●オープニング本文
前回のリプレイを見る――道は二つだ。右か左か。
かつて、とある傭兵はそう言った。
つまるところ、行くか、行かないか。
――あとはオマエのハートに聞きな。
「僕は、どうすれば良いんだろう‥‥」
窓辺で膝を抱える。外には通り雨が降っていた。
気分も少し落ち着いた。学校へもまた通うようになった。食事もちゃんと取っている。しかし母とはまだ向き合っていない。
兄の代わりとして生きるのは、既に様々なものが限界に達している。
ノックの音が鳴り響いた。
チョーカーの蒼玉をぎゅっと握り締める。
よろよろと立ちあがりドアの前にまでゆき開くと、そこには烏帽子と狩衣姿の男が立っていた。
「さて、勝負の時間にござる」
「‥‥勝負?」
「左様、生きるか、死ぬか」
「‥‥戦場にでも放り出すのかい?」
「ここが貴女の戦場だ」
「‥‥‥‥そうかもね」
西園寺燐火という存在を生かすか殺すか。少女は嘆息した。
「勝利条件は?」
「西園寺亜里沙を正気に戻す事」
「どうやって?」
陰陽師はニィと笑うと言った。
「それをこれから考えるのでござるよ。頼れる仲間も連れてきた故に」
「‥‥て、結局作戦人任せなのかいっ?!」
この陰陽師は頼りになるのかならないのか、イマイチ良く解らない男だなぁと少女は改めて思ったのだった。
●少し前
「我々が成すべき事は、つまるところ西園寺家の家族間の関係を修復する事である」
歌部星明は傭兵達の前でそう言った。
「故に最低限、夫人と燐火殿の仲をなんとかする必要があるでござる。
ただし燐火殿が時雨殿の身代わりとする関係で修復しても意味がない。燐火殿を燐火殿と認めさせる必要がある。
最低限、西園寺夫人が娘を娘と認識し、良好な関係を持たせねばならない。その為の戦略を練りたい」
星明は言う。
「西園寺亜里沙が狂った最も大きな原因は、やはり燐火殿の兄、時雨の死を認められないからである。何故認められないのか? それを探る必要がある。
何故、そんな必要があるか? ただ単に燐火殿を娘と認識させるだけでは、西園寺亜里沙の精神が完全に壊れる恐れがある。認識させた上で素早く何かをフォローする必要がある」
陰陽師は一度言葉を切ると、
「これにあたり、燐火殿の精神状態はそこそこ持ち直したので、彼女は戦力に数えられる。その力を借りる事が出来る。
現時点では彼女がジョーカー、最強の手札にござる。さほど苦労せず有益な情報を引き出せるであろうし、今後亜里沙殿の説得にかかる際にも役に立ってくれよう。
少々母親に対して捻くれてきているが、私の見立てでは大丈夫であろう。百パーセントはないが、十中八九はそう見て良い。彼女の思考は壊れた母親を第一に回っている。
だがそれ故に注意すべき点がある。まず一つ、彼女は母親を追いこむような事はやりたがらない。
正気に戻す事は望んでも、母親を廃人化させるような事は望まない。故に彼女から聞く場合は上手く聞かねばならない。こちらを信用させるべきだ。が、まぁそこそこ親しくなっている者ならさほど難しくはあるまい。まったく面識がないと少し難易度があがる。
二つ、あくまで当時八歳であった燐火殿の視点でしか知りえない。燐火殿からの話だけでは――恐らく足りない」
歌部星明は傭兵達に言う。
「私の知り合いに長谷川早雲という名の刑事がいる。赤いネクタイが目印の中年の男だ。あからさまにデカという顔をしている。
先日、彼との交渉に成功した。今度の日曜に市内の喫茶店で話を聞く事が可能にござる。通常、警察が事件の詳細を民間に持ち出す事は厳禁だが、奴なら答えてくれるであろう。彼の社会的生死がかかっているからな。限度はあるが事件にかかわる事ならかなり突っ込んだ事まで聞ける筈だ」
