タイトル:【Kr】夏の終わりにマスター:紀藤トキ
シナリオ形態: イベント |
難易度: 普通 |
参加人数: 25 人 |
サポート人数: 0 人 |
リプレイ完成日時: 2009/09/22 23:19 |
●オープニング本文
ロシアの夏は短い。9月は足早に過ぎる秋で、10月になれば、朝の気温が零下になる日も珍しくはない。吹きさらしの管制塔屋上は、風が肌寒いとはいえ、まだ秋の雰囲気だった。
「寒くなる前に、来れて良かったですよ。しかし、思ったよりも暖かい場所ですね」
薄手とは言え、男のコート姿は少しばかり浮いていた。息子からの手紙では、もっと寒い場所だと聞いていた、と苦笑する男に、篠畑はなんともいえぬ表情を返す。男は、戦死した篠畑の部下、榊原資郎の父だった。
「‥‥御子息や多くの方の働きで、キーロフは安寧を取り戻しました。祖国を代表して、謝意を表します」
アントノフ中佐の言葉に、榊原は頷く。一度頷いてから、もう一度ゆっくりと頷いた。
「綺麗な場所ですね。あいつは、あっちにいるのかな」
北を見る父親の視線は、そこでは無いどこかを見ているようだった。
「俺‥‥いえ、自分も数日後にキーロフを離れます。その前に、案内できて良かった」
キーロフを脅かしていた陸上戦艦は、東方の森林地帯に姿を隠したままだ。傷を癒しているのだろうが、追撃をかける余裕はロシア軍にもなかった。
「‥‥あの任務の時の敵は、叩いておきたかったんですがね」
緊急避難という言い訳が通用する状況ではなくなった今、技術交換の為に訪れていた篠畑がここに残る理由は無い。篠畑は、部下ともども教育部隊への転属が内示されていた。
「エミタがあるからっていう理由で、飛行訓練も受けずに飛ばされる奴が多すぎる。資郎の件の後、そう言って上に捻じ込みました」
戦うばかりではなく、生きて帰る事を教えたい、と言う篠畑に、榊原が頷く。
「‥‥聞いています。私も、後押しさせてもらいましたから」
そういえば、政治畑の大物だというように、資料で読んだ記憶があった。興味が無かったので忘れていた、という篠畑に、榊原は穏やかに微笑む。
「今日と明日は、のんびりするつもりなんですよ。どうですか、少し付き合ってはくれませんか」
榊原は杯を呷る手まねをした。
「あいつとは、もう飲めませんからね‥‥」
遠くを見る榊原に、篠畑は言葉を無くす。中佐が遠くを見ながら、口を開いた。
「中尉や傭兵諸氏の送別会を、ささやかながら行いたいという上申が来ている。許可を出さない理由は、私には思いつかない」
中佐の部下だけではなく、傭兵達のお陰で一命を取り留めた陸軍の兵たちからも、そんな声が上がっているのだとか。軍隊の宴会の例によって、収拾がつかないほどの大騒ぎになりそうだと、中佐は片方の眉を上げつつ付け足す。
「寂しく、なりますな」
むすっとしたままそう言い残して、中佐は階段へと踵を返した。後に続きかけてから、篠畑は榊原の方へ目を向ける。
「‥‥先に、下で待っています」
意外にがっしりした背中に、そう言葉を投げるのが篠畑に出来る精一杯だった。
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普段より早く就寝したイワノフ少尉は、寝付いてすぐ、部下の軍曹に叩き起こされた。以前の敗走で行動を共にした面々が、再編成でそのまま自分の部下になったとあって全く遠慮が無い。少なくとも、軍隊で部下が上官に対して為しうる最大限の乱暴さであったのは間違いなかった。
「‥‥訓練期間みたいじゃないか。まだ15時だぞ」
夜勤明けで眠りについてから、まだ3時間。愚痴を言いたくなるのも解らないではないが、それを言うなら軍曹も、その背後に仏頂面を並べる部下達も同じはずだ。
