●リプレイ本文
やって来たアニー・シリングに会釈して、遠倉 雨音(
gb0338)は彼女にカウンター席をすすめた。そうしてアニーの分の紅茶を淹れ、彼女の前にコトリと置く。
それを、ありがとうございますと受け取り1口飲んでから、それで、とアニーは首を傾げた。
「舞香さんの事で相談がある、というお話でしたけど‥‥?」
「はい。先日の――マリアさんの件で」
そんな彼女にそう告げると、途端に複雑な顔になる。それは数日前、雪島姉妹の来訪を知った時の自分を見ているようで、さもありなんと雨音は小さな息を吐いた。
――マリア・アナスタシアと名乗る女性が、亡くなったのは先日、ロシアで行われたキメラプラント制圧作戦の最中だ。数多く行われた作戦のうちの1つ、それにバグア側として関わっていたマリアは、捕らえられた後に自決した。
姉妹の1人、舞香はそのマリアをまるで自分自身のように案じ、同情して何くれと協力を惜しまなくて。騙され、利用されたと知った後でも、そのすべてが嘘だったとは思えないのだと話していたと、言う。
そんな相手の最期を、彼女は知っているのか。知らないなら伝えるべきか――雨音は、それをアニーと相談したかったのだ。きっと知ったなら、舞香が動揺する事は目に見えているから。
「私としては、隠していてもいつかは分かる事ですし、変な知り方をするくらいなら早いうちに、真実を伝えた方が良いと思います。もちろん、作戦や機密に関わる範囲に触れないように、になりますが‥‥」
「そうっすね。俺もその方が良いと思うっすよ。――舞香さんが帰る時に、見送りに行って伝えようと思ってるっす」
雨音の言葉に、同じくカウンターに座って聞いていた東野 灯吾(
ga4411)も頷く。さすがに、みんなで楽しくお菓子を作ってる時や、お茶をしている時に出せるような話題ではない、し。
そもそも彼はロシアから帰還した後、その事を舞香に報告すべく、粛々と神戸行きの準備していた所だったのだ。そこに本部の片隅でこの集まりの掲示を見つけたものだから、これ幸いとやって来たのである。
とはいえ雨音も雨音で、何かと事件に関わってきた雪島姉妹がLHにやって来ると聞き、まさかまた何か事件がと心配したのだが。そうしてただのお菓子作りと聞き、よく解らないながらまぁ気になるし、と一緒にお菓子を作る事にしたのだけれども――
そんな事を考えている、雨音と灯吾を見比べて、それから店内を見回したアニーが、ところで、と首を傾げた。
「皆さん、今日は何かあるんですか? 舞香さんのお菓子作りは明日、でしたよね」
「えッ!? そ、それは、その‥‥ッ!」
「色々下準備があるんだよ。そうそう、明日は作ったお菓子をアニーにもあげるね」
その言葉に、面白いくらいに動揺する灯吾の代わりに、答えたのはユーリ・ヴェルトライゼン(
ga8751)だった。その隣に座っていたエドワード・マイヤーズ(
gc5162)も、うんうんと尤もらしい顔で頷いている。
はぁ、とアニーは3人の顔を見比べて、それからもう一度雨音を見たが、ひょい、と肩を竦めただけだった。それは事情が解っているとも、そうでないとも取れる。
とまれまた明日ねと、送り出されてアニーは首を傾げながら帰って行った。そんな彼女を見送って、私もちょっと空けますから、と断った雨音に頷き、男3人は喫茶店『虹待亭』の厨房へと向かったのだった。
●
さて、翌日。予定通りにやって来た雪島舞香は、「じゃ、また後でね」とひらり、手を振った双子の妹・涼香に手を振り返し、『虹待亭』へと入ってきた。今日のお菓子作りは、アニーが手頃な場所を探していると聞いた雨音が「もし良ければ」と申し出て、彼女の兵舎でもあるこの喫茶店でする事になったのだ。
舞香は集まった人々に頭を下げると、改めて雨音の前にやって来て、場所の提供の礼を告げた。それからちょっと心配そうに、長い髪を揺らして首を傾げる。
「ご迷惑じゃなかったですか?」
「いいえ、ちっとも。――むしろ、これも良い機会だと思いまして」