中年の男が映った写真を袖口から取り出すと、歌部星明は卓上に置いた。
「この屋敷の主、西園寺平蔵とのアポを取る事にも成功している。彼ならば当時の状況をある程度は把握している筈にござる。妻の状態も。
会見できる場所は某市の西園寺の会社の一室。時間は一時間。少し距離があるので行って話をして帰って来て仲間達に報告、でその日は終了であろうな。
だがこちらも厄介な事に今度の日曜である。長谷川も日曜。燐火殿も平日は学校やら部活やら塾やら習い事やらであるから、やはり話を聞くなら日曜日が好ましかろう。少し予定が重複する。
そこで今度の日曜日は手分けして調査にあたってもらいたい。西園寺燐火、長谷川早雲、西園寺平蔵、最低限この三人からは話を聞く必要があろう。もっとも重要なのは平蔵だ。逃すな。
質問は漠然とすると相手によってはかわされるであろうな。的は複数で良いが狙いは絞ってゆくべきでござろう。聞き方も良く考えねばならぬ。彼等の口は閂のかけられた門。上手く割らせる必要がある。
そういう意味では、やはり平蔵殿が一番手ごわかろうな、長谷川も自ら進んでは余計な事は話したがるまい。燐火殿は彼女の母を助けられると信用させられれば進んで話してくれよう」
陰陽師は軽く息をつくと言った。
「まぁ大体はこんな所であるかな。
我々は西園寺家の家族関係を修復する必要がある、
その為には母子の関係を良好なものに修復する必要がある、
良好なものに修復する為には西園寺亜里沙の精神を正常化する必要があり、
正常化する為には上手く説得しなければならず、
上手く説得する為には時雨が死亡した事件の原因およびそれ以前の西園寺家の状態を探る必要がある。今回はこの段階であるな」
歌部は卓上に紙を置くと筆ペンできゅきゅきゅと書き出した。
「前回の調査で解った事は、西園寺時雨はビルの屋上から転落死した。デパートの駐車場であったらしい。その時、現場にいたのは西園寺亜里沙ただ一人、と言われている。発表では、でござるがな。故に各員から主に聞きだすべきことは」
西園寺燐火→西園寺亜里沙と西園寺時雨の関係の詳細、および時雨死亡前の西園寺家の状況
長谷川早雲→事件に対する警察の調査結果、および見解
西園寺平蔵→西園寺家の対応、および時雨死亡前の西園寺家の状況、および亜里沙が西園寺家にやってきた経緯、および事件発生当日のこと
「とりあえずはこんな所でござるかな。平蔵に当日の事を聞くのは、彼のアリバイが不明瞭だからにござる。これは勘だが、恐らく平蔵は現場にいた。あらましを見ている。他にも調査した方が良いと思われることがあったら調査して欲しいでござる」
陰陽師は言った。
「性格もあるが、心が健やかであるなら、例え強烈な衝撃を受けても人は容易くは壊れぬ。容易く壊れるのは心が弱っている時に打撃を受けるからにござる。
例え本来は強き人間であろうとも、常に強くあれるとは限らぬ。故に人は支え合う。そう言った男が昔いた。
我々の商売もまたそれにござろう。正邪はさておき、皆を幸せにするのが陰陽の道にござる」
●リプレイ本文
「では‥‥参ろうか」
陰陽師が扇子を鳴らす。
春の某日、十一人の傭兵が、再び西園寺家の闇へと向かったのだった。
●過去への扉
柚井 ソラ(
ga0187)、叢雲(
ga2494)、アンドレアス・ラーセン(
ga6523)の三人は西園寺の屋敷の燐火の部屋へとやってきた。
「お久しぶりです。元気にしていましたか」
