タイトル:【和の誘い】灯マスター:音無奏
シナリオ形態: イベント |
難易度: 普通 |
参加人数: 31 人 |
サポート人数: 0 人 |
リプレイ完成日時: 2009/07/16 04:58 |
●オープニング本文
太陽は地平線に没し、空が藍墨に染まる頃。
夜が近いというのに、ラストホープにある兵舎の一角は灯もつけずどこか慌ただしい。
つけることができない、というのが当事者たちの説明的には正しく、要するには――現在停電中だった。
暗い執務室の中、ノートPCが終了を告げてぶつんと途切れる。
停電が起こって40分ほど、リエルの報告によれば技術者たちは現在進行形で修復に勤しんでいるらしい。
幸い、停電が起こっているのは付近の兵舎一帯だけで、水道もガスも止まっていないから、電子器具の類さえ諦めれば問題なく過ごせる状況だ。
ノックを隔て、執務室に戻ってきたリエルはバスケットを抱えている。なんだそれは、と中尉から投げかけられる無言の問いには、首を竦めて返答した。
どうやら、道行く先でサンドイッチの差し入れを貰ったらしい。無論、これが夕食というわけでもない。
「冷蔵庫が止まってるため、食べ物系のお店はバーゲンセール中だそうです。季節が季節ですし」
一日でどうにかなる事はないだろうが、この季節に生ものを置くのは精神的に宜しくない。
使い切れるなら使い切って置く――店たちの思考はそんな所だろう。
「そういえば、クレハさんが戻ってきていましたよ。今はホールの方だとか」
ホールは暖色系に淡く照らされていた、部屋を照らし出すには到底足りず、しかし視界をはっきりさせるには十分程度な光。
ホールの中心には蝋燭がともる、物珍しげに人が近づけば、香や花とは違う香りに嗅覚が反応する。
意識しなければ気づけそうになかった香りは、蝋燭が客を招いているようだった。
「来て頂いて助かりますわ、店長」
口元で両手を合わせ、クレハが笑む。
店長と呼ばれた初老の男がそれに応え、気にすることはないのだと首を優しく振った。
一言で言えば、蝋燭や燭台・アンティークランプ周辺のお店だった。安全に配慮してか、灯された蝋燭は背の低い倒れづらいものが中心になっている。
粋を求めたのか、隅に並べられたマッチには童話の表紙が如く、緻密な挿絵が描かれていた。
こういう事情でもなければ、この辺のものは基本的に愛玩品だ。それ故に細かい所に凝りきっているのだろう。
キャンドルホルダーの種類も多く、藍墨に星が光る北国調のカップ、淡青には針葉樹と積もる雪。
あるいは花びらを重ねた紫陽花か、行灯をモチーフとした物は和物特有の落ち着きを持っている。
夏らしいものには海底を煌めくイルカ、大人っぽい趣にはワインゼリーを模したものもある。ハロウィン調の怪しい品にも需要はあるようだ。
「お店も大事ですが、今回は嬢にお土産がありまして。閉店する辺りにでも来てください」
首を傾げるクレハに、店長は誕生日の祝いなのだと告げる。
日にち的にはもう少しあるが、このような機会があるのだから、今日贈らせてほしいのだと。
菓子の一つでも焼けたのなら、ケーキも用意したのですがと笑う彼に、クレハは笑んで礼を述べ、また訪れる事を約束する。
士官二人がホールに訪れれば、クレハは手を振って二人を招き、蝋燭屋さんに無事来て貰った事、士官たちはこれから兵舎の見回りに行く旨を交わしあった。
二人が見回るのは食べ物系のお店、並びに食堂周り。身も蓋もなく仕事を要約すれば、「食べ物を粗末にする奴はしょっ引け」という事らしい。
食べ物の懸念は各店ともにあるだろう。しかし、「傷むよりはまし」という大義名分のもと、食べ物を粗末にされては本末転倒だ。
羽目を外してしまう奴が出ないように、巡回の指令が二人に降りてきたとのこと。
話を終え、店の物珍しさに士官二人も引き寄せられる。
「‥‥こういうアイテムを使いこなせたなら、その店は賞賛に値するでしょうね」
キャンドルとテーブルの調和を目にしながら、リエルが言葉を漏らす。物好きは多くないとわかっているのか、苦笑が漏れ首を横に振った。
使いやすいキャンドルホルダーがメインではあるが、時代が染みついたアンティークランプ、旧式の燭台も少ないながら用意されている。
一日を暗闇のまま過ごすことも出来なくはないだろうが、どうせなら楽しんでみるのもいいのではないか。
同じ事を思う人間が何人いるかはあずかり知らぬ所だが、もしもいるのなら、見回りの際に遭遇することもあるだろう。
●リプレイ本文
愛でる指先には、仄かに白い薔薇があった。
灯りが絶えても、綻ぶ花びらは目覚ましく、際立つ瑞々しさを暗闇に誇示する。
ただ、闇を拒みきる事は出来なくて、止まってしまったかのような、ほんのりとした灰色がロジーの寂しさを促した。
兵舎から灯りが消えれば、少なからずざわめきが人から漏れる。
暗闇の中、存在する光源は無機質な色合いの非常灯のみ。震える手元は力が入らなくて、花の体がぐらつけば、冷たい床の感触が足の皮膚に触れた。
周りを見ても誰もいない、指に床の無機質さが触れ、不安を更に煽る。
