●オープニング本文

「判りました、判ったのでこれ以上こっち見ないでください」
　――経緯は聞かないであげるのがとりあえず優しさだろう。

　リエル経由で紹介されたオーストリアの雑貨屋『スノードロップ』。
　小さな商店通りから店に入り、目にした木目調のアンティークな店内は、およそ教室四つ分程度の大きさだろうか。
　店内に置かれた銀網の商品棚には、様々な色のガラス瓶が並べてあり、林檎の香水か、アロマオイルか、バスオイルか。視線が少し移れば林檎の刺繍をした清潔なタオルが積まれている。
　棚の横に展示されたテーブルには、林檎を組み込んだレースのテーブルクロスがかけられ、ビーズを詰め込んだ籠にぶら下がる果実の飾りが妙に愛らしい。
　近くにあるのは林檎モチーフの髪飾り、同じ辺りに、同じモチーフの貝ボタンが、マニアックな趣向故かひっそりと店隅の籠に置かれていた。
　此処まで見れば勘づくであろうが、此処は林檎をメインにした雑貨屋である。
「林檎はお好きですか？」
　――店員に話しかければ、とりあえずこのような言葉が飛んでくる。
「店長が林檎好きなんです」
　判りやすい理由だ。店員の首にかかっているのも、この店の品であると思わせる林檎のシルバーアクセサリーであり。エプロンにもモチーフがあるのかと思えば、胸の縁取りに模様が小さく隠れている。
　レジ近くの小棚には、パステルカラーの林檎の便箋を始めとした文房具一式。ガラスの鉛筆立ても林檎の模様入りで、深い藍色のブックカバーが落ち着いた色合いを添えていた。
　クレハ辺りなら気に入るのだろう数々を見て、クラウディアはしかし余り動じた様子もなく、部下の方を振り返る。
「‥‥貴様、本当にこういう店に詳しいな」
「知り合いの女性方が――」
　こういうのを結構好むもので、と言いかけ、これではたらしの告白ではないのかとリエルが頭を抱える。
　無論、そんな事はない。しかしこき使われているという現実もそれはそれで口にし辛くあり、上司が意地悪く瞳を細めるのに気づいた様子はなかった。

　当のクレハは、雑貨屋の二階にある喫茶店を物色している。
　アップルパイ、アップルティーと言ったメニューは当然のようにあったが、一休みさせるためコーヒーくらいは普通に用意されているらしい。
　白い食器の模様もまた林檎。下に比べればかなりの控えめさだったが、徹底されていますわねとクレハは苦笑を浮かべる。
　当然のように、下の売り場には喫茶店が使っているのと同種の食器がティーポットまで揃っていた。スプーンの柄までが林檎になっているのは、感心するべき所なのだろうか。
　ティーコゼは手触りが優しく、林檎の布マスコットがぶら下がっている。
　お土産の林檎ジャムくらいは手を出してみていいかな、と、クレハは軽くその程度に思っていた。

●参加者一覧

/ 花＝シルエイト（ga0053） / 柚井　ソラ（ga0187） / 藤田あやこ（ga0204） / ロジー・ビィ（ga1031） / 如月・由梨（ga1805） / 叢雲（ga2494） / 終夜・無月（ga3084） / 宗太郎＝シルエイト（ga4261） / ＵＮＫＮＯＷＮ（ga4276） / アルヴァイム（ga5051） / ハンナ・ルーベンス（ga5138） / アンドレアス・ラーセン（ga6523） / クラウディア・マリウス（ga6559） / 不知火真琴（ga7201） / Ｃｅｒｂｅｒｕｓ（ga8178） / 百地・悠季（ga8270） / 天狼　スザク（ga9707） / 諌山美雲（gb5758） / 諌山詠（gb7651） / 相澤　真夜（gb8203） / 特攻隊長（gb9732）

●リプレイ本文

　清潔な店内に、囁きじみた談笑が増す。
　問うまでもなく声色は好奇が大半で、後は歓声に近い。
　触れればひんやりとしそうな商品の数々、整然とした工芸品の美しさは余す事なく表現され、愛でる人々を喜ばせる。