扉の奥から顔を出した燐火へと叢雲は微笑しバスケットを掲げてみせる。
「これ、お土産です。皆で食べて下さい」
「お久しぶり‥‥お土産?」
「叢雲特製の苺タルトとザッハトルテだってよ! ちゃんとメシ食ってっか? いっぱい食わねぇといい女になれねぇぜ?」
アンドレアスが陽気に笑って言う。燐火はむすっとした顔を見せ。
「別に良いもん男女だから‥‥とりあえず、入って」
部屋の中に通された一同はテーブルにつく。
「さっき歌部さんが来てた。聞かれたら話をしてくれって‥‥何を聞きたいんだい?」
「その前にお茶でもどうです? 結構、長話になると思いますし」
と言って叢雲は持参したポットセットを取り出し慣れた手付きでカップに紅茶を淹れ始める。
「‥‥用意良いね」
「仕事柄移動する事が多いので」
はい、どうぞと言って叢雲は各員にカップを配ってゆく。各自礼をいって受けとってゆく。
「そうだ‥‥ソラ、これ、有難う。本当に、また来てくれたね」
燐火はチョーカーを外すと、蒼玉のついたそれを柚井へと渡す。
「約束しましたから」少年はほんわかと微笑んで受け取ると「少しは役に立ちました?」
燐火は少し照れくさそうにしながらコクリと頷いた。
「辛い時とか‥‥元気がでた」
「良かったです」
破顔してカップに口つけるソラ。見たところ、以前よりは表情が大分明るくなっているようだ。
「少し昔の事を思い出してもらいたいんだが、兄貴か御袋さんが好きだった曲って知ってるか?」
ギターケースからアコースティックを取り出しつつアンドレアスが問う。
「‥弾くの? 兄さんはあまり音楽には興味なさそうだったかな‥‥母様は、あの歌が好き」
と言って曲名を述べる。アンドレアスは意外に思った。
「‥結構、大衆向けなの聞いてんだな? クラシックとかかと思ったが」
「この家に来る前から好きだったみたい。とても良い歌だって」
八十年代に流行ったRock、厳しい環境の中、港と食堂で働く男女の歌だ。アンドレアスは軽く弦を鳴らした。
「昔々、といってもさほど昔でもない」
祈りを捧げ冒頭の一節を口ずさむ。彼は常に演奏に魂を込める。もっとも今回は会話の邪魔にならないように、歌は無しで静かな曲調にアレンジしているが。ギターの音色をBGMにお茶しつつ、叢雲が切り出した。
「さて‥‥亜里沙さんを助ける為にも、俺達は知らなければなりません」
話していただけますか、と目線を合わせて問う。
「‥‥解った」
「答えたくない事はもちろん答えなくていいですから、落ち着いて答えて下さい」
燐火は頷き、柚井、村雲、アンドレアスの三人はそれぞれ質問を行った。
「昔の母様は‥‥僕には優しかった。でも兄さんには‥‥凄く厳しかった」
意外な答えを燐火は返した。
「あの頃の母様は凄く怖かった。今も怖いけど、違う種類。優しかった、穏やかだった、でも物凄く厳しい人だった。特に兄さんに対しては凄かった。スパルタっていうの? あんな感じ」
――時雨は?
「兄さんは‥‥多分、やんちゃっていう奴だったと思う。身体は弱かったけど、いつも飛びまわってた。それでよく悪戯をして母様に怒られてた。兄さん、気は強かったけど、寂しがり屋だった。覚えてる、いつも一人で隠れて泣いてた。でもよく笑う人だった。冗談が好きで、いつもふざけてた。すごく陽気な人だったよ。よく怒られてたけど、兄さんは母様が大好きだったと思う。兄さん――」
くすりと燐火は笑った。
「兄さん、わざと怒らせてるようなところがあった。構って欲しかったんだと思う。母様、忙しい人だったから、怒る以外は素っ気ないところがあったんだ」
――時雨が死亡した時に変わった事は?