「少尉殿、何が起こるのか判らないのが軍隊です」
ずい、と突き出された書面には20名弱の署名が為されていた。流し読みをしているうちに、イワノフの目が冴えてくる。
「厨房施設への奇襲、並びに酒蔵の開放‥‥か」
「決行は、1600を予定しております。あとは、少尉殿の御指示を待つのみです」
腹を空かせた若者が厨房を襲撃し、コックらに怒鳴られるのは士官教程では日常の風景だった。見つからないように、イワノフもやった事が無いわけではない。
「‥‥こういうのは、士官に知られないようにするもんじゃないのか」
「ですが、この度の決起には少尉殿も加わりたいであろうと、我ら一同が愚考した次第であります」
ペンを手に、青年士官は紙に向かう。『傭兵諸氏へ送別会につき食料を奪取する決議第704号』と大真面目に書かれたすぐ下に、自分の名前を書いてから。
「当たり前じゃないか」
そういった時には、既に着替え終えている。何かしながらでも着替えができるようになったのは、大学を出てから半年ほどの間の進歩、かもしれなかった。
●リプレイ本文
●
管制塔の外付け階段を下りて、篠畑は榊原を待っていた。
「とりあえず一段落か。お疲れ様だ」
神撫が、滑走路からそう声を掛ける。
「聞きましたよ。教育部隊への転属をされるそうですね。頑張ってください」
「教官になるんですか?」
硯の言葉に、ソラが目を丸くした。
「なんだ、その驚き方は‥‥」
苦笑する篠畑に、先生な篠畑がイメージできない少年は曖昧に微笑む。そこに、榊原が階段を降りてきた。神撫がハッと姿勢を正す。
「資郎君の事はとても残念でした‥‥。教練を担当したものとして、非常に悔しく思っております」
「北海道で、かな? あの子も喜んでいたようです。ありがとう」
聞いたソラが口ごもった。硯も、驚いたように瞬きする。
「‥‥ぁ」
言葉を選ぶような僅かな間。
「こんにちは、中尉。また後で。行くわよ、硯っ」
「あ、え?」
嵐のように現われたシャロンが、硯を引っ張っていく。
「あ、俺も‥‥、失礼しますっ」
ソラも頭を下げて駆け去った。
「‥‥気を遣われているのでしょうか。ははは」
笑う榊原に、神撫は今一度話を投げる。
「篠畑中尉から聞きましたが、教育に関して働きかけていただき感謝しております。ついでにもう一つ‥‥」
前線の電子機としては軍の主力であろう岩龍から、新型への機種変更を進めて欲しい、という彼の言葉を、男は静かに聞いていた。
「私に出来る事など、微々たる物です。軍には軍の、意向もあるでしょうから」
そう言いつつも、彼は無理だとは言わなかった。そんな会話を、シャロンが肩越しに振り返る。
「‥‥」
硯の手を引くのと反対側の手に、あの少年との握手の感触が残っているような気がして、シャロンはふと掌を覗き込んだ。
「ここが‥‥キーロフ。‥‥京夜が片目と片腕を失った場所‥‥か」
藍紗が滑走路を見回しながら呟く。彼女の恋人はあの日から、身体だけではない何かを無くした様に見えた。その場に自分がいたならば、と思わぬ日は無い。しかし。
「‥‥いつまでもこうしていても仕方ないの。迎えに行こう」
過去を悔やむだけで歩き出さなければ、未来は掴めないから。
●
屋内でコソコソ動くイワノフ達は、探そうとしなくても凄く目立った。
「汝ら、何を企んでいる?」
「うひゃ!?」
背後からのリュインの声に、イワノフの背筋が伸びる。
「なんか楽しい事でもあるのかにゃー♪ ほう、ほうほう?」
軍曹に狎れた調子で話しかけたフェブは、渡された決議文をじっくりと。
「軍曹、部外者に決議を軽々しく‥‥っ」
「ま、硬い事は言わない言わない。イベントごとは参加した方が楽しいクチにゃんだよっ!」
イワノフの肩を、フェブがぽんぽんと叩く。
「って、何ですかその口調‥‥」