「‥‥やだ‥‥ 宗太郎クン‥‥、どこっ」
闇に浮かび上がる家具の輪郭が、取り残された花の記憶を喚起していた。
考えを必死で背け、掌を床につけて震える体を引きずる。床を踏む音が自分のいる所へと近づき、宗太郎が慌てた様子で花の所へと飛び込んできた。
「花!!」
座り込んだまま、花がくしゃりと表情を歪める。
或いは不安に煽られて、または気晴らしか、各兵舎からは傭兵達が立て続けに顔を出していた。
開けた扉から外を覗き、表に人がいるのを確認すれば、ソラは少し安堵を感じながら自室の中に戻ってくる。キッチンにて手を当てる冷凍庫の中には、確か抹茶アイスと牛乳が残っていた。
‥‥買い物に行く前でよかった。静寂で沈みかけていた気持ちの中、幸いは不意に見つけた宝のようで、口元が少し綻ぶ。
暗い場所は苦手じゃないけど、一人でいるのは嫌で。ぐるぐるさせる暗闇を振り払うように、ソラは自室を飛び出していた。
過ごす一日はそう変化に富むはずもない。そう、たとえば――恋人からプロポーズを受けたとしても。
思い返す悠季には気恥ずかしさもあるが、一人で過ごす時間は寂しさの方が先んじてしまう。
愛しい人は南米へと赴き、静まりかえった部屋に彼の気配はなくて。部屋を探れば彼の余韻は見つけられそうだけど、寂しさを増すだけだと悟る理性はそれを拒む。
勉学は気を紛らわすため、何より未熟である自身を補うため。居着いている喫茶店に赴こうと思っていた傍ら、電気系統の故障は悠季の中に困惑と不満をわき上がらせていた。
勉学含め、電気がなければ大抵の気晴らしは行う事が出来ない。
募る思いの行き場をとたんになくし、ただでさえ低空飛行な気分は下降気味に傾いていく。
管理部は何をやっているのか。
零しても仕方ないと、気分の切り替えは思考を打ち切る事で行われた。外に出れば知り合いと遭遇する事もあるだろう。今日は適当に着替え、外を散策するのもいいかもしれない。
灯りに引き寄せられ、ホールにはちらほらと人が集まり始めていた。
光の下、薄く孕まれていた不安らしきものもほぐれ始めていて。食材の心配が話に上がれば、闇に不安を抱いていた人たちも少しは苦笑する余裕が出てきていた。最初にパーティをしようと言い出したのは誰だったか。
帰宅途中、突然の停電がつばめにもたらしたのは僅かな驚きだった。依頼から帰ったばかりの身では状況も碌に把握できず、再開する足取りが少しの焦りを帯びる。が、ホールから漏れる光を見れば好奇心に引き寄せられたのか、足取りは蝋燭屋の方へと向かっていた。
「へぇ‥‥こんなお店がLHにあったんですね‥‥。少し、見ていきましょうか?」
間近で蝋燭を眺めれば、つばめの表情に微か感じた安心さが滲む。買い物に来ていた透がつばめを見つけ、割合元気そうなその姿に、透本人も知るよしのない安堵が浮かべていた。
「こんばんは、つばめさんも蝋燭を買いに?」
かけられる親友の声に振り返り、親しみの微笑を浮かべて、少し興味を惹かれて立ち寄ったのだとつばめは答える。しかし手を伸ばしたくなるような新鮮さも、見物しながら交わす談笑と共に感じ始めていて、和蝋燭はないのかと尋ねるつばめに、しっとりとした草葉を描いた蝋燭が意向を窺うように差し出されていた。
パーティの話を周囲から挟み聞けば、かつて交わした、お互いの手料理をご馳走し合う約束が二人の話題に上る。
「うん‥‥それじゃ折角だし、何か作りましょうか?」
食材は保存に困ったお店から購入しよう――そんなあつらえたかのような話も周囲から聞き及んでいて、頷く二人は約束を履行する事で合意を得ていた。
「わぁー。すごいっ!」
アグレアーブルと手を繋ぎ、クラウディア・マリウスはこっそりと覗くホールの光景に感嘆を漏らしていた。
アグの手を握る、先ほどまでの心細げな感触はどっかいってしまったようで、目を奪われてなければ彼女は今にでも駆けだしているだろうとアグに冷静な感想が浮かぶ。
「ほわ‥‥綺麗‥」
普段は見る事もないだろう、光の群にクラウが瞬きを繰り返す。暫しすれば、我に返って中央へと歩みを進め、はやり気味な足取りをアグが自分のペースを崩さずについていった。
テーブル一面に並べられた原始的な火の光。既に購入に取りかかっている人も複数いて、紙袋を抱え、早足で立ち去る姿はどこかの店に所属していた筈だ。
買い物袋を抱え、煉は喫茶店「トマリギ」に戻ってくる。
店内に友人の姿がある事に安堵の笑みを零し、「ただいま」と軽く告げた。
振り返るエルファブラは返事するほどの愛想もないらしく、頷きだけが返される。煉が蝋燭を買い集めている間、エルは店内を整えてくれたようで、各テーブルは綺麗に拭き上げられていた。
煉の家族、そして他の店員は店を開けていた。しかし停電となれば手持ち無沙汰な人も多いだろうと、煉は考え込んだあげく、エルと共に店の臨時営業に臨んでいる。
エルの顔色を窺えば淡泊そのもので、正直端からの反応は読めない。遊びに来ていた友人を、自分の都合で働かせる申し訳なさをどう表現していいか困ったあげく、仕事の止まった煉の手が髪を束ねるバンダナを歪めていた。