思い出したのか燐火は眼を伏せる、
「‥特にはなかったと思う。ただ、僕はその時、風邪をこじらせてて‥‥兄さん凄く心配してくれてた。パーティへ出席のついでに皆で買い物しようって言ってたんだけど‥‥僕はいけなかったんだ」
一通りの質問を終えた時、柚井が言った。
「お母さんに憑いた「モノ」を落とすためには、きっと燐火さんの力が必要になってきます」
少女を見据えて言う。
「力を貸してくれませんか。お母さんを‥‥燐火さんを見てくれるお母さんに、戻すために」
「‥‥」
燐火はしばしの沈黙の後、
「うん」
ゆっくりと頷いた。
「なぁ‥‥オフクロさんが普通に戻って、憐火は憐火として暮らす。お前の望みはそれだけか? 家がどんな風になったら、お前は幸せだ?」
演奏を終えた男が問いかけた。
「私の‥‥望み?」
アンドレアスは軽く笑うと言った。
「俺はな、憐火‥‥この家が、お前が帰りたいと思う家になったらいいと思ってるぜ」
●フェンス
「長谷川刑事の好物は?」
ホアキン・デ・ラ・ロサ(
ga2416)は事前に歌部に訊ねていた。歌部の曰く「スコッチと、そしてレートがイカレてる麻雀」とのこと。茶店で注文できる類ではない。大分癖のある刑事のようだ。
「さて。鬼が出るか蛇が出るか‥‥だったかな、確か」
ホアキン、ロジー・ビィ(
ga1031) 、深音・フラクタル(
ga8458)は刑事長谷川早雲に会う為に町の喫茶店へと向かった。コーヒーを啜ること半カップ、やがて赤いネクタイを締めた恰幅の良い男が三人の前に姿を現した。
「いやぁ、どうもどうも、お待たせしてしまったようでー」頭を掻きつつ中年の男が言う「歌部の言ってた方々ですよね? 私がぁ長谷川早雲です。よろしくお願いしますよ」
「まぁ、ダンディな方! ロジーと申します。ご足労感謝致しますわ」
伊達眼鏡を掛け整然とした服装に身を固めたロジーがそう挨拶する。キャリアウーマン風だ。
「ははは、こちらこそ、こんな素敵なお穣さんとお会いできて光栄ですよ」
言いつつ一同は挨拶をかわし席につく。
「ご多忙の中、わざわざ時間を割いていただきまして有難う御座います」
深音は軽く礼をしつつ、笑顔で感謝を述べた。
「いやいやぁ、傭兵の皆さんには世話になってますからね」
と早雲。
「それで、西園寺の五年前の件について、でしたかぁ? 何でもお尋ねになってください。煙草、良いですか? ――ああ、どうもどうも」
長谷川は煙草を咥え、コーヒーを注文すると煙を吐く。
ロジーはボイスレコーダーを置き、メモを片手に頷く。
「ええ、例の事件についてですわ。まず時系列的に警察が把握している事を御聞きしたいのですが――」
「解りましたぁ」長谷川はニカッと笑い「ただしですねぇ‥これは正真正銘、オフレコでお願いしたいんですよ」
と言って視線をレコーダーへとやった。録るな、という事だろう。ロジーはレコーダーを止める。
「私から聞いた、という事もぉ口外はしないでくださいよぉ」
言って長谷川は事件のあらましを説明する。
「――つまり、その事件後、西園寺亜里沙は表舞台に立たなくなった、と」
ぽやぽやとメモを取りつつロジー。
「ええ、心労からとね。確かに間違っちゃいないが、全てでもない。病んだという事は社会的には封鎖されましたぁ。貴方がたも外では喋らない方が良いでしょうー、いらぬ火の粉がかかってきますからねぇ」
「‥‥二人は実子かい? 相続権はどうなっているのだろう?」
ホアキンが問いかける。
