●リプレイ本文
晴れやかな陽射しの注ぐ中に人込みから吐き出される喧騒が入り混じり、広い敷地はサウナのように熱気を溜め込んでいた。瀟洒な校舎が立ち並び、その間には武道館だの体育館だの広い校庭だのが点在し、残った隙間を貧相なテントと人とが埋めている。未だ準備中とはいえ地元総出の祭りだから混雑は凄まじいものがあった。
その混雑の中を華奢な体の線に沿った黒い服を着たケイ・リヒャルト(
ga0598)が背筋を伸ばして歩いていく。
端整に過ぎる顔立ちは映画に登場する美しく着飾った女優を彷彿とさせるが、作り物ではない笑顔を湛えていた。
「学園祭か。そんなの初めてね。しっかり準備をしないと」
独り言ちながら雑踏を横断して校舎に向かうケイの顔は僅かに上気していた。
ケイの目的はいくつかあったがまずはマタンゴ郵政公社の催すお化け屋敷の作成を手伝うことに決めて校舎に向かった。お化け屋敷は小学生の校舎に作られることになっている。
ケイが廊下を歩いていくと目の前に作業服を着た大柄な男たちが木材を加工しているのが見えた。
「こんにちは」陽気に挨拶をする男に丁寧に会釈をしながら教室を物色して歩く。
お化け屋敷はどうもひとつの教室のみを使うのではなく教室の入り口から中に入って一度外に出、廊下を伝って次の教室に入るという構想であるようだった。
「舞台設置はもちろんだけれど、やっぱり舞台だけじゃね‥‥」
ケイが教室を見回すと無数のマネキンの転がっているのが見えた。近くではケイよりも背は高いがどことなく幼さを感じさせる女性が座り込んで裁縫をしている。
「失礼ですがULTの傭兵の方ですか」
ケイは振り向いて長身の男を見た。男は和木屋久と名乗り能力者ではないが配達員をしているといった。
「能力者よ。こんにちは」
「こんにちは。我々だけでは人手が足りていないので助かります。他にも何人か能力者の方がきてくださっているのですよ。たとえば彼女はキド・レンカ(
ga8863)さんといいまして現在は着物を縫ってくれています」
ケイが先ほどの少女を一瞥して頷いた。
「じゃああたしもマネキンを使ってお手伝いをするわ」
「お願いします。あれは古川一樹(gz0173)といってうちの配達員です。質問があったらどうぞ」
その古川は隅で英国の貴族を思わせる服装の男に特殊メイクを施している。アプライエンスメイクと呼ばれる映画製作にも用いられる技法で、人工の皮膚を貼りつけて存在し得ない狼男や猿の顔を作り上げたり、凄惨な火傷等の怪我を本物のように見せることが可能だ。
古川の技術は拙くはあるものの、のっぺらぼうが見事に表現されていた。
ケイはペンキや工具を手にレンカの近くに腰を下ろしてマネキンの頭部を引き寄せた。
「やっぱり怖さといえば日本のホラーよね。お岩さんとか怖いんじゃないかしら」
「そ、そうです、ね。こわ、いと思います」
レンカは吃音ではないが臆病なためどことなく緊張をしている様子だった。ケイが積極的に色々のことを話しかけてもレンカの反応は控えめだ。けれども人嫌いというわけでもないようで受け答えはしっかりしていた。
古川がゆっくりとのっぺらぼうの顔を剥がすにつれて中性的な美環 響(
gb2863)の顔が現れた。
響は滑らかな頬を擦ってシリコンを落とし髪を振って深呼吸をした。
「苦しくはありませんでしたか?」
「大丈夫です。それよりもよい出来ですね」
響は一頻り薄っぺらののっぺらぼうを矯めつ眇めつ点検して満足そうに頷いた。
優雅な曲線を描く口元が吊り上がったのはなにかよからぬことを考えたせいか‥‥、ともかく響はのっぺらぼうを返しながらお化け屋敷の案について古川と話し合い始めた。