そんな舞香の言葉に、雨音はゆるりと首を振った。共同経営者である腐れ縁の友人は先日の決戦後、UPC宇宙軍に志願してしまったし、雨音自身も事後処理に色々と携わっていたため、最近はすっかり休業状態だったのだ。
だから、これを機に再開するのも良いかと、思った。何より調理器具等は揃っているから、凝ったお菓子を作りたい人がいても対応できるだろう。
そう、思った雨音の心遣いに、一番助けられたのは実の所、星和 シノン(
gc7315)だ。何しろ先のバレンタインデー、最愛の幼馴染・日下アオカ(
gc7294)から貰った本命チョコ――実の所、貰って食べた後の記憶がなく、本当は全力で義理なのを勝手に幸せな勘違いをしているだけなのだが――のお返しに、腕によりをかけて渾身の(?)お菓子を作ろうと思っていたのだから。
「楽しみにしててよね!」
「――フン、別に。今日一日くらい、つきあってさしあげますわよ!」
だから満面の幸せそうな笑みで告げたシノンに、告げられたアオカはつん、とそっぽを向いてそう言った。それにまた、照れてるんだなアオカってば可愛い、と幸せな勘違いをするシノンは、どこまでも前向きである。
とはいえ、アオカは決してシノンが勘違いしているように、照れているわけではない。そもそも、クリスマスにした頬へのキスだって純然たる労いであって、確かに嫌いではないけれども、だったら好きなのかと問われればきっぱり「恋愛感情はありませんわよ」と真顔で答える程度には、シノンのことを何とも思って居ない。
ではなぜ今日、シノンに付き合ってここまでやって来たのかと言えば、その理由も結局シノンの『幸せな勘違い』にある訳で。さすがに自分があげたチョコレートでシノンが昏倒(?)したのを、ほんのちょっとばかし引け目に感じている為に、今日くらいはシノンが納得いくように付き合ってあげよう、と思ったのだった。
そんなこんなで、つんつんしているアオカと幸せオーラ全開のシノンを、何やら楽しそうに百地・悠季(
ga8270)は見比べる。人の恋路を見ているのは、ややこしい事態に巻き込まれない限りは楽しい物だ。
そんな彼女がホワイトデーの為に作るのは、お返しとしては定番のホワイトマシュマロ。彼女自身や旦那様のお返しにも良いし、何よりまだ幼い娘の時雨も食べられるから、家族で楽しむのにもちょうど良い。
その場面を想像するだけでも楽しくて、ちょっとうきうきしている悠季にエドワードが挨拶をした。
「どうも初めまして」
「こちらこそ、よろしくね」
コックコート姿の彼に、悠季は笑ってそう頷く。彼のコックコートはきっちりと使われた物で、どうやらそれなりに腕前はありそうだ。
そう考えながら1人、1人に視線を向けた悠季の視線が、灯吾の上でふと止まった。何やらいつもの彼とは違って、ちょっと緊張しているというか、落ち着かないというか――色んな意味で楽しそうな匂いが、する。
だが灯吾はと言えば、そんな視線に気づく余裕もなかった。何となれば彼は気付けば、今はシノンに尋ねられて今日作る予定の何だか言うクッキーの名前を告げている、舞香の仕種を追っていたのだから。
そんな灯吾に、エドワードとユーリは顔を見合わせ、苦笑する。それに悠季が「何よ?」と興味津々の眼差しを向けてきたが、曖昧に肩を竦めてごまかして。
(‥‥灯吾君は、昨日の特訓の成果は発揮出来そうかな)
(厳しいんじゃないかなー‥‥)
眼差しだけで会話して、まだ舞香を見たままの灯吾に揃って息を吐く。アオカがちらりと視線を向けてきたけれども、特に興味はなかったようで、何も言わずふいと視線を逸らし。
とまれ一通りの挨拶などを終えて、お菓子作りは始まった。まずは本来の主催(?)である舞香が配るためのお菓子を作ろうと、シノンはクッキーの作成を手伝う事にする。
クッキーと一口に言っても、味から形、作り方まで様々だ。地域に寄っても違うし、時期によっても違うし、目的によっても工夫を凝らせるという意味では、比較的簡単にバリエーションを増やせるお菓子でもある。
・・・が、作り方まで簡単なのかと言われれば、『美味しいクッキー』を目指すのならば、その限りでは、ない。
「じゃ、しぃは小麦粉をふるってくね! これだけ作るんだったら大量に要るよね!」