「何を驚く事がある。軍務オフの私はこんな感じだにゃ」
上辺だけは作戦行動っぽい雰囲気ではあるが、軍務というよりは明らかにそれ以外。ミリタリーにゃんこなフェブの脳内も猫8割に軍隊2割程度の配分のようだ。
「莫迦騒ぎする為の酒蔵襲撃は伝統行事ですからねえ。地方勤務の際、よく手伝わされたものです」
言いながら、論子も軍曹達に自然に混じっている。能力者になる前にロシアで軍務についていたらしい彼女は、懐かしげに微笑した。
「軍隊にこういった風習があるとは、全く知らなかった。まだまだ未知の世界だな」
リュインが訳知り顔で頷く。思い込みが激しい彼女の脳内に、また妙な知識が増えたようだ。
「わ、判ったら解放し‥‥」
「そういう面白そうな事には乗るぞ。というか、乗せろ」
断られる可能性など1ミリも考慮していない笑顔を見せるリュイン。返答に窮したイワノフへ、やってきたシャロンが手を振る。
「あら、懐かしい顔ね。‥‥何の話?」
「えーと‥‥?」
リュインの手から決議文を受け取った硯。その手元をソラも覗き込む。
「‥‥イワノフさんたちって、なんかもっと固いのかと思ってたけど、お茶目な感じなのですね」
「そりゃ、食べ物の事だし‥‥。んん、食べ物で、お茶目な軍人?」
共通の友人を思い浮かべて、3人は思わず笑い出した。そんな声に引かれて、また数人の傭兵が現われる。
「待機場所、ここじゃない、のかな。う? 何する‥‥の?」
首を傾げたラスに、硯が決議文を回す。回す間に、当然のように署名が増えていた。
「ふふ、襲撃。昔の血が、ちょっと騒ぎますね」
嬉しそうに笑う真琴が、ちらっと隣を見る。
「厨房襲撃とは穏やかではありませんね‥‥。料理人の端くれとしては‥‥」
ブツブツと難しげな顔を見せる叢雲に、真琴はホッとしたように頷いて。
「2人分、追加で」
色々と、見切られていた。
「‥‥そりゃ、楽しそうだからノりますけどね。でも3人、ですよ」
指を3本立てて、片目を瞑る叢雲。
「え、俺もッスか? でも、この間爆撃作戦に参加しただけだし‥‥」
「それを言ったら、私はここに伺うの、今日が初めてです」
ほんの少し、今回の参加に気後れしていた源治に叢雲は気がついていたのだろう。
(そういう所は、気がつく奴なんだよね)
真琴の苦笑には、気がつかないのだろうけれど。
●
そんなこんなで、賑わう厨房襲撃部隊。傭兵達の為に用意された部屋には、当然ながら傭兵達の姿はまばらだった。
「誰も、来ないな」
「‥‥そう、ですね」
こく、と頷くセシリアとの距離が近すぎるように感じて、ドキリとしながら周囲を見回す。そんな心中を察して、透が苦笑した。
「悪い事をしている訳じゃないんですから、もっと堂々として下さい」
「‥‥何か、迷惑‥‥でしょうか?」
そんな事は無い、とかもごもご言う篠畑の後頭部に、不意に衝撃が襲ってくる。
「何を桃色空気を作ってるのにゃー!」
しっと団総帥として、見過ごせないと啖呵を切る白虎、10歳。自身も恋に恋しちゃったりする微妙なお年頃だが、それはそれ、これはこれという事のようだ。
「これから教師になるというならば、甘い空気に流されるのは論外! ナイスな教官になれるようにしっと団式の教育方針を叩き込んでやる!」
「いや、間に合って‥‥うぉ!?」
意気盛んな少年に、篠畑が向き直った時、不意に誰かが背後から抱きついてきた。ふに、とかいう効果音に振り返ってみると、バニー姿のヤヨイが舌を出している。
「あー、その。そういうのは困‥‥わわ!?」
文句を言いかけた所で、今度は腕が引かれた。
「‥‥」
篠畑の腕をぎゅっと抱いてから、セシリアは首を傾げる。自分の取った行動が、意外だったというように。
「あ、サービス以上の意味はないですからね。私、娘だっていますし」