「世界中のお化けを出したいですね。吸血鬼やフランケンシュタインの作った人造人間はもちろん、そうだ、キョンシーなんかどうです? なにせ僕たちは本物のキョンシーを見ましたし」
「あれは不気味でしたね。まだ材料が残っているので早速作ってみますか」
古川が請け負うと響は少し考えて
「僕は変装が得意ですし依頼で色々な衣装を着ていますから、その伝を辿って衣装を揃えてみます。もちろん今すぐには無理なので今日は肉体労働をすることにしますが」
響が笑った途端に配達員のぼいんが教室に顔を出した。
「教室を区切るのでどなたか手を貸してくださいー」
響がすっと立ち上がった。
「なにからなにまですみませんね」
古川が察して腰を上げると響が手を振った。
「いいんですよ。一樹さんや他のマタンゴの人とも仲良くなりたいですしね」
響は気軽な様子で教室を横切ってぼいんの前まで移動した。
いくつかある体育館のうち特に小学生用の体育館には、小さな子供を連れた妙齢の女性が多く集まっている。
小学生も本来であれば学園祭の準備に勤しむべきなのであろうが、抜け出してきたのかバスケットボールやバレーボールに興じている。どの子供もバグアやキメラの影に怯えている風には見えないほどに無邪気であった。
堺・清四郎(
gb3564)は体育館の隅で子供たちの戯れを微笑を浮かべて眺めていたが、ふいに転がってきたボールを手に立ち上がった。成人男性としても高いほうの清四郎の身長は、少年たちから見ればバベルの塔を思わせるに相違ない上に目つきも鋭いから、少年らの受けた恐怖は凄まじいものがあった。
近くで幼児をあやしていた母親たちも怯えた視線を清四郎に向けた。
けれども当の清四郎は唐突にドリブルを始めて高速で棒立ちの少年の間を擦り抜けると、豪快にダンクシュートを決めた。清四郎の跳び上がった高さたるや常人では考えられないほどであったため、母親たちは歓声を上げて清四郎に拍手を送り少年たちは競い合って清四郎を取り囲んだ。
「楽しそうだったんでな。俺も混ぜてくれ」
清四郎は決してバスケットボールに造詣の深いわけではないものの能力者であるからやはり常人を超越した身体能力を有している。彼は子供にせがまれるままに華麗な動きを見せた。
縦にも跳べるが横にも跳べる。やはりダンクシュートは派手だ。さらに清四郎は縦や横の回転も取り入れたから、まるで体育館が爆発をしたように盛大な拍手が湧き上がった。
特にウィンドミルと呼ばれる腕を回転させてダンクシュートを決める技と、一人アリウープに人気があった。
清四郎はその厳つい見た目とは裏腹に「子供たちの思い出のため云々」と考える心優しき青年である。
一通り華麗な技を見せた後に清四郎は子供を持ち上げてダンクシュートをさせてあげたりして遊んだ。
白い着物を縫い上げたレンカはふと隣に座るケイに顔を向けた瞬間に悲鳴を上げた。
平凡な顔つきだったマネキンはケイの手により乗せられた鬘の長い前髪の隙間から潰れた目をレンカに向け、通った鼻の下の唇は不気味に罅割れ、黄ばんだ前歯からは奇妙に透明感のある声が洩れていた。
円らな瞳に涙を浮かべてレンカは立ち上がった。となにかに激突して尻餅をついた。
「あ、あう。ごめんなさい‥‥」
涙を拭いながら顔を上げたレンカの目に飛び込んできたのは、チャイナ服を着たのっぺらぼうの顔だった。
凹凸のない顔の口と思わしき部分が痙攣をして不気味な呻き声を発する。
あわあわと声にならない悲鳴を上げて四肢を激しく動かすレンカに響はのっぺらぼうの顔を取って見せた。