光が消える瞬間は、視界が変わるそれに近い。キッチンにて、いきなり変化した視界に藍紗は思わず天井を見上げていた。
かけっぱなしのコンロは、青い炎を変わらず湛えている。電灯の開閉を繰り返しても復帰の様子は見えず、取り出した携帯端末で調べれば、停電関連の情報が届けられていた。
簡潔な字面の割には大事であり、藍紗の思考にも他の人たち同様、食材の心配がよぎる。
鍋は熱したまま、届けようと思っていた夜食弁当は作りかけになっていた。
‥‥献立を変えるかの。
考えが浮かべば手は冷蔵庫の中を改めていた。ライトがつかないため、殆どは手探りと記憶頼りで材料を知覚する事になる。薄闇の中傷みそうなものから引っ張り出し、流し台の横へと置いた。
蝋燭を詰めた紙袋を抱え、雨音は店へと戻ってくる。
澄んだ表情の割に、内心が浮立っているのは無茶な購入を聞き届けて貰った幸いか、私用で購入した、紫陽花のキャンドルホルダーが一役買っている自覚も一応はあった。
淡い花のキャンドルホルダーは、きっと蝋燭の光によく映える。
紫陽花は好き、雨も好きで、水もきっと嫌いではない。カウンターで購入物の整理を進めれば、ようやく見つけたとばかりに瑠璃がキッチンから顔を出してきた。
「雨ちゃんどーしよ、停電だって‥‥」
「知ってるわ」
気づくのが遅いと内心で突っ込みつつ、食材だの喋り始めた瑠璃をぴしゃりと黙らせる。考えはあるのだと、雨音は瑠璃に意向を話し始める。
――フローティングキャンドルを使った店内のライトアップはどうかと、雨音は考えていた。
冷蔵庫には作り置きの食材だってあるのだから、今日に限って休業する訳にはいかない。水に浮く蝋燭となれば珍しく、訪れる客に楽しみを与える事も出来るだろう。
呼び込みはキャンドルランタンを持って行うのがいい。暗闇の中、ランタンの光はそのまま客を導く道しるべだ。
先ほどまでおろおろしていた瑠璃も、話を聞くにつれ頷きを返し、話が終われば良い考えだと賛同を示していた。
早速準備を始めよう、そう促す切り替えの早さは瑠璃であるからこそだろう。水を張った盆に蝋燭を浮かべて、二人で手分けしてテーブルに並べる。
それを終えて店内を照らし出せば、後は通常通りの開店準備だ。傍らへと近づくゴールデンレトリバーに手を触れ、瑠璃はランタンに火をつけて店の外に出た。
「この時期に停電とは‥‥」
厨房は静かで、広がる沈黙はのし掛かるかのようだった。叢雲が漏らした声は聴覚に響き、肌に感触を残して消えていく。停電を受け、叢雲の食材整理を手伝う真琴だったが、視線は意識して背けられ、示される拒絶が停滞に似た空気を作り出していた。
怪我した後なんだから休めばいいのに、閉じた思考ではそんな言葉すら浮かばない。
ただ、問いただすような言葉がまとまりのない思考で何度も繰り返されていた。どうしたのかと叢雲が問うが、真琴は口元を引き結んで首を横に振る。背いた先、抑圧された胸から吐息が漏れ、僅かに空気を動かした。
背を向ける彼女に、叢雲は困ったかのように言葉をなくす。真琴の様子に心当たりはあった、そして彼女が言いたい事もなんとなく見当がつく。
後衛であるくせに、先日の依頼で真っ正面から敵と渡り合って、ダブルKOした自分に言いたい言葉。
怪我の仕方、それの模索、自分を大事に‥‥農村で告げられた言葉を忘れていた訳ではない、でも。
「‥‥すいません」
言葉を告げられ、満ちる空気の途絶が一層深くなったかのようだった。
すいませんって、何が?
繰り返す疑問は激情に溶けて真琴の思考を満たしていく。あの時、本気で青ざめた時の感触は未だ生々しい。冷えた背筋がまるで叢雲の生を失ったかのように、凍り付いて息を止める。
怪我をする事は、傭兵なのだから仕方ないとは思う。でも、危険を前にしてまるで突っ立ってるかのような叢雲が腹立たしかった。
本気で解っているのかと、思考が強く叫ぶ。そうじゃない、言葉を投げかけられても、届かない空白が一層際立つだけだった。
悲しみが感情を締め付ける。次は、仮定への拒絶が止め処なくあふれ出す。嫌だと、心が叫んでいた。
満ちあふれる感情が苦しい。叢雲の反応は自分が欲しかったものじゃない、変わらない彼に対する怒りと、垣間見た距離が絶望にも似た喪失感を悲しみに混ぜる。
「叢雲は、何にも、解ってない‥‥っ」
言葉を叫ぶのに、激情に満ちた頭は彼に届く言葉を見つけてくれなかった。変えられない現実への失望が悲しみを後押しし、腹立たしさが涙をにじませる。膨れた感情は行き場をなくし、弱い自分から逃げるように真琴が身を翻した。
叢雲が伸ばした腕を、白猫がすり抜けていく。
暫し経てば、複数に渡る小さな灯りが、光の途絶えた廊下を頼りなく照らし始めていた。
宗太郎にしがみつく花の腕が少しは緩むが、明かり代わりのライターは手放さないまま、何度も確認の視線を頭上に投げている。
「‥‥まだ点かないのかな‥‥」