何かを察して、ヤヨイは手をパッと離した。離す事で見やすくなった部分をじっと見てから、セシリアの視線は下へ。
「あ、ええと?」
少し強まった腕の力に、篠畑は戸惑ったように言う。しかし、これは意外と。
「‥‥篠畑さん、鼻の下伸びてますよ」
仕方ないな、と言う口調で、苦笑する透。古い傷跡はもう塞がっていた。
「ははぁん‥‥」
4人の様子を見比べてから、ヤヨイが頷く。頷いて、片手を白虎に伸ばした。
「にょ、にょわ! 何するにゃー!?」
「おいたはほどほどにしておきなさい。でないと‥‥」
言葉を切って、微笑を浮かべるヤヨイ。白虎とは彼が子供の頃からの付き合いだとか。男の子はおしめを変えて貰った相手には逆らえないのである。
「きょ、今日の所は勘弁してやるのだ!」
「あ、うん」
白虎の宣言に、気の抜けた声を返す篠畑。
「‥‥でも、皆どうしたんでしょうね」
「あ、何でも料理を作るとかで、厨房に向かってましたよ」
不思議そうに呟いた透に、ヤヨイが答える。
「‥‥料理、ですか。私も、作ろう‥‥かな」
セシリアの囁きを聞いて、タイミングよく篠畑の腹が鳴った。
●
「な、なんでこんな大部隊に‥‥」
唖然とした様子のイワノフの袖を、ラスがちょいちょい、と引く。
「人数多いから‥‥、分けると良いと思う」
「うむ。調理と襲撃だな。我は襲撃に回ろう」
自分の料理の腕前が壊滅的なのを、リュインは自覚していた。
「敵はコックかな? よーし、俺が敵を引きつけておくよ」
「あ、ありがとうございます」
裏口へ回る慈海の背中に、イワノフが何故か敬礼する。
「きゃ〜コックさぁん、ロシアなのに秋なのにゴキ発生! 早くこっち来‥‥」
「了解。排除する。‥‥害虫はどこだ?」
渋い声と共に姿を現したのは、如何にも強そうなコックだった。舞台が戦艦では無いからといって、コックを甘く見てはいけない。
「い、今のうちに‥‥っ」
裏口を閉鎖し、厨房を確保する突入部隊。ハッチの向こうで、悲鳴が聞こえた気もした。
食糧倉庫は、厨房から少し離れていた。
「どうもすみません。有難うございます」
丁寧に挨拶する炎西に、倉庫の管理官は返事をしない。というか、見てない振りをしているらしい。
「ふむ、とりあえず端から頂いていこう」
「‥‥コンソメ棚1つ分はさすがにいらないですね」
素早く、そして遠慮なく略奪していくリュインの隣で、真琴が必要なものだけ手際よく選んでいく。
「ほらほら、食器担当、酒蔵担当、てきぱきやるわよ」
いつも楽しそうなシャロンは、今日は常に増して楽しそうだった。理由は、聞かれても判らないかもしれないが。
「俺は何したら‥‥」
「じゃあ、はい。コレ持っていって下さい」
そんな事を呟いた源治に、真琴がどさっと荷物を渡した。重い酒瓶を満載した台車を、論子がゴロゴロ押していく。
「こちらの小さいエレベーター、使えますよ?」
叢雲が声をかけた。電気が無いのか故障の放置か、動かない機械も結構あるのだ。
「ありがとうございます」
礼を言う論子に続いて、両手に物凄い量を抱えたシャロンが乗った途端、ブザーがブーッと鳴った。
●
「‥‥送別会?」
「はい。皆さんで準備してくださっているようですよ」
きょとんとしたサラに、リゼットが頷く。こうしていると、同年代の少女という感じだ。
「オゥ、シークレットパーティ、ネ?」
ボブがポン、と手を打つ。サラも、合点がいったような顔をした。
「そうか。原隊から出る時にも盛大にしてもらったが。今回は何人位が相手だろうな」
まだ勘違いしているサラが、リゼットの説明で理解するまで、5分ほどの時間を要したとか。
「普通の送別会、なのか」
ちょっとがっかりしている様子なのは、間違いない。仮想敵国のコマンドサンボ相手に戦ってみたかったのかもしれない。