「ごめんなさい。まさかそんなに驚くとは」
響は頭を下げて謝罪をしたが素顔にも女キョンシーの化粧をしていることを忘れていたらしい。
ばったんと大きな音を立てて床に倒れたレンカに、響とケイとは慌てて駆け寄った。
とはいえどう慰めればよいのかわからない。泣かれるとは思っていなかった二人は少々困惑もしていて途方に暮れてしまった。泣き止ませる方法は‥‥、響は少し考えてから拳骨を突き出した。
「レンカさん」と呼びかけて注意を引いて手を開くと色鮮やかな蝶が舞い上がった。
泣き止んだレンカを見て響が笑みを浮かべる。奇術と相まってどこか神秘的に見える笑みだった。
さらに響は揺れる蝶を手のひらで包み込んで形のよい唇に近づける。響が蝶を飲み込んだと見たケイとレンカとが息を呑んだ次の瞬間には、響の両の耳から花が咲いた。その間にも蝶は響の手に操られるようにしてレンカの顔の周りを舞い、やがて窓から飛び立っていった。
慌てて拍手をするレンカに、響は次々と得意の奇術を見せていった。
子供たちの歓声に送られて体育館を出た清四郎は、次になにをしようかと首を捻った。
学園祭はバグアの侵略により疲弊した人々を励ます役割も持っている。特に子供たちには学園祭を励みにして頑張ってほしい。清四郎は先ほどの子供たちの笑顔を頭に浮かべながら校舎に向かう途中で泣き声を聞いた。
「女の子か? 迷子かもしれないな」
清四郎は泣き声のするほうに近づいて首を傾げた。迷子にしては少々年齢が上だが‥‥。
お化け屋敷の手伝いをしていたレンカは気分転換に外に出た途端に子供にチャイナドレスの裾を引かれた。振り向いたレンカは幼い男の子の泣き顔を見て目を見開いた。
「ママ」と呼ばれてもレンカに子供はいない。が少年はレンカの瞳を真っ直ぐに見上げて「ママ」と連呼している。
困惑は頂点に達した。無下に振り払うこともできずにただ立ち尽くすしか方法はない。結局は涙声で自分を呼ぶ子供と右往左往するレンカとが人込みの中心で取り残された形になった。
状況は不明だがとにかく声をかけてみようと清四郎が人を掻き分けていると、ふいに頭上から声が降ってきた。
「いなければ、私がやろうホトトギス!」
声のほうを向いた清四郎は口をぽっかりと開いて固まった。周囲の人も固まった。レンカと子供との泣き声も固まった。喧騒が掻き消え、皆は顔を上に向けて変態を注視した。
「やっぱり祭りには変態が必要だよね」
変態はガスマスクの下から奇妙な理屈と奇怪な笑い声とを上げて渡り廊下の窓から飛び降り、硬直する人込みを睥睨してから両手を挙げて走り出した。
「ぐへへー。おっぱいを揉ませろー!」
途端に人々は悲鳴を上げて散開した。文字通りに人波がうねった。
変態は奇声を上げながらチャイナドレスを着た女に背後から抱きつき、ガスマスクを頬に擦りつけておっぱいの辺りをなでなでし始めた。これは婦女子の危機だとばかりに清四郎が駆け出した。がなんとチャイナドレスの女はレンカではなくて響だったから変態仮面は強い衝撃を受けた。
響に強力な肘打ちを受けて転倒した変態は、鬼の形相で立つケイの細い腕で引きずり起こされて頬を張られた。
「いい? ここはそういう場所じゃないの。わかるわよね?」
「うっひょー! 美人発見ー!」
胸元をつかまれながらなおもセクハラをしようとする変態の手から逃れ、ケイは呆れたような顔を向けた。
清四郎が進み出て箒を構える。傭兵であるから得物が箒とはいえ殺気がこもっている。変態仮面は僅かに後退りをして大げさに拳法の構えを取った。「せいやっ」