「わぁ‥‥」
　感嘆の声を上げ、揺れる銀髪が棚の間を横切り、後ろに柚井　ソラ（ga0187）が続く。
「はわっ、凄い。可愛いー」
　楽しそうに振り向くクラウディア・マリウス（ga6559）に、ソラは「はい！」と笑顔を返した。
　そのまま身を翻し、クラウディアは好奇心のままに陳列された品へと引き寄せられていく。触れれば傾く天秤のオブジェ、台座に置かれた、林檎を持った子供のミニチュアマスコット。
　天秤が揺れるに連れ、銀色のチェーンが星のようにきらめく姿に惹かれたのか、クラウディアの視線は暫し釘付けになっている。
　心惹かれながらも注意を引き離し、今度は食器の棚へと。引き寄せられた先で目にする、硬質的な白皙の美しさと装飾が描く柔らかな調律。
「ねえねえ、ソラ君見て、このお皿可愛い！」
　引き寄せられるまま、足を進めるクラウディアにソラが慌てながらもちょこちょことついていく。目を離せばあっさりとはぐれそうで。でも、クラウディアが表情から見せるあふれんばかりの楽しさに伝染したのか、慌ただしさもソラにとっては心を浮き立たせるものになりつつあった。
　注目する食器に盛りつけるべきは甘い菓子類か、パステルオレンジのテーブルクロスを共に敷いて、ティーカップに添えるソーサーを選んでも楽しいかもしれない。保温用の可愛いティーコジーもあった筈なのだから、ここで一式揃える事も出来るだろう。友人を呼ぶのが楽しくなるだろうか。
　心躍るまま想像を進め、物色を進めれば銀製のナイフやスプーンも欲しくなってしまう。
　視線を上げ、クラウディアがちゃんと近くにいることを確認して安堵を覚えてから、ソラは視線を手元に移す。
　童話の挿絵のように、愛らしい縁取りがされた白地の皿。こういうのは好んでくれるだろうか――誰が？――。
　ふと浮かんだ迷いに、困惑を滲ませたはにかみを浮かべ、視線を更に泳がせる。
　――クラウディアとのルームシェアが始まるのだから、色々揃える必要がある。
　そっちも大事だ、と自分に言い聞かせ、音を立てないように皿を棚に戻しながら、ぱたぱたと駆け出した。

　隣に誰かがいる感覚。言葉にするには難しく、くすぐったくて、戸惑いが歩みを緩ませ、同行者を気遣って冴木美雲（gb5758）は後ろを振り向く。
　名前を呼ぼうとすれば先に気恥ずかしさが募り、招くように呼び寄せる声も、敬称をつけた幸せな甘さに満ちている。「いきましょう？」
　確かめるような響きがあることに自分でも驚く。柔らかく微笑んで貰えれば嬉しさが募り、歩みを数歩下げ、大切な人の側に並んだ。
　腕を絡め、感じるぬくもりと、共にする歩みは期待と予感に満ちている。何かを目にして、自分たちと重ね合わせて。――貴方は喜んでくれるだろうか、考えの変化すら意識すると甘く感じる。
　思わず溢れるはにかみは、間違いなく自分が望んだ幸せだ。
　『可愛い』と気持ちを伝えて笑んで、「これはどうですか？」と言葉を重ね合わせる。
「詠さんもちゃんと選んで下さいね？」
　恋人にねだる言葉を向けられれば、諌山詠（gb7651）は「出来るかな」と困惑の笑みを滲ませた。装飾の類ならある程度見立ては出来るかもしれないと、視線を巡らせる。
　美雲に告げていない用事が実は一つあって。美雲が二階を覗きに行っている間、
「‥‥すみません、ちょっと」
　恋人への贈り物を選びたいと、助言を求める詠に店員は贈り物の方向性を問うた。真っ先に思い浮かんだのが髪留めだと告げる彼に重ねて頷き、通りかかったクレハが言葉を挟む。
　『恥ずかしがるのは後回しでいい』と前置きで逃げ道を塞いでから、詠に告げるのは、女の子は大切な人の贈り物を望んで着飾りたいという事だ。
「ささやかな物も良いですけど、贈り物の一つに『特別』があるのは素敵じゃないでしょうか」
　大切な思い出になりますから、と。
「‥‥あ」
　店員の案内の元、アクセサリー区画を巡る詠の歩みを止めたのは、クリーム色のシフォンで作られた林檎の花飾り。触れればほどけてしまいそうに花びらは柔らかく再現され、これ一つで十分な位に大振りだが、柔らかい色調のせいか派手さは感じない。
　根本には楚々としたパールが飾られ、揺れるそれを見つめれば恋人の黒いポニーテールも思い浮かぶ。
　クレハは別の傭兵に呼ばれ、立ち去りかけていた。視線が合い、詠の方を察せばふわ、と笑って。
「良ければ今度、お相手の事も聞かせてくださいな、思ってる事も。そしたらもっと素敵な物を考えられるかもしれませんわ」

　隅にいた士官たちは、挨拶してくる傭兵達にそれぞれ会釈を返す。名乗り上げを聞き、見送った後で未だ残ってる傭兵達の方を振り返る。
「ここではなんですし、移りましょうか」
　宗太郎＝シルエイト（ga4261）の持ちかけに対し、中尉は先に行ってろとリエルを促す。ソラに断り、自分の元に来ているクラウディアから笑顔の挨拶を受ければ、また来てくれていたのかとやや柔らかく零した。
「えっと、お引越ししました！」
　途中までは見知っていたらしく、差し出された引っ越し先のメモ、本日の用件に対して連ねて頷く。見ているものへの問いには、
「身につけるものは余り好きではないのだが。‥‥空間に合うものを選ぶのは落ち着くな」
　同じ素材でも、調合によって受ける感じは少しずつ違う、淡青のラベルが湛えるアロマオイルは一見目立たず、ハンカチに染みこませて顔に近づけると、瑞々しく透明感のある果物の香りがした。
　これも林檎だと、一歩遅れてクラウディアは思考が至り、お香を見るなら自分にも何か選んで貰えないかと持ちかける。
　香りを扱うものでも、此処はアロマオイル系が多い。沈むような甘さより、風のような清らかさが良いと踏んだのだろう、色々見た終に、先ほど試したのと同じ香油を持たせてくれた。