声をこぼせば、不安がまた戻ってきた気がしてきた。宗太郎に手を引かれるまま兵舎を進み、手前から向かってくる光が二つの軍服姿を照らし出している。見覚えのあるシルエットに顔を上げれば、クラウディア中尉が短く自分たちの名を呟いていた。
お互いを認識すれば、軽く会釈が交わされる。中尉と共にいるのは当然リエル曹長で、澄ましてるようにも見える無表情を見れば、花の方に小さな敵愾心が芽生える。
警戒も露わに視線を向けられれば、状況が飲み込めてない曹長の首が傾けられ、宗太郎の言葉と共に視線が移り、薄い笑顔が浮かんだ。
「あ、こんばんは。お二人お揃いで‥‥デートですか?」
「死にますか?」
大人げなく問う部下に対し、中尉は反応も薄く二人纏めて軽く流した。花にとっては複雑な心境なのか、やきもきにも似た感情でうなる表情の険しさが増す。冗談だと笑い、「ケーキ」と重ねかけた宗太郎の言葉が途中で凍り付く。
額に手を当てて、曹長が前髪を払う下に美しい薄青の瞳が覗いていた。無言で細められる視線に、宗太郎が泣きに入る。一番の問題人物は自分の部下じゃないかと疑問に思う中尉だったが、まぁいいかと思考はあっさり放り投げられた。
部下を短く諫めた後、二人の問いに関して、停電は朝まで続くのだと中尉は答えた。一層沈むようにしょげた花に対し、ホールに灯りがあるからいってみたらどうだと告げる。
別れ際、後で夕食を共にしないかという宗太郎の誘いには二人共々手を振って了解を返す。交わされる呼び名に対し、リエルはそれ以上の反応を示さなかった。
見回りを続ける二人を見つければ、炎西はどうぞと兵舎内で調理した料理を差し出す。付近の状況を問えば、障害は付近一帯に及んでると中尉が短く答えを返した。
差し入れに礼を告げる士官たちと別れ、炎西は外へと歩みを向けた。各店舗は案外盛況で、規模は比べるべくもないが、故郷の祭りを炎西に思わせる。
続ける連想は、僅かに気を詰まらせた。先日依頼で訪れた中国の小村もやはり故郷に似ていて、祭りを前に行方不明者が続出する事件が起こった。原因のキメラこそ討ったものの、捕らわれた人々の救出には失敗して、薄い墨染めの花が記憶にちらつけば、表に出ない苦しみが感情を満たす。
兵舎に戻る気にはなれない。立ち寄った喫茶店で軽食と飲料の類を購入し、代金を問えばいらないのだと返される。怪訝な表情を示す炎西に対し、困った時はお互い様だと煉は人なつっこく笑みを向けた。
煉の喫茶店「トマリギ」は人に満たされつつあった。
暇をもてあました傭兵に混じり、UPC職員の数も見かける事が出来る。予備電源こそあれど、長持ちするものでもないのだから通常事務も行えていないのだろう。程々にまじめな人々は適当に仕事を切り上げ、こうして臨時休暇を楽しんでいる。
エルの無表情は相変わらず、煉が用意した可愛らしいエプロンを着てそつなく接客をこなす姿を見れば。
「律儀‥‥だよなぁ」
こういう感想は失礼かと少し思いつつも、煉は呟いていた。手伝いの誘いには、引きこもりの彼女にこういった経験もしてもらいたいという心も密かにあった。それに応じて彼女が立ち回ってくれて、感謝の気持ちも煉の中に強く浮かぶ。
外では炎西が宗太郎に捕まっていて、食材の処分で泣きついているらしき会話はシェフが他に出歩いていなかったためだろう。パーティをするにしても、各自自分の兵舎で料理してから持ち寄ってくる人が大半なのだから。
暗い廊下を、由梨はおっかなびっくりと歩いていく。時折見かける光が少しの勇気をもたらすが、真っ暗な通路を前にすれば、足はやはり竦み上がっていた。
混乱を孕む内心は怖いのかどうかよく解らない。数秒前まで苛立っていた事は覚えているのだが、少なくとも今抱えている感情はそれではないと思う。
人間余裕がないと落ち着いて怒る事も出来ないのだろう。途中まで行っていた訓練は強制終了、処理中のデータは寸前で消失、ふて寝しようかと思えば蒸し暑くて眠れないし、外に出れば暗くておっかないと来ている。
悲惨すぎる状況に苛立ちを通り越して、内心は微妙にがっくりとしていた。ホールに明確な光を見つけ、安堵と共に歩みを進めれば、「トマリギ」の手前で割烹着姿の藍紗と出会う。
本来なら、驚いた後に挨拶でも交わすべきなのだろう。だが顔を合わせて凍り付いた二人は、そこまで考えが及ばない。前の依頼で起こったアクシデントが、二人の思考を止めていた。
――どうかしていたとはいえ、あの様な事を。
少なくとも素面で考えられるような事ではない、何かと言われたらそれは――いや、口にしてない以上聞かれる筈もないのだが。
「き、奇遇だの由梨殿。そうじゃ、余分に弁当を作ったのだが少し貰ってくれぬか?」
「え、ええ! 貰わせて頂きます」
奥路地にある虹待亭は、訪れた人々で程よく暖かい空間が湛えられていた。
雨の名を冠した静かな店に、揺れる光はよく似合う。
客がつまむホットケーキから蜂蜜の香りが立ち上り、カモミールをベースにした、店が出すブレンドティーは優しい気持ちを想起させる。
中の様子に安心を覚え、微笑みが浮かんだ恋は「お邪魔します」と店に入る。じゃれついてくる店のゴールデンレトリバー――ソレイユにも微笑みを向け、折角店内に光があるのだからと、持っていたキャンドルホルダーを吹き消した。