まるでヒーローショーのような二人の格好を見て周囲の子供たちが歓声を上げる。
警察沙汰になり得た変態行為を見事にヒーローショーに昇華できたのは確かに清四郎の力だった。
清四郎は何気なく箒を振った。が変態仮面は容易く避けて地面に膝をつき、反動で清四郎の背後に回り込む。
「キメラ?」
ケイが加勢に出ようとしたが清四郎は手で制して変態仮面の放つ蹴りを箒で流した。
「準備を邪魔する不届き者め‥‥。仕置き仕る!」
袈裟切りに振り下ろされた箒が変態仮面のガスマスクを掠めて地を擦ると、変態仮面はがら空きの清四郎の足を両腕で掬い上げ、馬乗りになった。
「ふっ。学園祭か‥‥。あれは忘れもしない何年か前のあの日の思い出。俺も老けたがお前も老けたな」
変態仮面が常人には理解のできない決め台詞を吐いた途端に、ケイのハリセンが脳天に振り下ろされた。
「不覚」
悶絶して四つん這いになった変態仮面の尻を軽く蹴飛ばして、ケイが溜息をついた。
「空気の読めない子はおねんねしてなさい」
変態仮面こと紅月・焔(
gb1386)は喜劇を演じる俳優に身をやつして学園祭を盛り上げた後に逃走をしていった。
清四郎は少し満足そうに苦笑をして、未だにレンカの裾を引く少年に顔を近づけた。
「いい匂いがするだろう。よかったらなにか食べないか」
喜劇を見て恐怖を忘れた少年は困ったようにレンカを見上げた。
「で、では‥‥、お願い、します」
三人で歩く姿は本物の親子に見えたらしく屋台のおっさんは汗をだらだらと流しながら「熱いねえ」と笑った。
「熱いついでにラーメンをもらえるか?」
「悪いがそれどころじゃねーんだよ。そろそろ学校の先生が味を見て回るんだが弟子が戻ってこなくてよ。まったく今日のために店を閉めたってのにどうなっているんだか」
それはご愁傷様――、と立ち去ろうとした清四郎だがふいに足を止めておじさんを振り向いた。
「俺でも手伝えるか?」
少し離れた場所で教員の集団が立ち往生をしている。なにやら年嵩の男が苛立ったように若い女性を見ているのはどういうわけか。ケイは女性が気にかかったが人波に流されて武道館まで移動していた。
武道館も体育館と同様にいくつか点在しているが、激しい音楽の洩れているのはこの武道館のみだった。
内部では軽音楽部が学園祭本番で演奏をする曲の練習をしている。専任の教師はいるが、齢七十を回った老婆で音楽についての見識は浅いため彼らの技術は独学で得たものだった。
武道館に入ったケイは首を傾げた。隅では入り口を向いて軽音楽部と思しきメンバーが演奏をしてはいるが、中央で歌う者だけが私服でまた酷く調子外れの歌声を上げている。
「喉の調子が悪いようにも思えないけど」
演奏は途中で止まりマイクを握っていた女性は観客に紛れ込んだ。すると観客の中から一人の男が立ち上がってマイクを手に取った。
「井上雅夫! まーちゃんです! 聞いてください、愛の歌。三番化粧恋敵」
まーちゃんは音痴ではないが喉声でありそれほど高音が出るようでもないのに低音はさらに酷かった。
ケイはしばらくまーちゃんの歌声に耳を傾けて合点した。そういえば軽音楽部は部員が少ないために現在はメンバーを募集をしているのだった。
ボーカルが不在とは思わなかったけれども‥‥、とケイは困惑しながらも手を上げて進み出た。
ケイの普段でも透明感のある声は高音になるとさらに透き通り、耳当たりのよい曲調と相まって観客からの止め処のない拍手を巻き起こした。競争相手である他の候補者からも絶賛を受けたケイに軽音楽部の部員が駆け寄る。