　クラウディアを見送り、ソラはクレハのもとを訪れていた。
　女の子への贈り物を相談するソラに、クレハは話を聞きながら暫し考え込む。選ぶ材料は余り多くない、以前クラウディアが贈り物を選ぶのを目にしたことがある位だ。相手を思いつつ、自らの立場として選んだのは。
「‥‥分かち合うという事ですわよね、きっと」
　装飾品の中でも、小物系を扱っている区画でクレハは足を止めた。棚を通り過ぎた先で振り向き、ヘアピンは幾つあっても案外困らないから、見てみてはどうかと提案する。
　幾つか見て回った品の中、ソラの感性は花を飾ったヘアピンに強く惹かれた。色硝子をはめ込む黒い枠縁は、ややステンドグラスの趣があり、光加減で作られるグラデーションが美しい。
（「‥‥青、かな？」）
　数多くあるが、花飾りの色はやはり青がいいと思う。思うなら、青い空の下で笑っている彼女によく映える気がして。
「はい、決めました。後‥‥」
「シュミッツ様なら、もう少し大人っぽいものでいいかもしれませんね」
　何を思ったのか、顔を染めるソラに対して、クレハは笑んで瞳を細める。促されるまま足を向け、趣違うアクセサリーの数々を見れば、ソラの頭がぐるぐると回り出した。
　クリームリボンのコサージュか、‥‥大人、な彼女には――きっとよく似合う。

　林檎尽くしというテーマに惹かれ、不知火真琴（ga7201）は一人一階を散策していた。
　幾つか香水やアロマなど試させて貰ったが、此処まで気づいたことは、緑のラベルは穏やかで、オレンジのラベルは少しの酸味がくすぐったかったこと。ピンク色のラベルは少し甘めに作られていて、夜使えばぐっすり眠れそうな気がしていた。
　モチーフ一つでどれだけ変化をつけられるのか、とばかりの林檎尽くしは見る人を飽きさせる事なく、足取りを弾ませながら、真琴は瓶の作りも含めて購入するものを厳選する。
　ハンドクリームは確実に手にするだろうし、香水も一つくらいは手にしてみたい。

　傭兵達が次々と二階へと上げっていき、逆に何人か降りてくる頃、かけられた言葉にクレハは振り向いた。
　暇乞いにも似た言葉を黙して聞き、吐息一つ、生き方は人それぞれであり、自分にそれを止める権利などないとクレハは断った上で。
「自分を痛めつけた先に、自分を許せる場所があるとは思いません」
　ため息混じりに睫を伏せて。
「多分、居たたまれないだけではないでしょうか」

　様々な目的――その多くを安らぎとして、二階の喫茶店は傭兵達で賑わっていた。
　振り向かなくても、リエルには連れが後ろで笑っているのを想像出来る、適当に席を取り、向かい合って座っても顔を上げる気すら起こらない。
「いや、本当に趣味のいい店です。流石女性経験豊富なリエルさん」
「面倒くさいのでストレートに言いますが、‥‥死にますか」
　ややげんなりとした色を混ぜながら吐息する、刺々しさ三割増しと言った風情だが、宗太郎には全く気にした風がない。これまでの付き合いによる信頼とエアリードである、多分、きっと、恐らくは。
　中尉が戻ってきたのを都合がいいとばかりに、宗太郎は話の対象を変えてきた。
「時に、オロールさん。さっきリエルさんは店の隅っこに居ましたが‥」
　宗太郎の耳打ちに対し、中尉は聞いた後、軽く笑い飛ばして。
「逆だ。リエルは余程でない限り、求められた事を断る事が出来ない、黙っているのは女を気遣ってるからだ。
　‥‥こいつがどこまで博識で、どこまで奉仕出来るのか、興味あるだろう？」
　本人の逆鱗に触れない限りだがな、と注釈して中尉は言葉を収めた。視線を向ければ、こういうのは反撃されない程度にちくちくいじめるのが正しい楽しみ方だとまた笑う。
「へぇ‥‥」
　思わぬ所から曹長の事を知り、感嘆する宗太郎にリエルは苦渋の色を増した。三人が気になるのか、二階に上がってきた月森　花（ga0053）が少し視線を移せば、如月・由梨（ga1805）が店の隅で一人沈み込んでいる。漏らす吐息も、談笑の中に埋もれて消えていた。
　店内は柔らかく、優しい光に満ちていたがそれも癒しには届かない。思考が重く、このまま朽ちていきたいという錯覚すらしている。
　張り詰めていたものがゆるみ、それに代わるのは『何かしなくちゃ』という焦燥、無力感だ。
　理由などなく、目的も喪失したまま、戦場に赴きたいという衝動だけが裡にある。
　‥‥正しくは、どうすればいいのか解らなくて。
　解らないまま、日常に放り出されて途方に暮れている。
　それでも何もしないままは嫌だから、思考は戦いの事を思い続けていた。‥‥そんなのでは、休憩にならない事を自覚しながらも。
　自覚に至れば、次は募るばかりの自己嫌悪。通り過ぎたかつてすら喪失したように思えて、いつからこうなってしまったのか考えてしまう。
　悪循環だ、それを打ち切るように、花の声が降りかかる。
「ええと‥‥由梨さん、よければ一緒に下の方、見にいかない？」
　顔を上げた先で、首を傾げる花。他人と共にいれば、少しは気も紛れるだろうかと由梨が頷いた。