「で、俺達はどうすればいいのカナ?」
「送られる側ですし、ドンと構えていればいいんじゃないですか?」
ドン、と。擬音が難しかったらしく、何かブツブツ言いながら歩き去るボブの背を見送ってから、サラが何故か声を潜める。
「で、リゼットはどういう予定なのか」
「私はせっかくだから、焼き菓子を用意しようかと」
厨房に行くというリゼットに、サラは更に声を潜めて続けた。
「‥‥わ、私もついていって、いいだろうか?」
厨房では、真剣な表情でラスがスプーンを動かしていた。赤い何かが、一さじ、二さじ。
「‥‥まだ薄い、かな?」
鍋の中からは、目が痛くなるほどの刺激臭が漂っているのだが。
「果物、探してきたわよ。他にいるもの、ある?」
「‥‥あ」
厨房に入ってきたシャロンの声に、硯が頓狂な声をあげる。危ないので、恋する少年が包丁を持っているときに、気を散らしてはいけません。
「色々、持ってきました」
透が抱えていたのは、本当に雑多な詰め合わせだ。判らないので言われたもの以外は適当、らしい。
「‥‥グッジョブです、透さん」
無表情に頷くセシリアの正面には、南仏の家庭料理風な品々が並んでいた。
「つまみ食い、しちゃ駄目ですよ、ね?」
出来たてのキッシュの匂いに、ソラが鼻をひくつかせる。
「次、オーブンお借りしますね」
「‥‥ちゃんと食べれるものが出来るだろうか」
リゼットの後ろ側で、サラがもじもじしていた。ボブの姿が無いのは、厨房が狭いから邪魔という理由らしい。
(別に、大丈夫だった気もしますけど)
内心、そう思いながら微笑するリゼット。奥のコンロ付近では、炎西が腕を振るっていた。香ばしい匂いが、いやおう無しに食欲をそそる。餃子系の品々は、まだ仕込みの段階のようだ。
「味見は、現地の方にお願いしましょうか」
そう言ってイワノフへと向く彼に、頷くラス。
「‥‥そう、だね」
ロシア軍の兵達に降りかかる辛苦は、留まる事を知らない。
●
基地で一番大きな会議室は、傭兵と現地の兵たちが揃うと手狭に感じられる程だった。中佐でもいれば話は別なのだろうが、音頭を執るような者もいなかったので済し崩しに飲み食いがはじまっている。壁際の榊原の周囲は、少し空いていた。
「‥‥」
声を掛けかけてから、篠畑は俯く。それを見ていた慈海が、一瞬歩みを止めた。
「んにゅ?」
「‥‥あ、ごめんごめん。こっちだよ」
背中にぶつかった白虎に謝ってから、彼はメイド姿の少年を厨房へ。救えなかった命に責任を感じながら、残された者に対するのは苦しく、辛い事だと慈海は知っている。
「‥‥篠畑殿。少し、話しても良いか?」
篠畑に、藍紗が遠慮がちな声をかけた。
「ああ。俺も少し、話したかった」
共通の話題は、共通の知り合いの事だ。京夜が怪我をした時の事を、藍紗は知りたかった。そして、篠畑は話しておきたかった。傷を共にする事で、慰められる訳では無いけれど。
「‥‥あいつ、は。大丈夫なのか」
「その為に、我がいるのじゃ」
見せた笑いは、空元気の向こう側が透けて見える程、儚かった。少し考えたいと言う藍紗から離れ、中央へ向かった篠畑をリゼットとサラが迎える。
「隊長、何も言わずにコレを食べてみてください」
「‥‥?」
微妙に水気の多いタルトを1つ摘んでから。
「旨いが、ちょっと柔らかいかもしれん」
「そう、ですか。隊長にすらそう思われるようでは、やはり失敗か‥‥」
難しい顔で溜息をつくサラ。彼女に見えない位置で、リゼットが首を振って見せる。と、黒い腕がにゅっと伸びた。
「‥‥っ」
もしょもしょと頬張りながら、ボブはもう1つ摘む。
「ン。グッドネ。頑張った味がするヨ。次はもっと美味しくなる味、だネ」
「つ、次など無い」
「サラが作った? これを? アンビリーバボー!」