「西園寺時雨と燐火はともに平蔵、亜里沙夫婦の実子です。現在のところ相続権は奥さんに、次いで燐火さんにありますねぇ。前妻の息子が一人いるが、これとは縁を切っている」
「なるほど‥‥」ホアキンは考える「事件についてだが、アルビノは視覚が弱い。転落死というのは実に筋が通っていると思うんだが」
「んっんー、なんですけどねぇ。当時、現場には高さが大人の背程もあるフェンスが張られていたんですよ」
「‥フェンスが?」
「そうなんです。壊れた箇所も隙間もなかった。さらに、親も――少なくとも西園寺亜里沙は一緒に居たんです。なのに落ちるっていうのは妙な話だと思いませんかぁ?」
「確かに、その点は気になりますね」深音が首を傾げた「長谷川さんは、どうお考えでしょうか?」
その言葉に早雲は煙を吸い、吐き出した。
「亜里沙にも平蔵にも息子を殺す動機は見当たらなかった‥‥殺して得をする奴も目ぼしい所にはいない。だが、ただの事故にしちゃあおかしい」
「表向きは転落死となっているが‥‥真相は亜里沙の過失致死ではなかったのだろうか」
ホアキンが口元に手をやり独白するように呟いた。
「――何故そうお考えで?」
早雲が目を細める。
ホアキンは言った。
「現在の亜里沙の状況です。大事に育ててきた体の弱い跡取り息子を、己のミスで失ったら‥‥母親は気が触れるかもしれない、と」
●西園寺平蔵
「初めまして! 本日はよろしくお願いします」
赤霧・連(
ga0668)が笑顔で快闊に老人へと挨拶をした。赤霧は平蔵の表情を見る。濃いのは慢性的な疲労感、それだ。
「これは今回の件でのこちらの対応を書いた物です。私達はマスコミじゃない。ただ、少女と西園寺家を救いたいだけなんです」
レティはそう言って一同がサイン済みの念書を渡す。今回の情報はこの依頼解決のみに使用する、という内容のものだ。
平蔵はそれを受け取りじっと眺めるようにして読む。
「事件前後の事と亜里沙さんの事を教えて下さい。後‥‥事件当日の事も。今日はその話を聞く為に許可してくれたんだと思っています」
レティ・クリムゾン(
ga8679)は真摯に言う。平蔵は書面を見据え黙りこんでいる。
「――貴方は、お二人の事をまだ愛していらっしゃいますか? それとも、とりあえず平穏無事になれば良いとお考えですか?」
亜里沙がやってきた経緯等についてレティと共に質問を重ねつつ月神陽子(
ga5549)が言う。
平蔵が月神を見やる。暗い瞳で、瞳の中を覗きこむような視線を送る。
「わたくし達がどう動こうとも、最後に亜里沙さんに必要となってくるのは、ご家族である、貴方達のお気持ちなのです。部外者であるわたくし達では、心の隙間の、最後のピースを埋める事ができません」
平蔵を責めぬように言葉を選びつつ、感情的にならないよう抑えつつ、少女は必死に言う。
老人は黙って見ている。
「‥‥時雨さんは今、幸せなのでしょうか?」
赤霧が言った。
「死者は語りません。死者は何もできません。彼らの幸せは彼を思う者が幸せであることだと思います」
「‥‥幸せだと?」
平蔵が振り向いた。
「時雨の幸せが何故、貴様に解る?」
「お母さんのことを本当に嫌いな子供はいません」
「‥‥どうだかな」
平蔵はそう言った。
「‥‥手を尽くしてきた、だが西園寺さんではできなかった、と僕は考えています」
国谷 真彼(
ga2331)が言った。
「頭首の重責とを天秤にかけながらだと、当然そうなるでしょう。
しかし燐火君が母親にナイフで切りつけたという事実が一時、貴方からその責を忘れさせた。