「へぇ〜フローティングキャンドルを照明に使ってるんですか、凝ってますね。それにどこか幻想的で‥‥。なんだか何時もの虹待亭とは別のお店みたいです。ちょっと不謹慎ですけど、こういうのも偶にはいいですね」
店は大丈夫かと心配で見にきたが、最早二人に問うまでもないだろう。蝋燭の在庫だけ尋ねるが、それも平気だと瑠璃の元気な笑みが返る。
人手に余裕がありそうなのを見て紅茶を頼み、恋が一息つく側で雨音がリエル曹長を連れて戻ってくる。
「曹長っ」
声を上げる瑠璃、お疲れ様ですと告げる恋にそれぞれ会釈し、リエルは雨音の案内に従って店の中に入った。一つだけ取り置きされていたケーキは、瑠璃曰く「依頼でお世話になったお礼」らしい。曹長の手作りケーキには敵わないが、味は保証すると説く瑠璃に礼を返し、リエルはフォークを入れる。完食した後も暫く黙したまま、考え込む素振りを置いて「悪くありませんでした」と告げた。
灯りのない通路は兵舎に続いていた。眼前の巨大な影に驚いた様子もなく、中尉は照明を持ったまま隣に回り込む。光に驚いた相手の様子が見え、京夜の声が「クラウか」と返った。
――出歩く理由を問う京夜に、見回りであると中尉は短く言葉を返す。
荷物を抱え、労りを述べる京夜は買い出し帰りらしい。元より身長の高い京夜だが、腕に下げた分、抱えた分、リュックに詰めた分と体積は膨れあがっている。冷蔵庫が使えないのだから、そう多く揃えても仕方はないのだろうが――
そもそも、菓子の材料だと言ってる割には野菜類が複数混じっていた。ノリのいい店主にでも押しつけられたのか、容易に想像がついた中尉は勝手に結論を付ける。
灯りも持たずに、散歩に出たアスは叢雲に出会う。
――結局、あれから。また泣かせてしまった事への申し訳なさを抱えながらも、叢雲は残った作業を一人で終わらせていた。
やるべき事を優先する自分に感じるのは呆れか。『――何も解っていない』、叫ばれた言葉が耳から離れず、焦燥が内心を満たす。
追いかけるべきか、作業を終えた今も迷いが足を止める。
「‥‥何が、あった?」
いつもの微笑を向ける前に、アスが言葉を投げてきた。話が途絶える。どう語ったものかと悩み、歩き出すアスに歩調を合わせて貰いながら叢雲は言葉を思い出す。
「‥‥まぁ、意見の相違、みたいなものですかね」
漏れるのは苦笑。思考はどうしてもアス相手に繕おうとして、考える言葉はそれしか出てこない。
‥‥そうじゃないだろ。
「お前、案外馬鹿だな。つーか大馬鹿か?」
内心苛立ちを抑えながら、アスは叢雲への言葉を続ける。
――結局、二人の間にあるのは甘えなのだと思う。縛りたくなくて、言葉を伝えず、変に遠慮してる。
言っても伝わらない事の方がずっと多いのだから、伝える事を怠るのは驕りなのに。
「言われなくとも解ってるんですけどね‥‥」
苦笑を続ける叢雲に対し、アスは歩みを早めて背を向けた。これ以上は踏み込めない、今回は黙ってコイツを引っ張って行こうと思う。
「行くぞ。‥‥真琴探し行くに決まってんだろ、やっぱ馬鹿か?」
兵舎の屋上にて。蝋を切った封筒と招待状を手に、響は屋上を訪れていた。
屋上には簡易テーブルにクロスがかけられている。お湯をかけた簡易コンロを脇に、用意されたのは大量のお菓子とティーセット。待ち人が来たのを見て玲は笑顔を浮かべ、スカートを摘んで一礼した。
仰ぐ星空はかつて二人で見たものに似ている。今も二人で空を眺め、感じる安心感は懐旧によるものか、足元を覆う膝掛けが暖かいためか。
墜ちてきそうな星空は幻想的だと、玲は星座の神話を自分たちに喩えてうっとりと語った。幻想には夢見る魔法をと、響は奇術を示してにっこりと応じる。
つかないテレビをかちかちとするのにも飽きたのか、リュウナは龍牙の買い物にくっついていった。
幾つか光が徘徊しているとは言え、偶にある真っ暗な通路は龍牙の足を竦ませる。リュウナと手を繋いで内心安堵を確保しながら、百白は何をしているのかと龍牙は思いを馳せた。
夜は何が食べたいかとリュウナに尋ねつつ、龍牙は食材の買い出しを済ませる。帰路の蝋燭屋で、にんじんを持ったウサギのホルダーに引き寄せられたりしながらも、二人は言葉を交わし百白の所へと向かっていた。
暗い道を通れば自然と早足になり、部屋の前で買い出し戻りらしき虎――もとい百白と遭遇する。
言葉も少なく、食材の調理をしたいから頼めるかと百白は問う。自分たちも晩ご飯を作る所だからと、よく解っていないリュウナをよそに龍牙が頷いた。
料理が仕上がるにつれ、透とつばめはそれぞれ料理を並べはじめる。様々な思いに心が浮き上がり、二人とも楽しそうな微笑みを浮かべていた。
誕生日の時、ケーキを作ってもらったお返しをと、こっそり意気込むつばめは料理が上手くできあがった喜びに。
いつもと違う空間は格別な味わいがあり、つばめと交わす和気藹々とした空間を透は楽しんでいた。
二人で席に着いて手を合わせ、感慨深く味わうお互いの料理に目が細められる。