「ありがとうございます。じゃあ、私はその間にバターを練って‥‥と、そういえば灯吾さん、作りたいクッキーはありますか?」
「――‥‥へ? ‥‥ッ、なななななッ、何でも良いっす!」
「‥‥‥? じゃあ同じで大丈夫でしょうか。型抜きクッキーなら色々、見た目も楽しめますから灯吾さんの贈りたい方のイメージにすると良いかもしれませんね」
あからさまに挙動不審な灯吾に、軽く首を傾げながらも舞香はそう言って、灯吾には砂糖をふるいにかけて欲しい、と依頼した。それにぶんぶん首が折れそうなほど頷き、わしッ、と力強く粉ふるいを握る灯吾である。
そうして、勢い余って砂糖が床にぶちまけてしまった彼が「す、すみませんっす!」と慌てて床掃除をするのを見て、ふぅん、と悠季はまた面白そうに笑った。教えるだけなら彼女も、手取り足取り色々と教える事は出来るが、幾ら不慣れな様子とは言えあそこに割って入るほど人が悪くはない。
ね、と同意を求める様に目配せした悠季に、小さな笑みを返しながら雨音もまた、クッキー生地の作成に取り掛かった。彼女が作るのはホワイトデーに絡めた、ホワイトチョコクッキーだ。
生地にもホワイトチョコパウダーを適当な量を練り込むと、普通よりも僅かに白みがかった生地になる。焼く前に手の温度でパウダーを溶かしてしまわないよう、手早く練り込むのがポイントだ。
トッピング用のホワイトチョコチップを半分ほど混ぜて、さらに手早く。これらは、忙しい合間を縫って何とか恋人には渡せたものの、舞香と同じく友人や世話になった人には渡せなかったお礼チョコの代わりに、配って回る予定だ。
(‥‥以前よりも落ち着いたようですね)
そうして休まず手を動かしながら、雨音は舞香の様子を見てそう、胸の中で独りごちた。姉妹の来訪を聞いた当初は、彼女たちとの今までの関わりもあって『何か緊急事態でも‥‥?』と心配になった雨音だ。
とは言え良く聞いて見れば、単にお菓子を作りに来るらしい。それもそれで良く判らないと思った物の、彼女の様子を見る意味でも、一緒にお菓子を作ろうと思ったのである。
その甲斐は、どうやらあった様だ。とはいえ彼女が親しき友と想っていた女性の死を知って、なお平静で居られるかは舞香の不安定さを知る身としては些か、不安だが――
同じくほっとした表情と、まだ少し心配そうな表情を複雑に浮かべていたアニーが、あふ、と欠伸を噛み殺したエドワードに気付いてこくり、首を傾げた。
「お疲れですか?」
「ああ、いや‥‥下準備に、夜明け前から取り掛かっていたものでね。少し寝不足で」
「はぁ‥‥確かに、どれも手が込んでそうですね。お得意なんですか?」
そんなアニーに応えたエドワードの前の作業台には、幾つものボウルが並び、それぞれに計ったり、混ぜ合わせたり、用意して来たと思しきラッピングが積み上げてあったり。チョコミルクレープ用のクレープ生地は、すでにしっとり焼き上がっていて冷ましている状態だ。
まぁね、とエドワードはホイップクリームを泡立てながら、アニーの言葉に頷いた。得意と言えば得意ではある、が。
「僕は能力者である前に『スパイ』をやっていたからね‥‥」
誰にも正体を悟られないよう、様々な業種の人間に成り済ましたのが一体どれほどの数だったか、エドワード自身ももう覚えていない。潜入活動において証拠を残す事など論外だから、自然と情報や技術を記憶し、体得する事を目指す事になり。
その最中で料理業界にも身を置き、仕事というだけでなく興味を惹かれたのが、エドワードにとっては幸いだったのか。その頃に公私を兼ねて培った技術と知識のおかげで、今では大抵のものなら空でレシピを覚え、作れるようになった。
そんなエドワードに、なるほど、とアニーはこっくり頷く。彼女もまた、今はLHに出向中の身とは言え、イギリス諜報部に所属する身だ。彼女の職務はそれではないが、職場柄、そういった話は珍しくない。
だからそんな話をしながら、気付けば同じ作業台で材料を混ぜ合わせたり、オーブンで焼き上げたりしている2人の会話を、聞くともなく聞きながらユーリは鼻歌混じりに、天板の上にマカロン生地を搾り出す。そうして生地を乾かしている間に、ホワイト・フォンダンショコラの準備に取り掛かった。