「もしかしてどこかのバンドでボーカルを?」
「いえ。所属しているということはないけれど」
「アマには思えないな」
部員に囲まれて賞賛されているケイはどうにも反応に困っている様子だった。
「能力者をしているのよ」とケイが話の流れで答えるとギターの男は弾き語りで驚愕を表した。
「筋肉もりもりだと思ってた、俺」
苦笑してケイはカラオケの筐体の前でマイクを握る女キョンシーの格好をした響を指差して
「彼も傭兵よ」
武道館にはカラオケの筐体もある。響はこの筐体を使ってカラオケ大会を催そうとしたが今は準備中であり本番ではないから、リハーサルを名目にしている。
が準備に疲れた人間が集まり本物のカラオケ大会に似た盛り上がりを見せていた。
ケイの透き通るような歌声も魅力的ではあったが、響の高音もまた味がある。
響の声に連動してチャイナドレスがひらひらと動き観客が波を作る。その様子は井戸端会議をしていた軽音楽部も巻き込んで武道館に人を引き寄せた。
「あの人も上手いな」ドラムが唸るとケイが頷いた。「歌の上手い能力者は多いのよ」
傭兵のアイドルグループも存在すると聞き、軽音楽部の部員は舌を巻いた。
カラオケ大会が異様な盛り上がりを見せたため、軽音楽部とケイとは場所を移した。
ケイの歌声が相当に魅力的とはいえ軽音楽部の作成した曲は未完成で拙い部分も目立つ。
さらに衣装だの舞台設置だのと学園祭本番までに準備をしなければならないことは山積みだった。
「衣装の希望はありますか?」
ケイは少し考えてから自分の体を指差した。
ケイは黒い細身の服を好む。黒髪と緑色の瞳の色とが黒い服によく似合うのだった。
衣装は今着ているものでも十分に代用が可能だが、せっかくのライブなのでもう少し派手にしようと部員が発言した。とはいえ部員たちには女性の服装の知識がないから、ケイが自分で衣装を選ぶことに決まった。
「ところでケイさんは楽器を演奏できますか?」
「一通りはね」とケイが機材を設置しながら頷いた。
話し合いの合間に準備を進めて全てを終えると、次は演奏をする曲の楽譜がケイに手渡された。ケイのキーに合わせる必要があるのはもとより曲自体が未完成なのでケイの意見を取り入れて今日中に完成させなければならない。
――本当にすることは山積みね。ケイは作詞作曲を担当したドラムと額を合わせながら苦笑した。
見事に変態仮面の役目を果たした焔は、後方を確認して誰も追ってきていないことを知りガスマスクを脱いだ。
「祭りには変態が必要なんだよな。でもさすがに女性の体に触れるのは不味いし」
本来であればただ暴れ回って逃走する予定だったが、女装をした男が居合わせたので作戦を変更して抱きつくことにした。あの行為は現実味を帯びているから焔を真の変態と認識した者が大半だろう。ただし抱きつかれた響と清四郎とケイとの反応を見るに三人は騙されてはいないようだったけれども。
「大成功だな。後は帰るだけか」
独り言ちてその前に腹ごしらえでもしておこうと踵を返した焔は、奇妙な格好の男に激突をした。
「おいこら。なにしやがる」
道化師に扮した男が倒れたまま怒鳴りつける。焔は苦笑を浮かべて頭を下げて手を差し出した。が男は立ち上がった途端に再び腰を屈めてあたふたと木箱に座り込んでしまった。
「足を捻ったらしいな」
「それはすまなかった。すぐに医者を呼んでこよう」
背を向けた焔の肩をつかみ道化師は凄まじい膂力で引き寄せた。
「大丈夫だ。氷ならある。それよりもあんた、いい体をしているな」
そちらの趣味は‥‥、という冗談が通じる雰囲気でもなく焔は大道芸を仕込まれることになった。