「大したものじゃないですけど‥‥お口に合えば、嬉しいです」
鯖の竜田揚げ、赤だしの味噌汁。つばめは恥ずかしげに口にしながらも、謙遜は不要だと感じていた。向かい合う透の表情は穏やかそのもので、頷きの中に感嘆にも似た呟きが混ざる。
「美味しいです‥‥うん」
頷きを繰り返し、黙々と箸を進めながら透の言葉が重ねられた。
透が作った肉じゃがはシンプルながら丁寧で、ヨーグルトドレッシングのフルーツサラダはひんやりと甘い。かつて当たり前のように食卓に並んでいた豆腐と油揚げの味噌汁含め、母が作ってくれていた料理の数々である事は、言わなければ伝わる事もなかったけど、つばめが嬉しそうに食べてくれる姿を見れば、それでもいいかと透は微笑みを浮かべた。
蝋燭屋にたどり着き、アスは真琴を探し出す。
声をかける。呼び名以外に二人が交わすのは口ごもる頷きのみだったけど、アスは踏み込まず、真琴も何も言わなかった。
並べられた炎が揺れる、心をせき止めるのは僅かに残っていた感情の残滓なのだろう。痛くなくて、触れられる事を望まない感触が、触れられて溶けていった。
「後悔は、すんなよ」
真琴が恐れる事をアスは知っていた。それでも言葉が届かなくなる、過ぎ去る一瞬が心を痛ませるから、ぶちまけてしまえと真琴に呼びかける。
‥‥せめて、失う前に。
思い返すのはアスの幼なじみの話、だから真琴は素直に頷いていた。
アスの視線がふと留まった先には、北国調のホルダーが炎を揺らしている。星があり、雪がある、暖かみはあるけど。
「港が足りねぇな」
呟けば、感触が少し心に沈みこんだ。少し複雑な事情が時を先延ばしにして、家にはもう何年も帰っていない。
帰りたいのだろうか、真琴が眺めるアスの横顔が遠くに馳せられる。時々揺れる瞳は迷子の子供のようで、叢雲に感じる不安にも通じる所があった。
心配なのだ、そんな所だけ似てるから。
「‥‥アスさんだって、居なくなったらダメですよ」
誰かを大切に思う気持ちが解るのなら、何より喪失を拒まなければいけない。
風防ごしに、獅子座と目を合わせたアスは死を垣間見た。置いていきたくないものはあって、考えを進めるほどに、彼の灯になれるだろうかと黒髪の少年を強く欲した。
北国調のホルダーを購入する、叢雲の姿を見つければ声をかけ、真琴を促す。
「お迎えらしいぜ?」
アスは人混みに溶けて姿を消した。真琴と相対し、軽く吐息を挟んで叢雲が語り始める。
「‥‥私にとって貴女は大事な人なんです。無二と言える位に。貴女が大怪我をすれば、私も慌てるし、焦ります」
言葉はゆっくりとしていて、泣いて落ち着いた真琴に沈み込んでいった。
此処までは判る、そして嬉しくもある。こくんと頷くも、
「‥‥それでも、今の自分を容易く変えるつもりはないんです」
滲んだのは辛さか言葉かは判らない。ただ、思考はさほど驚いてはいなかった。
‥‥そう、こういう奴なんだ。
分けた距離が今は二人のバランスを取る、変えられないものは残っていた。
抱える感情が心を波打たせる、ぽつ、とまた少し零れた気がした。
パーティの準備はホールにて整いつつあった。
悠季が掲げるカンテラの光が、また少し闇を払う。兵舎から抱えてきた菓子類や飲み物、皿類をテーブルに積み上げ、悠季はソラが運んできたらしい椅子に腰掛けた。
夜に冷えないようにと、持ってきた毛布は膝がけに。賑やかな雰囲気は寂しさを想起させず、心を浮き立たせる。
言うならば期待なのだろう、少なくとも、この夜に悪夢を見そうな気配はなかった。
賑やかな様子に心がほぐれ、桜花を思わせるモノはないかと炎西が蝋燭屋に立ち寄れば、桜が灯りに浮き上がるカップホルダーが目に留まる。
いい空間だと暁は内心思う。ホールが暖かみの色に照らし出される中、暁はお土産用にと蝋燭の物色を進めていく。
感じるのは家族を想う楽しさ。選ぶなら形の似ているもので、年季の入ったものがより望ましい。
目を留めたのは、黒く厚みのある、木彫りに似たカップ型外装のキャンドルホルダー。外装は一部シルエットとしてくりぬかれ、季節に近いものでは月と兎を象ったものが思わず口元を綻ばせた。
「これ、他にもありませんか?」
店主に尋ね、差し出されたものから家族分のホルダーを選んで包んで貰う。
周囲に視線を戻せば、既に立食会が始まっていた。料理を少し取り寄せて舌鼓を打ち、飲み物はクレハが成年者限定でアルコールを分けてくれる。
暫くの物色を隔てた後。アグは黒のアイアン製スタンド、薔薇を模したキャンドルをそれぞれ蝋燭屋から購入し、ぺこりと店長に会釈を告げた。
表情は何も示さぬままだが、無愛想が表に出ない位には心が浮き立っている。
色々と見て回る中、クラウは人混みの中にアスを見つけ、アスお兄ちゃん! と声をかけていた。
‥‥が、アスは声に反応を示さず、暫し待ったクラウは不満げに頬を膨らませ、えいっと腰にたっくるを仕掛ける。
彼女にお兄ちゃんをどうにかする力はなく、突撃は腰の背中あたりに抱きつく形に留まる。しかし流石に気づいたのか、アスはクラウに視線をよこし、親しげな笑みを浮かべた。