こちらもホワイトデーに合わせて、ホワイトチョコパウダーを使った、本体も中身も白いお菓子。どうもこのバレンタインは慌ただしい事が多かったようで、ユーリもまた友チョコを友人達に渡し損ねたのだ――本来ならユーリも貰う側ではないかと思うが、渡したい人が渡せば良い、うん。
マカロンはたくさん作れるから普通の友人相手に、ごく親しい相手にはホワイト・フォンダンショコラを。ホワイトチョコパウダーと小麦粉を合わせてふるいにかけて、その間に材料をボウルに入れて混ぜ合わせる。
それから中に仕込むガナッシュを取り出したユーリの背後に、近寄ったアオカが手元を覗き込んでこくり、首を傾げた。
「これは何ですの?」
「うん? 後で温め直しても美味しいように、中に入れてから焼くんだ」
「ふぅん‥‥色々ありますのね。そのジャムは何に使うんですの?」
「マカロンに挟むんだ。アプリコットジャムとラズベリージャム、どっちも家で作ってきたんだ♪」
珍しそうに尋ねるアオカに、1つ1つ丁寧に答えながらユーリは忙しく、何より楽しく手を動かす。そんなユーリに礼を言って、アオカはまた別の作業台へとふらり、歩いていった。
最初こそ、シノンの後ろで何をやっているのか見学していたアオカだったが、シノンときたら最初はクッキー作りを手伝っていたかと思うと、次は何やら大きなボウルを抱えてカシャカシャやり始めて、アオカの方を振り向きもしない。いや、正確には時々ほわんと夢見がちな目で見てくるのだが、ただそれだけだ。
ならば自分でも何か作れば良いと言われそうだが、何しろアオカは幼い頃から音楽で育ってきたものだから、手を怪我するような事は一切させられずに育ってきた。まして料理なんて、包丁で指を切るかもしれないし、火で火傷するかもしれないし、というわけでアオカの担当は常に、食器を並べたり家族のために料理を取り分けたり、といった手に負担のない事ばかり。
故に、料理の盛り付けやデコレーションといった、センスを必要とする部分は上手なアオカだったが、料理そのものに関しては壊滅的で。つまるところ、すっかり暇を持て余した彼女は、早々にシノンを見捨てて他の人々がやっている事を、こうして見て回ったり、尋ねて回ったりしているのだった。
次に通り掛かったのは、悠季がホワイトマシュマロを綺麗にラッピングしている所だった。色とりどりの包装紙やリボンを用意して、鮮やかに綺麗に飾ったお菓子を貰ったら、受け取った側としても込められた気持ちが判ってきっと、ただ貰うよりも嬉しいと思うのだ。
だから色々と、思いつく限りの意匠を凝らしてホワイトマシュマロを入れた袋を飾る悠季の手元を、じっと見ていたアオカがアドバイスする。
「そのリボンと包装紙でしたら、こう結んだ方が見栄えがしましてよ」
「あ、それ良いわね! そうだ、せっかくだから手伝ってくれない?」
「――ええ、構いませんわ。シノンはまだ、アオを放ってお菓子作りに夢中なようですし」
つん、とトゲをたっぷり含んだアオカの言葉に、あら、と悠季はシノンの方を見た。そうして、どうかすれば頭の周りに咲いているお花すら見えそうな彼の様子に、大きく納得する。
そのシノンはと言えば、やっぱり2人の視線に気づく事もなく、巨大なケーキの作成に夢中になっていた。否、正確には巨大なケーキを作りながら、妄想のお花畑を羽ばたくのに夢中になっていた。
ウェディングケーキさながらにホワイトチョコケーキを三段重ねにして、周りに塗ったホワイトチョコクリームにアオカと自分のシンボルである燕と星の型抜きクッキーを飾りながら、ぶつぶつと呟いているのは独り言だ。
「うん、やっぱりアオカはここに居た方が良いよね〜。アオカとしぃで飾られたケーキでウェディング‥‥えへへ〜、ちょっと早いけど、ケーキ入刀の予行練習とかしたいなんて言えないよ!! アオカは料理が苦手だけど、将来はしぃが専業主夫になれば安泰だねッ。アオカが好きなものをいっぱい作ってあげて、あ、子供は三人かな? アオカに似た女の子と〜、しぃに似た男の子と〜、でも男の子が『ママと結婚する!』なんて言ったら、アオカはしぃのものだよ! って怒っちゃいそうだよッ。でもでも、アオカとの子供は欲しいし〜‥‥」