　同じく二階、百地・悠季（ga8270）は一階でぶらぶらした後、二階で待ち合わせをしていた。
　買ったばかりのブレスレットに指を差し込めば、銀色のチェーンが指に軽く食い込んで絡まる。留め金を軽く外しては留め直し、一頻り弄ぶ事で夫が訪れるまでの時間を過ごす。
　足音が予感と合致すれば、動悸も少し早くなり、顔を上げ、正しくあると確認して思わず笑みが零れた。
　彼を前にすれば、笑い方もずいぶんと変わって、惰眠にも似た安穏を気ぶり、自覚しながら享受している。
　戦いを忘れたわけではないけれど、夫の側でくらいは、と。
　自ら沈むような安らぎは心地よく、口にしたロイヤルミルクティーが幸せを溢れさせる。ノンシュガーは少し苦いけど、感じる甘さとのバランスは丁度良い。
　冷えないか？　と手袋を外して差し出された彼の手は暖かく、少しざらついた感触がした。自分の体調を懸念して、環境が気に掛かって仕方ないと言わんばかりの夫の手を掴んだまま、悠季は笑いながら「冷える？」と逆に問い返す。
　体温は伝染し、後はお互いに繋ぐ手の感触くらいだ。否定の意味で首を横に振り、夫がストールをかけてくれれば、首元まで彼の体温で染められた。
　一層陥るような錯覚に悠季は笑みを深くし、「ありがと」と礼を告げる。

　休憩スペースの横には、もう一つ小型な食べ物売り場があった。
　甘味の持ち帰りから、林檎を使った食料品の数々とあり、由梨と花の二人は最終的に此処まで行き着いている。
　一階で小物や装飾を見ても結局余り興味を持てず――そんな自分を気遣ってくれたのだろうか、と由梨は思うも、問わなければ返事を貰える事もない。
　理由もなく、一歩を踏み出せず。ただ見て回るだけの由梨に、花は林檎の蜂蜜を差し出してくる。
「これ。お料理に使ってもらったらどうかな？」
　示されたものに首を傾げ、一拍子遅れて『誰が』作るのかと思い当たる。心が狼狽えて怯え、そこに。

「如月様ですか？　ええ、此処に。というか――‥‥」

　呼ばれた名前に反応して一階を覗けば、二階を示すクレハと、その向かい側に終夜・無月（ga3084）がいた。
　あ、と心が漏らす声。狼狽える間にも、無月は礼を言って二階に上がってくる。
　二階故に逃げ場はない、一瞬だけ緩降機の存在を考えたが、論外だ。気づかれぬように棚の影に身を伏せるが、
「‥‥‥‥っ！」
　階段を上がってきた無月が足をもつれさせ、膝をつく。
　もう一度内心に上がる驚きの声と、倒れ込むように数歩踏み出した向こうが此方の腕を捕まえるのはほぼ同時で。見つかってしまった、と思うのにそれどころではなく、由梨は無月を抱え込むようにして支え、様子を見た。
　心当たりは色々あって――店の隅を借り、ソファに寝かせれば、ほどなくして無月が意識を取り戻す。
　論理的に話が出来ない、思うのはなぜこんな事をしたのかという泣きたくなるような疑問で。
「こんな、無茶。もうしないでください！」
　心配して、探しに来てくれた事くらい由梨にだってわかっている。苦い嬉しさと焦りが混ざりあって、どんな顔をしていいのかわからなくなる。
「無茶か‥‥今無茶しないと‥‥駄目な気がしてね‥‥」
　やっと見つけた、と、力なく漏らされる微笑みは由梨の思考を一層混乱させた。伝えなければいけないのだと、理解すると同時に言葉が口をつき。
「忘れるなんて、無理なんです。私が戦いの中にいる限りは」
　物思いにふける間、悠季は難しく考えず、甘えればいいのだと言ってくれた。だが自分は遠回しな拒否を述べ。
　――私は‥‥甘えてばかりですから。自分で何とか折り合いをつけませんと。
　頑固であるという自覚はある、でも紛れなく自分が望んだ事であり、今は少しだけ一人にして欲しいと、押さえたトーンで短く告げた。
「ブリンディシ。私は近日中にそこへ行きますから」
　立ち上がった表情は毅然としていて、無月を気遣ってやや眉尻を下げている。体力の尽きた無月は引き止める事も出来ず、彼女が姿を消した後、糸がほどけたようにソファへ沈み込んだ。
　疲労した目の上に置いた片腕を外し、空を見上げ、虚空を掴むように腕を伸ばして突き上げ。
「其の心に‥‥必ず‥‥光を取り戻す‥‥」