横を向くサラに、ボブは大げさに驚いてみせる。それが、彼なりの気遣いなのだろう。
「サラが作ったのか。珍しいな」
そんな篠畑を見て、リゼットが溜息をついた。一部始終を見ていたらしい霞澄がクスクス笑いながら、お酌に回る。
「これまで、お世話になりました」
「いや、こちらこそ、だ」
そんな会話を聞いて、部下達も表情を改めた。料理の皿を手に歩いてきた神撫が、声をかけてくる。
「次は教育部隊と聞いたが、大丈夫か? また助けてなんていってくるなよ?」
鼻の頭を掻く篠畑に、彼はニヤッと笑った。
「まぁ冗談だよ。資郎のこともあるし、俺も出来ることがあればなんでも手伝わせてくれ」
もうあんな思いはしたくない、と言う青年に、篠畑達は頷く。聞いていた霞澄が微笑んだ。
「‥‥皆さん、良い教官になられると思います」
抜けもあるし、気が回らない所もある3人だが、セットになれば丁度いい、のかもしれない。
「大変な事もあるかと思いますがあまり気負わずに頑張って下さいね」
頷いたところで、今度は源治が瓶を片手に現われた。まずは陸上戦艦撃沈に乾杯してから。
「しかし‥‥。スゲエ短い期間だったッスけど、俺は役に立ってたんスかね?」
「勿論。誰に聞いても、そう言うと思うぞ」
見掛けに似合わず繊細な青年の肩を、篠畑が軽く叩く。部下達や霞澄やリゼットも頷いていた。
「ひと段落、ですね。まだ、やり残しているような感じもするのですけど‥‥」
「そう、だな」
遅れて来た由梨の言葉に、篠畑が眼を閉じる。難しい顔をする面々の中、源治がニカッと笑った。
「またココの空で戦いがあるってんなら、何時だって戻って来るッスよ」
「だネェー」
せっせと料理を皿に乗せていた獄門が頷く。彼女1人で食べるには、少しばかり多い。
「‥‥うん」
頷くラスの皿は、まだ空だった。心配げに、篠畑が声を掛ける。
「獄門を見習って、ラシードも少し食べたらどうだ?」
「‥‥デリカシーに欠けるのは、どうかとおもうんだよ」
そんなやり取りに微笑しつつ、ラスは食の進まない理由を誤魔化した。自分の料理の売れ行きが少ないのが気になって、食べられない、とか。
「なんだ。そんな事か。じゃあ俺が‥‥」
予想通りの返答に、ラスはコクリと頷いて、真っ赤な何かの鍋を指す。
「‥‥え」
「最近‥‥更に辛くなったって、言われるんだよ、ね‥‥」
火から離れて暫く経つのに、まだ泡が弾けたりしている激辛料理がそこにあった。
「ん? あれは旨かったぞ。見た目はアレだが」
リュインの言葉に、おずおずと手を伸ばした篠畑は、その後しばらく悶絶する羽目に。
●
「まだまだ、料理は出ますからね」
「空いた皿はキリキリ渡すのにゃー!」
料理を入れ替えに来た叢雲の隣で、メイド服の白虎が胸を張る。そんな偉そうなメイドがいてたまるか。
「‥‥少し、いいですか」
甲斐甲斐しく動く2人を見ていた真琴が、お酌方々篠畑に声をかけた。人の輪から少し外れてから、ぺこりと頭を下げる。
「あの時は急にごめんなさい」
「‥‥ん、ああ」
以前、海で話した会話を篠畑は覚えていた。謝られるような事ではない、と笑う青年に真琴は頷く。
「心配だった相手に関しては、言いたい事は取りあえず通じてくれたみたいです」
自分が欲しいか問えば、そうではないけれど、誰かの帰る場所に自分がなる事は出来るかもしれない、と言う彼女。
「‥‥じわじわと、頑張ろうと、思うのですよ」
頑張れ、と返された真琴は、少し照れくさそうに舌を出した。
神撫は、サラとボブの席にいた。
「君たちと会って1年とすこし‥‥、ずいぶんとかわったな。腕も心も」
少し水臭いタルトを摘みながら、青年が笑う。
「今やったら、バスケでも負けないヨ?」
ニコニコ言うボブの腹を殴ってから、サラが頭を下げた。