「――‥‥何をニヤニヤしていますの、気持ち悪い。大体、その妄言はなんですの?」
とめどなく流れ続ける妄言に、ついにアオカが絶対零度の空気を纏わせ、声をかけた。言っている事も言っている事なら、そもそもそれ以前の問題で間違っている。レディを放っておいて、自分だけ何かしてるなんて、それでも男性のつもりなのだろうか。
故にシノンを現実に引き戻し、限りなく冷たい眼差しと声色で、お説教を開始した。
「よろしくて。どんな時も、女の子には気を配らないとモテませんわよ。シノンにはその辺りがわかってないようですわね」
「ぅ‥‥ごめんね。つまりアオカ、しぃに構って欲しかったんだね」
「どうしてそうなりますの?」
アオカのお説教を、あくまで前向きに受け止めたシノンの謝罪に、アオカの空気は冷たくなる一方である。それは端から見ていてもはっきりと解る程だったのだが、前向き妄想ワールド全開中のシノンだけは気付かない。
どこも大変ですね、とホワイトチョコクッキーの焼き上がりを見ながら、雨音はそっと微笑んだ。あの2人がどうなるのかは、神のみぞ知る、といった所だろう。
●
お菓子作りが一段落した頃、友人に会いに行くと言っていた涼香が、喫茶店へと戻ってきた。楽しい一時を過ごしてきた、というよりはどこか、暇を持て余して仕方なく戻ってきたようにも感じられる。
そんな涼香にも席を勧め、雨音はさきほど作ったホワイトチョコクッキーと、それから淹れたての紅茶をことり、置いた。他のみんなの前にもそれぞれ、同じように紅茶とクッキーが並んでいる。
「お口に合うかどうか分かりませんが‥‥少しでも美味しいと思って頂けるのなら嬉しく思います」
「あ、ありがとう」
その言葉に、礼を言って口をつけた涼香は、美味しい、と目を丸くした。それにふわりと微笑んで、良かったです、と雨音は頷く。
2口、3口と喉を潤し、目を細めて香りを楽しんでいた涼香は、そのまま雨音とは視線を合わせないまま、あの、と呟いた。
「‥‥その、今日はどうだった?」
「――‥‥舞香さんも皆さんも、とても楽しそうでしたよ。もちろん、私も」
尋ねた涼香にそう答えると、ほっとした笑顔が返る。それからまた1口紅茶を飲んで、ほんと美味しい、と目を細める――どうやら紅茶だけでなく、雨音は彼女の満足行く答えを返せたようだ。
大人数用の少し大きなテーブルに並んでいるのは、雨音のクッキーだけではない。ユーリが作ったマカロンも、仕上げのホワイトチョココーティングまで終えてみんなに振る舞われているし、エドワードが作った一口サイズの苺ショートや、チョコミルクレープ、キャラメルパウンドケーキもちょこんとお皿に並んでいる。
それらに混じって灯吾が何とか作り上げたクッキーも、申し訳ばかりに隅に並んでいた。あれからもなかなかの失敗を繰り返した――例えばクッキー生地を力の限り練り上げたりとか――彼が、何とか人に饗せるレベルのものを作成出来たのは、根気よく教えてくれた舞香と、彼女が子供でも作りやすいはずだとチョイスした型抜きクッキーと、それから友人達のおかげである。
ゆえに舞香に心からの礼を言い、隣に座ってぎくしゃくしながらも皆のお菓子を食べて「うまいっすよ!」と笑顔を振り撒く灯吾だ。そんな彼に余ったマシュマロを勧めながら、それで、と悠季は面白そうに笑った。
「何だか、昨日も来てたって涼香さんから聞いたけど。何をしてたのかしら?」
「ぶほぉッ!?」
そうして告げられた言葉に、灯吾は飲み込みかけたマシュマロを喉に詰め、慌てて紅茶を飲み干して「あちぃッ!?」とまたあたふたする。びっくりした舞香が「大丈夫ですか?」と声をかけるのに、何とか手振りだけで応えてから、ちょっとだけ恨めしげに涼香を見たけれども彼女はどこ吹く風だ。
どうやら悠季は話を聞くまで収まりそうにない。といってみんなには、特に舞香には聞かれたい話では、なく。