　飴色に煮詰められた林檎を包むアプフェル・トルテ、雅なマルガレーテンには当然のように林檎のコンフィテューレが添えられる。
　林檎ケーキの作りはやや荒く、クリームとお茶に良く合うだろう。
「ここが楽園か！！」
　叫ぶ天狼　スザク（ga9707）の横で、相澤　真夜（gb8203）は既に片っ端から注文を始めていた。アップルティーはまとめて二人分、アップルパイにアップルミルクレープ。
　ほどなくすれば、「どっちかというと視覚的に甘ったるいわよね、あれ」と悠季が内心コメントしていたテーブルが出来上がる。
　ただでさえ砂糖たっぷりのお菓子には、別途注文した林檎ジャムが真夜の手によってあまくなあれとどさどさかけられていた。真夜が切り分け、差し出したお裾分けもスザクは顔色一つ変える事なく受け入れ、
「美味しいものは一人で食べるよりも二人で食べたほうが美味しいですねっ」
　笑みながら、口へ運ぶのにも躊躇しない。幸い元がシンプルにまとめられているため、甘さはしつこくなく、二人に幸福感だけをもたらした。
　となれば物足りなくなって、また食べたくなるのか、フォークが続けて進む。スザクが頼んだ和菓子の数々はすぐに出来ないからと、焼き林檎などが先に出されている。注文直後、案内してくれた士官が厨房に拉致られていて、
「‥‥作れるか？」
「材料があれば割と‥‥俺がやるんですか？」
　一発品を出さないのは店としてのプライドか。厨房に引っ込みかけたリエルを花が呼び止めた。
　手にした袋には、先ほど見ていた林檎風味の蜂蜜。甘いものを見ていたら曹長の誕生日を思い出して、気になった以上は見なかった振りも出来なかっただけ。
　らしい理由もなく、どんな顔をすればいいのかもわからず、どっちかというと抱えているのは腹立たしさで――まっすぐ祝福出来るほど素直にはなれず、ふてくされた顔なんて見られない方がいいとも思ってしまい――やや俯き、表情を伏せながら袋を押しつける形になってしまう。
「誕生日プレゼント‥‥今度、何かご馳走して‥‥欲しいな」
　屈折した花の振る舞いを気にした様子もなく、リエルは紙袋を覗きこむ。中身を確認したのち、了承の意味を含んで「有難うございます」と笑んでくれた。

　珈琲の注文を済ませ、席に倒れ込めば、今更のように体の痛みがアンドレアス・ラーセン（ga6523）を襲う。
　乱れた心拍によって息は上がり、意識に空いた穴へ無力感が詰め寄ってくる。血液が失われ、指先は冷たい。渇く喉が割れた痛みを訴え、呼吸を締め付ける。
　終わった、という意識か、終わってしまった、という落胆か。
　――俺は、俺を赦せていない。
　タイでの一戦は、未だ苦い余韻を残している。痛み分けに持って行けたのは上出来なのかと思うも、後ろめたさは拭えずにいた。
（「アルヴァイムも、叢雲も、多くの人が力を尽くしてくれたのに」）
　現実に向き合おうとすれば、心が辛くなる。足場がおぼつかなくて、踏みとどまりたい意識と、贖罪として差し出せば許されるだろうかという錯覚が心に決断を迫る。
　違う事は解っていた。ただ空いた穴は脆くて、触れられるだけで痛みを訴える。
　喪失した現実感は、軋む痛みにすら居場所を求めていた。痛みが赦しになるなど、あるはずもないのに。
　気がつけば、アルヴァイム（ga5051）が目の前にいた。なんで遭遇したのか、思考する余裕すらなく。
「‥‥アルヴァイム」
　向き合って、どんな言葉を言えというのか。
「俺、は――」
　役に立てているか、その言葉はかろうじて飲み込んだ。自らを戒めるように、甘えを許さないように、理性はこんな時に働いていて。
「‥‥すまない」
　滲むように漏らした苦い言葉。喘ぐ内心とは裏腹に諦観の言葉を漏らし、視線を落として、失望が現実になることを恐れている。
　指は血色が失せていた。アルヴァイムは首を横に振り、軽い否定から言葉を始め。
「上手く行かない事くらいは、時にあるかと」