娘の危急に対して歌部氏への依頼がその証左。ですが同時に陰陽師に頼むことで、西園寺家を守るという言い訳も成り立たせている――あなたは狡猾だ。貴方自身の魔とは、それです。気付いているのでしょう?」
その言葉に平蔵は瞠目した。
「魔か」
言って、ふん、と鼻を鳴らす。
「‥‥お前達の言いたい事は解った‥‥‥‥家も外聞も家族も、全てを取ろうというのはおこがましいか。良いじゃろう、話してやる」
●事実の断面
――亜里沙は前の妻が死んだ後に娶った。元は会社の秘書だ。前の妻は古い家の出身だった。比較される事に対して、亜里沙が対抗手段に選んだのは、作法と知識を身につけ、それとして振舞う事。西園寺の妻として一分の隙もないように――それだった。
息子がアルビノだったからと言って責めたことはない。時雨は生意気だったが、可愛い奴だと思っていた。体質はどうにもならん事だ。しかし亜里沙は‥‥全てに必死だった。
事件――事件、あれからもう五年にもなるか、時雨はかつて、問題ばかり起こしていた。厳しい母に反抗ばかりしていた。嫌っていたのだと、思いたくはないが‥‥
息子は、あの日も駄々をこねパーティに出席しないと言った。しかし、亜里沙は無視してひっぱっていった。屋上についた時、時雨は何を思ったのか車から飛び出して、フェンスの上に登った。
そして、言った。僕は屋敷に帰る。帰らせてくれないなら、こっから飛び降りてやるとな。本気ではなかった、と思う。だが時雨がいくら叫んでも亜里沙は「我儘を言って親を困らせるな」と背を向けた。亜里沙は息子に「貴方はただの子供ではない、西園寺家の次期当主なるべき男だ。甘えるな」と、いつも口癖のように言い聞かせていた。
時雨は気ばかりは強かったが、身体は弱かった。屋上に強い風が吹いて、時雨は手を滑らせた。儂にはその様子が見えたが、背を向けていた亜里沙には見えなかった。そして、時雨は、息子は、屋上から落ちた。
亜里沙は半狂乱になった。手術室の前で、自分のせいだ、自分のせいだ、と呪詛のように繰り返していた。
結局、時雨は助からなかった。医師から死亡を伝えられた時、亜里沙は壊れた。
何もかもが認められなかったのか。亜里沙は燐火を時雨と呼ぶようになった。娘を息子として扱うようになった。全てを無かった事にしようとした。正気ではない。そして、一転して歪んだ愛情を燐火へと注ぐようになった。四六時中べったりと。だが、死んだ筈の息子として扱うのだ。燐火に時雨の服を着せ、オキシドールをかけ――嗚呼、狂気の沙汰だ。どうすれば良い。どうすれば良い。どう触れれば良いのか解らない。
その時、事業は拡大の時機にあった。儂は屋敷を信頼のおける者達で固め、仕事に没頭した。罅割れたものが音を立てて軋んでゆく、その音に脅えながら没頭し続けた。
そして、先日、燐火が壊れた。
儂は、再び後悔した。だがどうすれば良いのだ。西園寺の妻は気が狂っている、あってはならん事だ。悪霊がはびこっている、馬鹿げた話だ。だが馬鹿げた話ならば、馬鹿げた話で済む。悪霊だと言った。その手の者が幾人か呼ばれた。役には立たなかった。陰陽師がやってきた。高名な男だった。引き受けた依頼は必ず達成するという。誇張だろう。だが、もう藁にでも縋るしかない。賭けてみようと思った。
●闇の底
「時雨の幸せ、と言ったな」
語り終えた平蔵が赤霧へと振り返る。光が薄い。老人は闇の底に立っているようだった。闇の中から、赤霧を睨みつけている。
「血縁だからこそ人は憎悪する。時雨は、儂と亜里沙を、憎悪しているのではないか。亜里沙もきっと、それを感じている」