同情と、ちょっとした悪戯心で、ユーリとエドワードはそんな彼を見つめた――そもそもは、久方のお菓子作りだから目一杯楽しもうと、本部の受付で喜々としながら参加したユーリに、灯吾が「お菓子作りを特訓して欲しい」と頼んだ事から始まったのだ。
舞香がやってくると知り、かなり舞い上がりながら参加を申し込んだは良いものの、灯吾は実はお菓子など作ったことがない。ゆえに誰か教えてくれる人をと募集していたら、当の舞香から『良ければ』と連絡があって、灯吾は大喜びで頷いた。
――のだが、舞香に教えてもらえると思うとそれだけでそわそわごろごろする位に嬉しいが、果して舞香が隣でお菓子を教えてくれている間、平静で居られるだろうか。否、絶対に緊張して、ただでさえやった事もないお菓子作りが覚束なくなり、舞香に呆れられてしまうかもしれない。
そんな訳でますます特訓の必要(?)を感じ、依頼を通じての友人であるユーリに頭を下げて。たまたまそれを聞き付けたエドワードが、一緒にやろうと申し出て、急遽前日に集合しての特訓となったのだった。
(しみじみ、何とかなって良かったよねー‥‥)
その時の事を思い出しながら、ユーリは安堵とも悲哀ともつかないため息を吐く。講師はあまり向いてない、と告げたユーリにそれでもと頭を下げられて、事情を聞いて半ばは面白くなって協力したものの、翌日に教える事になる舞香が責任を感じないレベルには持って行かなければ、と責任も感じていたのだ。
ゆえに、チョイスしたのは一番失敗の少ないパウンドケーキ。基本的に材料の分量と混ぜる順番が間違ってなければ酷いものにはならないし、きちんとバターを室温で柔らかくしておくとか、混ぜる時にこねすぎて空気を全部抜かなければ大丈夫、なはずなのだ。
『そうだね。僕も、パウンドケーキはある意味、焼き菓子作りの入口だと思うよ』
ユーリの言葉に、エドワードもそう頷いた。そうして2人で灯吾にレクチャーを始めたものの、その『入口』を通り抜けるまでにも努力を要する人間が居るのだと、彼らはしみじみと思い知る事になった。
「まず、菓子作りで重要なのが粉ふるいだと思うんだ」というエドワードの言葉を聞けば、張り切って力の限り粉ふるいをふるい、粉塵を舞い上がらせる。材料を混ぜ合わせれば、ガッシガッシと器具を全力で動かして、ボウルの中には半分も残っていない有様。
とはいえ灯吾自身はごくごく真面目に、必死で『特訓』しているのだから、まさか責める事はもちろん、呆れる訳にだって行かない。ゆえにまずは力加減を教える所から始まって、ユーリが「こう、さっくりと切る感じで混ぜて」と後ろから手を持って一緒に動かしてみたり、エドワードが「粉ふるいはこう、確実に、だが優しく叩くんだ」と実演したりして、ようやくパウンドケーキらしきものが焼き上がったのである。
いささか膨らみが少なく、不格好な感が拭えないとはいえ、オーブンから出したパウンドケーキに竹串を通し、生焼けしてなかった時には灯吾のみならず、ユーリとエドワードまで快采の声をあげたものだ。その時を思い出し、しみじみと頷き合ったユーリとエドワードに、気付いた悠季は矛先を変え「ねぇ、どうなの?」と質問攻めにしようとする。
が、それを不意に遮ったのは、「馬鹿じゃありませんの!?」というアオカの怒声だった。
「こんなに食べられるわけないでしょーが!」
「だってアオカに、しぃの純白の愛をプレゼントだもんッ! しぃをアオカ色に染めて‥‥ッ」
「何を寝ぼけた事を言ってますの!?」
ポッと頬を染めて、初夜に臨む花嫁――よりは遥かに図太く、だがそんな気持ち(のつもり)で言ったシノンに、アオカは盛大かつ全力でツッコミを入れる。だがちっとも応えた様子のないシノンに、大きな、大きなため息を一つ、吐いた。
目の前には「はい、アオカ! ホワイトデーのお返しだよ!」と置かれた、実に堂々とした、三段重ねに様々なデコレーションがこれでもかと加えられた、見事なホワイトチョコケーキ。それを丸ごと「ホワイトデーのお返し」という事は、これを丸々、アオカに食べろと言うことか?