　吐息を漏らして、ロジー・ビィ（ga1031）はアップルティーの香りに心を沈める。
　カップは手の中で温度を保ったまま、口にした優しい味が喉を温めてくれる。
　アンドレアスを少し心配したりもしたが、傍目から見ても愛されているのが良く解って。思わず微笑みが漏れ、緩んだ心は少し重さが消えているような気がした。
　後悔は避けられたものではなく、考え込めば未だ恐怖がつきまとう。吐息を漏らせば、頼りない内心にこわごわとした感触が染みついてしまった。
　あれで良かったのかと、結果を思うのが怖い。縋り付いた紅茶の口触りは意識に甘くて、強ばった心をほぐしてくれる。
「‥‥美味しい」
　意識を向ければ僅かに林檎が香る、探せば見つけられる事に思わず笑みを浮かべ。
「そう言えば、こんな余裕、今まで無かった‥‥ですわね」

　叢雲（ga2494）の指は文庫本のページを押さえている、文字に目を通しながら、空いている片手でアップルパイを切り分け、食している。
　本の内容は当然のように頭に入っているが、間の空いた意識は味わうパイの出来に向けられつつあった。惜しみなく詰め込まれた林檎の甘さは、紅茶と合わせて丁度よく、心地いい。
　度しがたい癖だ、本が傍らにあることで心地よく、パイについつい興味が向かってしまう。
　決して嫌ではない苦笑が湧くのを感じながら、叢雲は一目離れた席の友人を見やった。うだうだしているだろう事を気配から察しつつも、視線を外し、
　‥‥別に、今すぐ馬鹿な事をする事はないでしょう。
　後で声をかければいいのだと、思索を断ち切った。
　気配から、アスがまだそこにいるのがわかる。声をかけるのは彼が友人である故だが、それを口にするつもりはない。
　思った横から彼の動く気配がし、おや、と思う間にも近くなる。踏み込んだ友人は見上げれば気づく結構な長身で、言葉を探している合間にも、手の中に何かをねじ込まれた。
　くしゃりとしたそれはどうやら二人分のチケットのようで、
「俺が持っててもしょーがねぇし。‥‥真琴でも、誘え」
　‥‥この人は、あそこでうだうだしている間何を考えていたのやら。
　不思議な表情で顔を見上げれば、しかめっ面が揺らぐのがわかる。口元が歪み、こっちみんなとばかりに表情を逸らされて。
　行ってしまう、と感じた叢雲は少しだけお節介をしようと思い、
「下手の考え休むに似たり。貴方には想いを形にするエモノがあるでしょう」
　わかりませんか、と促す気配を作った。
　少しの沈黙の後、彼の歪んだ口元が、は、とした笑みの気配に変わる。背を向けたまま、自分の席に戻っていった彼の内心はこれ以上わからない。叢雲に詮索するつもりもなく。

　‥‥席に戻ったアンドレアスは、間近で起こった、「はわっ！」と良く知る女の子の叫び声と、椅子を巻き込む重い物音に意識を奪われた。
　見ればクラウディアが近くのテーブル横でつんのめっている、ちょっと後ろにははらはらした顔のソラが居て、起き上がったクラウディアは椅子の位置を戻しながら、あはは、と誤魔化すように笑い。
「えっと、こんにちは！」
　背中で腕を組み、ぴょこんと笑顔を向けてきた。少し緩めたマフラーの下から笑みが溢れ、恥ずかしげにはにかむ仕草で髪が揺れる。
　アスに経緯の推測をつける余裕はまだなかったけど、座るように招いた二人を前にすれば、少し残っていたしこりが吐息と共に霧散するのを感じていた。
　泣き明けた感触に少し似ている。すっきりするにはまだ遠いが、触れても痛みはなく、代わりに拭いがたい心細さが残っている。
　反応の鈍い自分を怪訝に思ったのか、覗きこむクラウディアたちに対し、「なんでもない」とアスは首を横に振って見せた。好きな物を頼め、奢ってやると心からの笑みを続けて浮かべて。
　――度しがたいほどの衝動は最早感じない、心もとないが、立つ力は確かに在り、残ったのは自分の弱さであると感じている。
「わーい、お兄ちゃんありがと！　大好きっ」
　‥‥余り、情けない所は見せたくないもんな。
　限りなく見栄に近いが、自我を取り繕う理由はそこに帰結していた。喜びから笑顔を溢れ出させるクラウディアに、アスは口元を動かす軽い笑みを作り、頂きますね、と合わせて礼を告げるソラにも頷いて向け、
「あ、そうそう。ソラ君とルームシェアする事にしたんだー」
　天然娘の次の一言で、軽く固まる羽目になった。
「いや、お前‥‥」
　どう言ったものか、言葉を選んでいる間にもクラウディアはアスの反応が理解できないといった不思議そうな表情をしている。隣ではソラが「やっぱまずいのかなぁ」と戸惑いを滲ませた顔をしており、かくりと首を傾げたクラウディアに対し、アスはがっくりと肩を落とした。
　天然娘もああ見えていい大人の筈だ、‥‥いや見えない！　全然見えないが！　その二人が決めた事に口を挟むのは行き過ぎだろうと思ったりもする。
「二人で決めた事なら、構わないが‥‥」
「はい！」
　慎重さ故に、思わず確認するような口調になってしまったが、あっさりと頷かれてしまった。アスが深く追求しなかったのは、相手がソラで、信頼他もろもろが許容に傾かせていたのが大きい。
　気の抜けた顔をしているのはソラとアス両方で、双方「クラウ（さん）がいいならいっか‥‥」と結論付けていた。