「あと少しなのだから早くきたまえ」
と手を引かれている女教師はケイの武道館に入る前に見た女性だった。
「でも子供が」
「警備員が探し回っているんだ。あと二三軒で終わるのだし早々に回ってしまおうじゃないか」
女性は年嵩の男に急かされてテントに入った。
「らっしゃい」
威勢のよい声に女性の驚く声が混じる。
清四郎はチャーシューを切りながら顔を上げた。女教師が名を呼びながらレンカの横の少年に駆け寄る。
「そういえばその子は迷子だったな」
レンカの複雑な笑みに清四郎が労いの言葉をかけた。
「すっかり懐いていたので忘れていた」
「喋ってないで麺を出せ」
味つけはおっさんのものであるから清四郎が褒められることなどなにもないのだが、それでも三人の職員からラーメンの味を賞賛されて清四郎は頬を緩めた。
「自炊の経験が役に立ったかな」
「特にスープが美味しいな。チャーシューの厚さも程よい」
「太い縮れ麺が味噌によく馴染んでいます。これはよい点数がつきそうですね」
女教師は小気味よい音で麺を啜り膝の上の子供の頭を撫でた。
「よい人に見つけて頂いて幸いでした。本当にありがとうございました」
面と向かい合って礼を述べられたレンカは、恥ずかしそうに俯いて首を振り、小さな声で別れの挨拶をしてテントから出ていった。清四郎も「頑張ってくれ」とおじさんの肩を叩いてテントを出た。
レンカを追っていたつもりはないが知らぬ間に清四郎とレンカとは並んで歩いていた。
「ひ、人が多いですね。‥‥まだ準備なのに」
「うん。祭りというのは準備している時が一番楽しいもんだ。それじゃあ俺はこっちだから」
「はい‥‥」
清四郎と分かれたレンカはお化け屋敷の手伝いに戻ろうかとも考えたが、古川から残りは力仕事だけだといわれたのを思い出して立ち止まり周囲を見回した。
――どこにいこうか。
傭兵になる以前に住んでいた中国で文化祭が行われると聞きつい懐かしく思って顔を出したのはよいが、特にこれといって目的はない。そろそろ帰ろうかと考えてレンカは校門に向かった。
レンカの訪れたときと比べて人の数が少なくなっているように感じた。冬にしては暑いほどの陽射しを投げかけていた太陽は遥か彼方の稜線に隠れ、空に緩やかに流れる雲は夕焼けの色に染まっている。
急に冷たくなった風がレンカのチャイナドレスの裾をはためかせて吹き去っていった。
未だ準備の最中とはいえ喧騒の去って広く感じる学園内はレンカに祭りの後の寂寞を感じさせた。
憂愁の色の濃く漂う表情のまま校門を潜ろうとしていたレンカは、男女の諍いの声を聞いて足を止めた。
「なんかおかしくない?」
「さっきからいってんだろ。ここはやっぱり紫だって。ピンクとかなんの罰ゲーム?」
「あんたって本当に」
拳を振り上げた少女はふいに振り向いてレンカの姿を確認し制服のスカートを払った。
「なにかご用ですか?」
「い、いえ。な、なにをしているのかな、と思って」
独り言ちるように話すレンカの腕を急に握り締め、制服姿の少年が目を輝かせた。
「ちょうどよかった。こいつにいってあげてくださいよ。看板の色がピンクなんておかしいですよね!」
レンカは男女の足元に転がる看板に視線を落とした。雑に書かれた店名の近くに桃色のペンキが乱暴に塗られている。店名が黄色であるのにやはり桃色は違和感のある気がした。もちろん紫もどうかと思うけれども。
「字が黄色‥‥、なので」
レンカが控えめに色を述べると少年が豪快に指を立ててさっそくペンキを引っ張り出してきた。少女もレンカのいった色には賛成の様子だったが、少年のそそっかしい仕草に眉を顰めている。