(この子、アオが少食ということ完全に忘れてますわね‥‥?)
妄想だけが炸裂した結果、とにかくケーキを作る事だけに集中したのだろう。全く、こういう所もレディに気を使えてないし、モテる要素が皆無過ぎてため息しか出てこない。
おまけに傍らに置かれているのは、ホワイトリボンを柄に結んだケーキナイフ。シノンの妄言を思い出し、嫌な予感がして「これはなんですの」と尋ねれば案の定、ますますポッと顔を赤らめて「しぃとアオカのケーキ入刀‥‥あッ、もちろん予行演習だよッ! 本番はもっと大きなケーキを用意するからね♪」と言い出す始末だ。
くらり、目眩がした。もはやそれに毒舌を返すのも面倒臭くなり、「ふん」と鼻だけ鳴らすとさっさと済ませるべくナイフを掴み、ケーキに狙いを定める。
それからチラリ、動こうとしないシノンにイライラと目を向けた。
「どうしましたの? これくらい、付き合って差し上げますわよ」
「‥‥ッ、うん! ぁ、終わったらしぃが切り分けてあげるね!」
その言葉に、文字通り尻尾を振ってシノンはアオカの側にすっ飛んで行き、無事に念願の『ケーキ入刀』を果した。それだけでも昇天しそうな勢いで、喜々としてケーキを切り分け、お皿に乗せて渡してあげる。
「残りは切り分けて、演劇部の部室に持って行きましょう。皆さんを呼んでおきますわ」
「うん! アオカ、美味しい?」
「――まずくはありませんわ」
「‥‥もう、なにをニヤニヤしていますの、まったく。仕方ないですわね!」
何を言われてもニコニコと幸せそうな表情のシノンに、アオカがはっきりと冷たい表情になったが、シノンは全く気にしなかった。愛してるアオカだから、何をされてもシノンは幸せなのだ。
そんな空気に中てられたのだろう、悠季は小さく肩を竦めて、男性陣への追求を諦めた。代わりにエドワードに、ごく真っ当(?)に問いかける。
「あんたは誰か、意中の人にあげる為に作ってたの?」
「うん、まぁ‥‥う〜ん、僕の‥‥上司、かな?」
「ふぅん‥‥じゃあ、渡す際にはお礼と感謝の気持ちを記したカードも添えると良いわよ」
そんな問いかけに、照れた様子で答えたエドワードの脳裏には、件の『上司』の面影が浮かんでいるようで、見るからにほわりとした表情になった。それに、良いわねぇ、と目を細めながらそんなアドバイスをした悠季に、当のエドワードではなく灯吾がこくこく頷いている。
その拍子にふと、灯吾は舞香の隣に置かれたカバンから覗いている包みに気がついた。とても見覚えのあるそれは、以前に仕事も兼ねて彼女を訪ねた時に、元気を出してくれれば良いと渡したもの。
ふわり、胸が暖かくなった。
「舞香さん、これ‥‥」
「‥‥ぁ。その、アニーと一緒に飲もうと思ってたんです。――あの時はわざわざ、本当にありがとうございました」
目を丸くして、ちょっとばかし頬も緩めながら尋ねた灯吾に、舞香は長い髪を揺らして微笑み、軽く頭を下げた。それからテーブルの向こうにいる、アニーにねぇ、と声をかける。
「アニー、このお茶を一緒に飲まない? ――前に灯吾さんから貰った紅茶なの。アニーと一緒に、と思って」
「紅茶、ですか? はい、良いですよ」
「でしたら、道具をお貸しします。その紅茶はきっと、舞香さんがご自分で淹れた方が良いでしょうから」