　リエルが厨房に引っ込んだ直後、花と宗太郎は移した席で向き合っていた。
　ずいぶんとお預けを喰らったためか、花の喜びは漏れる笑みから溢れ出し、メニューを抱えながら、甘い表情でじっと見上げる。
「今日は宗太郎クンのおごりねっ」
　戸惑いながらも宗太郎クンは頷いてくれる、我が儘を受け止めてくれるのが嬉しい。
　動機なんて甘えたいからの一言に他ならず、困った顔も、優しい表情も、全部ボクに向けて欲しかった。
　もっと、と思う反面、本当に困らせたい訳じゃないから、共に歩むためにもしっかりしなくちゃいけないと思う。それを告げるのはもう少し後で、
　‥‥とりあえずアップルダンプリングやコンポートにジェラート！
　がっくりいってる宗太郎を前にすれば、悪いと思いつつも、メニューの裏で思わず吹き出していた。
　バニラアイスを添え、林檎を贅沢に使ったアップルダンプリング。コンポートは少し大人風味で、ジェラートは当然のようにデザートだ。
　タルトタタンも忘れてはいけない、自分の好きなものを味わって欲しいと、
「ね、宗太郎クン。あ〜ん♪」
　切り分けた菓子を差し出せば、彼が動揺するのが目に見えてわかった。
　もう少し近づける事で、口を開けて欲しいと促す。う、とたじろぐ彼に逃げ場なんてあるはずもなく、菓子が迫るにつれ、観念して口を開いた。
　菓子をフォークから抜き取れば、彼の顔が赤く染まる。喜んでくれてるのならいいなぁ、と花は思いつつも、どう？　と味の感想を求めた。
　そういえば、彼にはもう一つお土産があって。
「良い香りの入浴剤見つけたの。今晩使おうね♪」
　むぐ、と彼のむせた様子が聞こえるも、表情は俯いていてわからない。宗太郎は暫しの沈黙の後、立ち上がり、くるりと回れ右して中尉のテーブルまで移動し、
「‥‥女性が出すゴーサインってなんですか。あれを天然じゃなく計算と見破るすべはありませんかというか助けてくださいオロールさんっっ！！」
「‥‥計算だったら襲うのか？」
　え、と固まる宗太郎を気にすることもなく、質問の意味はそういうことだろう？　と中尉が笑んでみせた。
　月森の方を一度確認し、彼女を含めいつもの面子に距離がある事を確認した後で。
「他意はなさそうだから、その質問には答えられないな。貴様が望むものと、月森が望むものを一度確認しあった方が伴侶として健全だぞ？」
　何より、と前置きして。
「先にプロポーズするべきだろう、順番は大切だし、そしたら何の問題もなくなる訳だ」

　食事を終え、読書を続ける叢雲の視界に、光源が遮られたことによる影が差した。顔を上げた先には良く見知った顔があり、彼女は特に断らず叢雲の向かい側席につく。
「おや、真琴さん。奇遇ですね」
　お互いに軽い挨拶を交わして、場の穏やかさは続けられた。真琴は食事を頼み、叢雲は読書を継続する。交わす言葉を急ぐ必要もなく、伝え切れていない思いも今は存在しない。
　喧嘩しても仲直り出来るようになった事、叢雲が少しずつ自分の希望を出してくれるようになった事。
　深く考えようとすると戸惑いが滲む、感情の正体はよくわからないが、変わってはいるのだと、漠然とした内心にも実感はあった。
　考え事にふけっていれば、彼が動く気配を見せ、彼の手によって、二人の間に一組のチケットが置かれる。
「‥‥いえ、何か娯楽施設の優待券、らしいです。ペアの」
　間にぎこちなさが募る。叢雲はどう扱ったものかと戸惑っているし、真琴は反応が追いつかず、叢雲の意図を理解出来ていない。
　叢雲がチケットを取り上げて説明を確認し、こんなものはどこから手に入れるのかと思いつつ、
「真琴さん、どうです？　今度二人で何処か遊びに行きません？」
　状況が更に理解の追いつかない所へ飛んでいった。
　落ち着けばやはりちゃんと捕まえられる、ただ、「ん‥‥」と返事する以上の言葉が出ないので、仕方なくこっくりと続けて頷く。
　他意はないと思うけど、彼が誘ってくれた事を考えれば、内心の落ち着きが消えていった。
　自分から誘う時は、予定を立ててから誘うことが出来たから。予想を立てる前に、『行く』という決定事項が先にあるのは落ち着かない。
　考え込めば膨らみそうな僅かな予感も、真琴は落ち着きと共にそのまま伏せておく事を選んだ。今更トチるのも恥ずかしいし、‥‥何より、きっと当日にならないと解らないのだから。