「こんばんはっ」
気づいてくれたのに嬉しく、クラウがふにゃりと笑顔を向ける。が、笑みには普段と違う感触を抱いたのか、どうしたの? と問うた。
蝋燭屋にてソラを見つけ、アグが後ろから忍び足で近寄る。至近距離で背中越しに覗き込めば、髪がかかる感触に驚いたのか、ソラの背筋が硬直し、前へと向かってつんのめっていった。
ソラはギャラリーを突き抜け、アスの懐に顔を突っ込む形で止まる。
「ひゃう! ‥‥あ、ご、ごめんなさい」
怖い感触はまだ少し残っていたけれど、人に触れてソラはどこか安心を覚えた。アスは二人に挟まれる形になり、暫し驚きながらもぶっと吹き出し。
‥‥大丈夫、俺はまだ笑えている。
笑うアスの後ろから顔を出し、クラウが「こんばんはっ」とソラに笑顔の挨拶を告げた。
二人して蝋燭屋に戻り、見物が続けられる。愛らしくケーキを模った蝋燭に和みつつ、見て回る中でカモミールの香りに惹かれたのか、ソラはパステルオレンジの蝋燭を手に取り、ほわと感嘆を漏らした。
当の蝋燭を購入し、ホルダー選びに苦闘していると、プレゼントだとクラウが購入したばかりのホルダーを渡してくる。
オレンジ色のスモークガラス、三日月と星を描いた部分だけは色が薄い。予想してはいなかったのか、少し驚いた後、ソラが有り難うございますと柔らかい笑顔を向ける。
アグにもクラウからのプレゼントが渡されていた。藍色のカップに描かれるのは、天幕に縁取ったかのような星の絵。
ホールに配置されたピアノから、暁が奏でる曲が流れ始めていた。
見れば周囲は人が増え、本格的なパーティの開始を予感させている。行ってみようというクラウは誘うが、アグは首を振って辞退を示した。
「私はいいわ。静かな方が、落ち着くもの」
――暗い場所は好き。汚いものを、自分の居場所を隠してくれるから。
心からそう思えなくなったのは、きっとラストホープを離れた元・同居人たちのせい。
後ろ髪を引かれるような空白を感じるようになって、しかし闇に惹かれるまま、アグは眩しすぎる光を拒んだ。
「あれ? そう?」
近くにいるから、何かあれば呼ぶように。――楽しんでいらっしゃい、と言い残してアグはホール中央から離れる。離れる彼女を見送り、クラウはそれじゃあ行こうとソラを誘った。
ロジーは蝋燭を見つめる。静かで、現実離れした炎はロジーの意識を物思いに引き込んでいく。
最初の考えは本当に漠然としていて、焦点を結び始めた意識が思うのは黒髪の少年だった。
炎が風に煽られて揺れる。自分の想いは『彼』に伝えた、伝わったとも思う。
でも、彼からの返答は貰っていない。
炎に覚えた不意の寂しさ、まだ遠い存在ではないのか、『彼』にとって自分は必要ないのではと心が恐れを帯びた。
(「――いいえ、確かに近づいた」)
感触を失って、抱える想いが行き場に惑っている。下を向けば深淵を錯覚しそうで、震える心は頑なに前だけを向いていた。
幻なんかではない。向けてくれた淡い表情も、差し出された手の感触も、全て優しげな本物。
蝋燭のように儚げだけど、確かな光だと記憶は囁いていた。
「薔薇のモチーフの蝋燭かキャンドルホルダーはありませんの?」
ロジーの問いに、こんなのはどうかと店主は一つのキャンドルスタンドを差し出す。
外見はゲージのない鳥かごに似ていた。卵形の黒い外枠は高さ20cmくらいで、下部分にキャンドルを置く受け皿が据えられている。スタンドを支える台座部分には、ピーチ色の薔薇飾りがビーズと共に添えられていた。
少しよそ見すれば、アグの横顔、アスの笑顔が視界をよぎる。見知った顔を見れば心が少し安堵を覚える、いつの間にかパーティは始まっていて、賑やかな様子に心がほぐれるのを感じていた。
集まる光は自分の周囲を象徴しているかのよう。
寂しさなんて気の迷いに過ぎない、今夜はパーティに身を寄せようと心が囁く。そう、差し入れは自兵舎からのローズティーを持って。
「なぁ、花。屋上行ってみないか?」
パーティを抜け出し、花は宗太郎と共に屋上で空を見上げていた。
灯りが途絶え、空では普段見えなかった星が細やかに煌めいている。美しいけど、
「まぁ、思ってたよりは出てなかったかな、星」
宗太郎が苦笑した。二人で空を眺め続けながら、花はそんな事ないと首を振る。風が少し肌寒く、嬉しさを感じるのは繋いだ手に彼のぬくもりがあるからだろう。
暗い所も悪いばかりじゃないだろ、と宗太郎が囁いた。楽しい事もあるし、綺麗なものも見れるのだと。
「‥‥どうしても怖ければ、ずっと傍にいてやるから」
喧噪から離れた路地の奥、幸乃は空を眺めるアグと共に居た。こんな風にゆっくり話すのは、知人である二人にとっても初めてかもしれなかった。
暗さも、独りも、怖くなくなったのはいつだろうと幸乃は思う。かえって落ち着けるように感じるのは、大人になったという事だろうか。
良い事か、悪い事かは判らない。でも、独りを思えば寂しいとは思う。
「――昔」
アグは語る、昔住んでいた場所の事を、その日もこんな夜にとても似ていた。