「ありがとうございます、雨音さん」
そうしてそんな会話を交わすのを、内心に沸き上がって来るとめどない喜びを押し殺すのに苦労しながら、灯吾はじっと見詰めていた。自分が贈った紅茶を大切にしてくれて、こうして特別な友人と飲むためにと思ってくれた、それがすごく嬉しかった。
●
旅立ちの日の空港は、賑やかな雑踏で満ちていた。その中を2人並んで歩く雪島姉妹は、そっくりなのにやはりどこか違う雰囲気を持っている。
彼女達を見送りにやって来た灯吾は、それじゃあ、と手荷物検査の先に行こうとする2人を呼び止めた。そうして、おや? と瓜二つの表情で顔を見合わせ、それから灯吾を見た2人に――舞香を、まっすぐ見て口を開く。
「あの、舞香さん。マリアさんが――ロシアで死んだ事、ご存知っすか?」
「マリアさん、が‥‥?」
やはり、彼女はその事実を知らなかったらしく、大きく目を見開き、息を飲んだ。そんな彼女を気遣う様に目を細め、慎重に言葉を選びながら灯吾は、マリアの最期を――彼女の恋心が本当だった事を、話す。
それに、そうですか、と舞香は嬉しそうに、寂しそうに微笑んで頷いた。例え問題のある人物で――しかも舞香自身も騙され、犯罪に利用されたのに、それでも彼女がマリアを気にしていた事が、心配していた事がありありと伺える、微笑。
それに何か言いたそうだった涼香は、けれども結局何も言わないまま、唇を尖らせてそっぽを向く。その気持ちもまた、理解が出来る。
だから、と灯吾は笑顔を作って、手に持っていた紙袋を舞香へと手渡した。中に入っているのは特訓の時に作ったパウンドケーキと、ローテローゼ――愛を告げる時に渡す花。
「舞香さん、寂しくなんないで、自由でいて下さいっすよ」
「灯吾さん――」
「そんで、その‥‥今度は、俺が神戸を訪ねて行きたいっす!」
「‥‥‥」
内心、心臓が破裂するんじゃないかと思うほどどきどきしながら、思い切って灯吾が告げた言葉に、舞香は少し困った様に――否、戸惑う様に小さく首を傾げ、手の中のパウンドケーキとローテローゼを見下ろした。不器用な、けれども一生懸命さが伺える包装。
ちらりと伺う様に涼香を見て、それからふわり、舞香は彼に微笑んだ。
「――えぇ。その時には他の場所にも、ご案内しますね」
「はい!」
その言葉に、灯吾は大きく頷いた。頷き、満面の笑顔になった彼に、また舞香は小さく、笑う。
――だがその後、見送られて神戸までの帰路に着いた、舞香が飛行機の中でぽつり、涼香に呟いたのを聞いていたら、灯吾も頭を抱えたかも、知れない。
「ねぇ、涼香。灯吾さんの言葉って、どういう意味だったのかしら?」
「――‥‥はぁ? どうってそりゃ‥‥」
どうやら真剣に悩んでいるらしい双子の姉を、涼香は思わず振り返って、予想通り複雑な顔になってる舞香にため息を吐く。彼女が一体どの辺に戸惑って、どう悩んで、どう困っているのか、悲しい事にとても、とても理解出来た。
だから涼香はひょいと肩を竦め――簡単に言えば匙を投げてまた、大きなため息を、吐く。妙な所で自分に自身のない姉は、一度ハマると考えなくて良い事まで考えて悩み出すのが、悪い癖だ。
(‥‥舞香ってホント、昔っからこうなんだから)
――そんな姉妹のそれぞれの思いを乗せて、飛行機は着々と神戸に向かって飛んでいたのだった。