　スザクと真夜のテーブルに、今度は和菓子の数々が運び込まれる。洋物のデザートは一通り平らげたので、今度は和物の時間になるだろう。
　スザク宛に添えられた紙には簡単なレシピが記されており、小さな一礼と共に士官は戻っていく。
　途中店員に聞けば、あの士官はここの厨房に出入りしていた事があるらしい。その間に何があったのかは知るよしもないが、店から作成を任されるほどの腕前はあるのだろう。
「和の甘さは飽きがこないからいつまでも食べることが出来るんです！」
　羊羹を切り分け、スザクは真夜に力説する、先ほどのお返しとばかりに羊羹も半分こし、どうぞ食べて見てくださいと誘った。
　帰る前に、一階でエプロンを選びたいとスザクは思う。食べるのも幸せだが、作るのも嬉しさがあって、これをつけて作るお菓子が美味しくない筈もないのだ。
　真夜の元にはお土産用に林檎飴が幾つか届けられていた。帰る前にスザクさんにも分けてあげますね、と笑い、今日はおつきあい頂き有難うございますと締めた。

「遅くなっちゃっいましたけど。素敵な贈り物、ありがとうございました」
　食事が一段落ついた頃、ソラはその一言と共に、下で選んだばかりのアクセサリーをクラウディアに差し出していた。
　ヘアピンの束はピンクのプラスチックケースに収められている、蓋の部分に林檎が描かれたそれは、店員が包装前に持たせてくれたものだ。キャンドルのお返しです、とソラが添えれば、クラウディアは嬉しそうに表情を綻ばせた。
「ほわっ、ありがと。開けていい？」
　ソラの頷きと共に包装が解かれる。半透明のピンクケースは、ヘアピンの青い装飾を引き立たせてくれていて、クラウディアが感嘆の吐息を漏らす。
　嬉しそうに表情を緩ませ、素敵、と言葉を続ける。大切にしますね、とソラに笑みを向け、二人で笑いあった。

　夕暮れが空を染め始める。この一時もそろそろ終わりだと、ハンナ・ルーベンス（ga5138）は息をついた。
　かつてが眠るこの地を想う感触は、痛みにも似て、決心をつけて踏み込んだ時は少し惑いもした。それでも捨てきれず、垣を払って踏み込んで、得た安堵に、自分はやはり故郷が大切なのだと想う。
　懐かしさを抱くようにして、戦いが終わったら今度こそ戻ってくるのだと、空に向けて誓う。
　並木道に面した店は見える景色も美しく、特攻隊長（gb9732）は物珍しさに窓外を見つめ続けていた。
　視界をずらせば、通りの向かい側まで見渡すことが出来て、出てくる人々やウィンドウから、どんな店があるのかと目星をつける事が出来る。
　次訪れるために、何か目印はないかと目を凝らしてもいた。周囲の店とて色々と特徴はあるが、やはり林檎の看板を覚えるのが一番わかりやすいかもしれない。
　‥‥林檎尽くしの店と言えば通じる気もするが。
　これだけ特殊なテーマなのだ、人の口端には少なからず上がっているだろう。

　片手にアップルパイの皿を持って、ロジーがアスの席を訪れる。テーブルへ置かれた皿に怪訝な表情を見せれば、ロジーが軽く笑んで答える。
「だって、アスったら自分の分を頼んでませんもの」
　言われて初めて気づいた様子の彼に、ロジーは笑みを深くした。アスのテーブルにはコーヒーが一つだけ、この様子では店のテーマにすら気づいてないのだろう。
　促せば、ようやく理解したようにアスの表情がほぐれ、有難く頂くのだと会釈が返った。
　口にした林檎菓子の味は酷く甘くて、思考が蕩かされるかのよう。
　忘却を促すかのような林檎の香りは、深く求めれば陥りそうな気がした。
「‥‥楽園の果実、か。知恵の実を食った以上、後には退けないんだよな」


　――夜間、多くの人が帰途についた後、黒衣の男が店を訪れていていた。
　夜間でも店は続けて営業している。照明は強くなく、居場所だけを灯す光は昼間と打って変わり、退廃的な雰囲気を店内にもたらしている。
　店内は静かで、やや時代遅れの音楽が流れ、来客はそれぞれ自分だけの時間に埋没していた。
「知恵の実、か」
　昼間、誰かが告げたのと同じ言葉を彼も紡ぐ。同じ林檎でも、甘さは夜と共に爛れるような錯覚を伴っていた。
　酒はあった。次々と候補を移す彼が、娘に酒を取り上げられているのだと零せば、年配の店員がくつくつと笑う。
　夜の街に乾いた黒衣が翻る、携える瓶は三本、自らのため、相方のため、そして友人の幸せを祈るために一本。
　心細さに芯が痛む、唇からメロディーが漏れ、夜の景色に懐旧を得ていた。