「榊原兵長は、貴方達とのあの日を、ずっと支えにしていた。彼に代わって感謝します」
篠畑隊のNo2としての言葉。彼女にとっても、少年の死は決して小さなことでは無かったのだろう。
「何だかさっき、桃色の匂いを感じた気がしたのだ」
「ピーチ? ウワォ」
「きゅ、急に話しかけるからにゃー!」
くんくんと鼻を鳴らす女装メイドに話しかけたボブが、暴発したシャンペン攻撃の洗礼を受けていた。
「リゼットにも、感謝を。あの時の経験で、少し肩から力が抜けた。私も、彼らも」
じゃれているボブと白虎を遠目に、サラが微笑する。
●
「‥‥」
休み無く誰かと話している篠畑を、セシリアはぼーっと眺めていた。自分といる時に見せるのとは違う顔、違う声。
「セシリアさん、こんな所でどうしたの?」
透が声を掛ける。彼女の視線を辿って、合点が行ったように頷いた。
「ちょっと、待ってて」
セシリアはもっと図々しくなればいいと思う反面、それが彼女なのだから、もっと気遣うべきだという篠畑への思いもあり。
「幸せに、ならないと駄目なんだよ。それに、幸せにしないと」
どちらにともなく呟きながら、朴念仁の下へと歩き出す。
「篠畑さん、約束でしたし。一緒に飲みませんか?」
「ああ、構わんが‥‥」
周囲に会釈してから、輪の外へ篠畑を引っ張り出した。そのまま、真っ直ぐに壁際へと向かう。
「‥‥あ」
「さ、乾杯しようか」
少女が何か言う前に、透はニッコリ笑った。
「出しているのが和食と中華、で大丈夫なんでしょうか」
「ん。好評みたいだけど。叢雲の、私も好きだし」
厨房に来た真琴にそう聞いて、叢雲の手がほんの少し止まる。随分前の夜会の時ほど動揺しなくなったのは、慣れだろうか、狎れだろうか。横目で彼を見れば、「楽しんでますよ」と視線で返る。
(無理に誘ったから、少し心配だったけど‥‥)
彼が何故楽しめているのか、までは彼女の思いは及ばず。
「こちらも、そろそろ片付けても大丈夫だと思います。先に上がって構いませんよ」
「うむ。今日はそのつもりで来たのだっ。任せていい」
炎西と白虎が、そんな事を言った理由は、本人達には判らなかったかもしれない。ずっとべったりでいた以前よりも、今の方がずっと気を遣いたくなる雰囲気だった。
「‥‥そうですか。それじゃあお言葉に甘えましょうか」
「え?」
意外そうな顔をする真琴に苦笑してから、叢雲はエプロンを外す。
●
乾杯の後、離れかけた透に篠畑が目を向ける。
「今晩は、一緒に飲む約束だった、だろ?」
「僕もいて、いいんですか?」
チラッと見上げる透に、篠畑は鼻の頭を掻いた。
「‥‥3人揃って話せる機会は、中々ないからなぁ」
透の頭を撫でて、篠畑はセシリアの手を取る。薬指の指輪に手が触れて、照れくさそうに彼女の顔を覗き込んだ。
「‥‥?」
「いや、その。幸せだな、と思ってな」
「僕、やっぱり外しましょうか」
クスクス笑いながら、透が言う。本当に楽しめる自分が少し不思議で、もう一度少年は笑った。隅の辺りで確保する席は4人掛け。真ん中にいた割に、色々あってあまり食べられていないと篠畑が言う。
「‥‥私、作ったんです、‥‥けど」
どうだろうか、と上目遣いで言うセシリアに、篠畑は嬉しそうに頷いた。
「私も、混ぜてもらっていいかしら?」
「お、ケイも来ていたのか?」
ちょっと準備が忙しかったので、と言いながら席へバッグを置き、料理を取りに行ったセシリアの後を追うケイ。
「中尉のお世話はきっちりしないと、ね?」
クスクス笑うケイに俯きながらも、セシリアは手際よく料理を取り分けていく。
「あ、こっちに温かい物、ありますよ」
配膳を手伝っていたソラがそんな声をかけると、ケイと一緒に戻ってきていたフォルが片手を上げた。
「ライヴをやるんだけど、聞きに来ないかな?」