「あんたには任せておけないわ。私がやるから貸して」
「んだよ。いいから俺に任せておけって」
仲がよいのか悪いのか、思春期に特有の二人のやり取りに微笑を浮かべていたレンカは、ふいに背後から名前を呼ばれて振り返り小さな悲鳴を上げた。
「あ、また驚かせてしまいましたか。僕です、響ですよ」
小さく何事か呟いて頭を下げるレンカに微笑を投げかけて、響は話し始めた。
小さな玉を器用に使う焔を見て大道芸人は満足そうに頷いた。
簡単な手ほどきを受けただけにもかかわらず焔は呑み込みが早かった。
「あんた仕事はなにしてんだ? ふらふらしてるってんなら俺のとこに入らねーか」
「俺のとこって」
「見りゃわかんだろ。大道芸だよ。つってもサーカスが本職だけどな」
それにしてはこんな場所で一人寂しく大道芸の練習をしているのはどうにも変だが、そんなことに関係はなく焔は男に首を振って白い歯を見せた。
「なんだよ。信じてねーのか。明日になりゃ他のメンバーも集まるぞ。紹介してやるから腰を落ち着けろ」
「おっさん。悪いけど俺には地球を守るという大義があるのだよ。はっは。さらばっ」
玉を投げつけて走り出した焔を追って足を挫いていたはずの大道芸人が駆け出した。
「おっさん騙したな!」
「うるせー。大人しく俺の弟子になれ」
なんとも楽しそうな光景である。
日は沈み空は漆黒に染まり数多の星が煌いて静かな校舎を照らす。月は縮れた雲をものともせずに輝き、ビールを片手に空を見上げる清四郎の白い頬を闇に浮かべた。
「ずっとこんな日が続いたらいいんだがな‥‥」
清四郎のほかにもケイや響が近くに座っている。レンカも響に誘われて顔を出している。
風はあるが背後の校舎に阻まれて皆には届いていない様子だ。響の長い髪もレンカのチャイナドレスもぴたりと体に寄り添っている。
打ち上げには早い気もするがせっかく能力者が集まったのだからと響が提案し三人が集まることになった。
簡単な食べ物を手によい場所を探していて、ビールを飲む清四郎を見つけて合流をしたのだった。
四人はぼんやりと頬に触れる冷たい空気を感じていた。
「レンカさんは中国の出身だそうですね。学園祭にも出たことがありますか」
「あります。今日はな、なんだか‥‥、とても懐かしかったです‥‥」
レンカが響に答えた。それきり会話は途切れてしまったが息苦しくはない。
準備を無事に終えることができて安堵をしていることもあり周囲には緩やかな時間が流れていた。
そこに未だ大道芸人から逃げている焔が飛び込んできたから空気は瞬く間に変化した。
ガスマスクをつけていなくとも焔が変態仮面であることを察したケイが
「あのときの!」
と腰を上げたが清四郎に窘められて再び芝生に座った。
「悪気があったわけではないようだから怒らなくてもいいだろう。尻を触られたわけでもないしな」
「胸は揉まれましたけどね」
響が笑いながらいうと焔は清四郎から受け取ったばかりのビールを吐き出した。
「そうだよ。あんたがまさか女とは思わなかったぜ。まあ男でも俺は構わないけどな」
ケイがレンカを引き寄せて焔から離れ、響も微笑を凍りつかせて後退りをする。
焔は冗談だよ冗談と両手を振っていたが「やべ」と独り言ちてビールを片手に駆け出した。どうやら大道芸人の男が追いかけてきたらしい。
急に騒がしくなった周囲に首を振り清四郎は溜息をついた。
「続けてみせる。続けさせてみせる。俺たちが必ず‥‥」
自問自答をした清四郎の声は禍々しく地球を照らす赤い星に吸い寄せられて消えた。