の四人は、保育施設のある一角で集まり身を寄せ合っている人々を見つけた。最初は驚きざわついたものの、
「自分たちは救助要請を受けて来た能力者です。あなた方を保護しに来ました」
 と公司が告げると他の階にいた生存者と同様、直ぐに安心して喜びの声や泣き声が聞こえ出す。その様子に、思わずやすかずも安堵の笑みを浮かべた。
「能力、者‥‥良かった、来てくれたんですね‥‥」
 白い息を吐き出し、かすれた声で言って抱き締めた少年の髪を撫でる女性に今度は彼らのほうが驚かされる。
「もしかして、あなたがミゼットさんですか?」
 周囲を警戒していたやすかずに問いかけられ、彼女は動揺を見せつつも静かに頷いた。

 そして里香とやすかずの二人が合流に向かった後。公司やファファル、他の生存者と共に防火壁のある場所へ向かいながらミゼットは複雑な面持ちを浮かべていた。確かに自分の依頼を受け、傭兵が人々を助けに来た。それは嬉しいし、まだ脱出していないとはいえ先程までのいつ襲われるとも知れない恐怖は薄れ、少し安心してもいる。だが、夫の知り合いがいるというのは想像していなくて。無意識に葬儀のときのことを思い出してしまう。それこそ、こうした状況でなければまだ話をしたいと思えたのだろうが。かえって冷静になり、怪我をした者がいる中で私情を持ち込むのは憚られた。
「貴様がミゼットか‥‥私も、あいつから話を聞いていたよ」
 不意に。後ろから声が聞こえ、彼女はびくりと肩を震わせると、そっと振り返った。最後尾を歩き、周囲を警戒してこちらを見ないままファファルが口を開く。
「あいつはいつも、貴様のことばかり話していたのでな」
「え?」
 ほんのわずかだけ穏やかな声音。振り返りかけ、だが前に向き直ると視線をやはりよくは見えない足許に落とす。
「作戦が終わったときなど、公私は分けていたがな。何か奴から話をし出すと自分のことより貴様と、そして‥‥」
 言いかけ、止まると今更気付いたように。
「‥‥大丈夫か?」
 ミゼットは自然と身体を抱くようにして小さく、こくりと頷いた。その表情は少し険しく、そして何処か優しくもある。一度息を吐くと、
「あいつは‥‥貴様に心配をかけていることを、ずっと気にしていた」
 静かに、足音と息遣いに混ざらず届く声。目を合わすことも出来ず、思い出すように開く間を感じながら。
「人間としても出来ていた、そう私は思う。死ぬには惜しい人物だったよ‥‥」
 呼吸とともに密かな感情を乗せて吐き出す。そんなファファルの言葉にミゼットはきつく瞼を閉じた。彼を失ってから、ずっとずっと欲しかった言葉。気を緩めれば崩れ落ちてしまいそうで。しかし、手を繋ぎ歩いていた少年に不思議そうな顔をされて何とか止めていた足をまた踏み出す。
「私は、あなたの夫のことは知りませんが」
 また、前を歩く公司は。
「前を向きなさい。生き残った者には、明日を創る義務があります」
 と、冷静に先導しながら彼女に言葉を向ける。
 まだ終わったわけではない。彼ら傭兵がキメラから人々を護るのなら、自分はその疲弊した心を励ます。それしか出来ることはないのだから。決意すると、彼女は繋いでいないほうの拳を強く握りしめた。

●悪夢が終わる
 最初、突入した際には遺体や重傷者を見つけることも少なくなかったが。上に上がるにつれ、やはりと言うべきかキメラの数は少なく、生存者の数は増えていった。中には単に停電しただけと思っていた者もいたくらいだ。その内の何割かは長時間の暗闇に耐えかねて降りていった可能性もあるが、結果を予測するのは避けられる。
 長時間、またあまり休憩を挟まずの作戦であったため疲労は大きかったが、全員が大怪我を負うこともなく制圧及び救出を終え、仕事は成功と言えるだろう。

 そして数時間ぶりに閉じ込められた人々が光の下へ踏み出していく。応急処置はしてあるものの、怪我をして動けない者に別の者が肩を貸し。疲労困憊の彼らだが、空を見上げると気が抜けて倒れる者や泣きわめく者も多く出て。生還を改めて実感し、家族や友人を問わずに喜びを分かち合う者も多かった。ファルロスに連絡して手配された救急車や警察車輌が多く並び、突入前が嘘のように慌ただしくも人に溢れた世界がそこに広がっている。
 彼らにとっては長い、そして本当の意味ではこれからもまだ暫く続いていく時間。というのも、元々キメラに襲われる可能性のある地域とはいえ今回の襲撃はあまりにも不自然過ぎる。親バグアが行なった一種のテロか、それとも‥‥。刻まれた悪夢の出来事を否応なく感じながら、七人の仕事も成功を持って終わりを告げるのだった。

●そして心に光射す
 脱出後。ミゼットは病院に運ばれたものの隠れていた場所と迅速な殲滅が功を奏し、転倒などによる軽傷で済んだ。そして軍による事情聴取も済み落ち着くと、報酬を自分の手で命の恩人たちに渡すためにまた顔を合わせ。
 命を救われたこと、それも感謝してもしきれないほどの出来事だったが。彼女にとって、それよりもずっと価値のある、とても大きかったこと。それは、夫のことを知っている人たちに出逢えたことだった。
 改めて夫の話を、これまで顔を合わしたこともなかった人の口から様々なエピソードを交えて語られる。彼らの唇から夫の名前が何度も何度も発せられる。‥‥思えば、夫のことを笑って話せるのは彼が亡くなってから初めてのことだった。それが嬉しくて、幸せで。彼は決して能力者として戦うだけの人形ではない。同じ力を持つ人々と確かに言葉を交わし、笑い合い、戦った。ただ一人の人間として生きた‥‥それだけ。当たり前であるはずのことを何度も何度も感じた彼女の目からは涙が零れた。
 悲しくなどない。嬉しいのだ。絶望の後にあった、限りない幸福に。
「‥‥発つんだね‥‥」
 涙を袖でぐしゃぐしゃに拭うと、無月の言葉にミゼットは目を赤くしながらも笑って頷いた。
「ええ。彼の故郷で、前を向いて歩きます。‥‥この子と、一緒に」
「え? ええっ?」
 動揺して声をあげるやすかずに微笑む。里香は思わず彼女の腹部に目を落とし、無月も目をしばたく。一方で夫から話を聞いていたファファルと護衛時に会話を聞いていた公司は知っており、リディスと美影は何故かさして驚いた様子は見せていない。まだあまり目立たないお腹をさすりながら、ミゼットは愛しげな視線を落とした。
「‥‥ならば、別れぬうちに聞いておこう」
「何でしょう?」
「あいつの墓参りに行ってもいいか?」
 ファファルに問いかけられ、ミゼットはしばしきょとんとし。
「はい! また是非、あの人に逢ってあげてください」
 心底からの笑みを浮かべ、口を開いた。それは優しく力強く。未来へ歩いていく母親の笑みだった。