「サイレンや、怒声、奇声で騒がしかったけれど‥‥ビル間から、星が見えた」
話をするのは何かを求めていた訳ではない、何故このような話をしたのか、アグは解っていなかった。
元・同居人が幸乃と親しかったからだろうか。ラストホープでは、空が近く感じるのに、路地から眺める空は狭い。
路地を挟む建物が澄み切った空を遮って、閉塞以上の空虚を覚えた。
このような夜が共に懐かしいのは偶然だろうかと幸乃は思う、過去の縁という考えは、二人とも信じる事はなかった。
「もう行くわ。‥‥連れを迎えにいかないと」
食材が尽き、「トマリギ」の営業は終了を告げた。店を閉じた後、煉とエルの二人は街の散策に出かけている。
エルが見上げる空には、ふとすれば見える程度の星が煌めいていた。か弱い光だが、それでも随分と美しく見やすくなっている。
驚かせる人のない辺りに来てから、煉は覚醒によって現出する光の翼で周囲を照らし出す。
今日一日の事に礼を告げ、手を取らせてすまないとも言う煉に、エルは気にするなと返答した。
「ふむ‥‥別に問題はないぞ。中々新鮮な体験だったしな」
労りを示して伸ばされる手をいやがる事もなく、煉が自身を撫でれば、エルは極些細な変化で笑む。
暁は演奏を終え、ピアノから離れる。ふと視線を向ければ、見知った姿が視界の先にいた。
「イリーナ‥‥イリーナ・アベリツェフ?」
歩み寄り、声をかけてお互い向かい合う。頷くイリーナにとって、暁は自分の保護者の知人だった。
二人してホールの隅に移動し、話をする。保護者――そう、義父が傭兵になった事を知ってるかと問う暁に対し、イリーナは暫し口を噤んだ後、首を横に振った。
今も余り話をしていないのか、そう問う暁に向ける言葉がない。
イリーナが「父」と呼べていないその人は、彼女にとっての命の恩人であり、大切な人でもあった。ただ――そうじゃないのだ。
感情の軋みに耐えきれず、イリーナは問いを拒否してホールを飛び出していく。虹待亭の近くにて少し落ち着き、見知った顔を見つけてイリーナは足を止めた。
声をかけられたCerberusがイリーナと挨拶を交わす、近況を交わし合えば話は長くなりそうで、食事しないかと問う彼に頷き、イリーナは初依頼だった花見の話を続けた。
見回りを終えたのか、訪れた京夜を中尉は執務室で出迎る。
交わした通り、京夜は確かにケーキを持ってきた。ただし常人が想像するようなケーキとはほど遠く、ケーキもクリームもやたらでーんとした色合いをしている。
「野菜のシフォンケーキなんだ。、ヘルシーで健康に良い事は保証するぜ」
言葉の追究には意味を見いだしていないのか、中尉はごまかすように笑う京夜を軽く流す。。
まずいものを口にする事に抵抗はない、ただ口にしたそれは野菜と砂糖が合っていないなと思いつつも、中尉は揶揄気味に言葉を紡ぐ。
「普通に作らないのはアイデンティティか?」
口元についたクリームを拭う。元をいえば食材を引き取りすぎたのが災いしたのだろうに、京夜が言いよどむその理由には触れず、新境地を開拓したいならフルーツサンドでも試せと苦笑した。
「というわけで、後で改良版を持ってくるな。楽しみにしてろよ‥‥次はワサビシフォンだな」
「‥‥醤油にでも漬ける気か?」
まだ懲りてはいないらしい京夜を止める積極性はない、ただ今度から傭兵の罰ゲームに使うのもいいなと思いつつ、中尉は退室を見送る。
京夜が部屋に戻る最中、彼を見つけ、駆け寄ってきた藍紗がようやくと言った風情で京夜の手をつかんだ。
「‥‥藍紗?」
息切れしつつも、震える藍紗の手は京夜を離さない。少し息を整えた後、上気した顔を上げ、藍紗はもう片手につかんだ弁当を示した。
「弁当、届けに来たのじゃ‥‥ようやく見つけて‥‥少し一休みせぬか?」
歩き回ったのは、それぞれ厨房にて入れ違いになったためだろう。何があったかはもう少し聞く必要があるが、断る筈もないと京夜は疲労気味な藍紗を抱き上げた。
「場所を変えましょう」
執務室に来客がいるのを知って、クレハはCerberusに笑む。
貰ったばかりのバレッタに髪をかき上げ、階下から外に出た。
灯りの絶えた道も臆する様子はなく、クレハは灯りを持って公園の方へと向かっていく。
一日の労りを述べるCerberusに、クレハは気遣いの礼を返し、幼少より親しんでいるのだから、着物のままおてんばをするくらいは造作ないのだと笑った。
差し出されるぬいぐるみを受け取り、クレハは向けられる祝福にもう一度礼を置く。指先で口元を覆って笑いながらも、「未来を向くのは良い事かもしれませんね」と告げた。
夜明けが近かった。空が完全に染まれば電気系統も回復するだろう。終わりを告げる夜に息をつき、高層ビルの屋上でたばこの煙が霧散する。
「‥‥もう、終わりか。夢の世界は」
ずれた帽子の視界には、色を薄める夜空があった。
椅子も、グラスも、とっくに温もりは消え失せている。傍らの蝋燭は風にでも消されたのか、中途半端な長さのまま、光を消していた。
眠りはもう少し続く、今度は浅い眠りを―――。