少年が悩みを抱えていると知ってはいる。だから、気分転換になれば良いと思ったフォルの内心に、気づいたかどうか。
「行きますっ。リヒャルトさんの歌声は大好きなので」
ソラは嬉しそうに言う。
「僕らは飲み物でも取ってきましょうか」
透に言われるまで、篠畑は甲斐甲斐しい彼女に見惚れていた。微笑してから、フォルは視線を壁際へ向ける。宴の輪から外れて1人、榊原は宴の様子を眺めていた。
「‥‥」
声を掛けようとして、会釈だけに止める。掛ける言葉が思い浮かばないのは、彼も篠畑と同じだった。
●
「やぁ、可愛らしいお嬢さんだね。君も能力者なのかな?」
物思いに耽っていた榊原は、皿を手に歩いていた白虎に首を傾げる。頷いた少年が、今度は同じ事を聞き返した。
「いや、私はそうじゃない。息子が、能力者だったんだ」
それが誰か、尋ねた後で少年は少し俯く。もう今はいない資郎と、それほど深い縁は無かったのだが。
「君は今、充実しているかい?」
問いかけた言葉の真意は分からず、白虎は首肯する。
「僕は‥‥、傭兵になってよかったと思ってるよ」
「‥‥そう、か」
「大好きな人達を自分で護れる力だもの」
もう一度同じ言葉を呟いた男の目尻は少し潤んでいた。白虎の目を見て、また頷く。
「息子も、そう言っていたんだよ。いつまでも、子供だと思っていたんだが‥‥」
俯いて、顔に手を当てた男の、前の椅子が引かれた。白虎が顔を上げる。
「ウィスキー、持ってきてくれないかな?」
彼女の声に、白虎は無言で頷いて踵を返した。
「‥‥ヤヨイ・T・カーディルと申します。資郎さんを、最後に確認した者です」
「そう、ですか。失礼。見苦しい所をお見せしました」
会釈する男は、再び心の鎧を纏っていた。
「息子は、どのように眠っているのですか?」
男の言葉に、ヤヨイは真実を以って答えた。コクピットごと一瞬で蒸し焼きになり、苦しまなかったであろう事。しかし、遺体の損壊は激しかった事。少年の声を記録したレコーダーを回収したのも、彼女だった。
「ありがとうございます」
言う榊原に、ヤヨイは自身も能力者の娘を持つ親でもある、と告げた。それが慰めになると思ったのではなく。
「もっとも、私なんかよりもよっぽどしっかりしてますけどね」
「貴女は、強いですな。私にもう1人子供がいたら、何を於いても引き揚げさせたく思うでしょう」
ヤヨイが差し出したグラスを、榊原は一息に飲み干す。
「‥‥ああ、これで眠れそうです、よ」
男が目を閉じるのを見て、ヤヨイは浮かべていた微笑を沈鬱な物に変えた。そのやり取りを聞くとはなしに聞いていた由梨が、白い天井を仰ぐ。1人の人間が、死んだ。身近に起きた死よりも、その事に揺るがなくなった自分が怖い。その事に悩む自分も。そして、何よりもその悩みが戦場での遅れに繋がる事が、一番怖かった。
「何も考えずに、暴れるだけなら楽なのでしょうか? はぁ、何が何やら、ですね」
待つ人がいる。心配をかけたくない人達がいる。だから。笑顔を浮かべたままの由梨の心中には、暗い濁りがたゆたっていた。
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広い会議室の中を、ケイが準備に走り回る。舞台でいつも見せる、自信と輝きに溢れて。それを見ながら、京夜は花咲く季節を思い出していた。
「勿論よ、京夜のリハビリに役立てるなら喜んで! それが音楽なら尚更協力するわ」
腕のリハビリの為、ドラムの練習をさせて欲しいと頼んだ京夜に、二つ返事でOKしたケイ。その為に遣わせた時間を思えば、自然と頭は下がる。
「まあ、大丈夫ですよ。気楽に行きましょう」
フォルは、急に巻き込まれた割にいつもの余裕を失っていなかった。
「ステージは初めてなんでね できりゃ、皆を楽しませたいもんだが‥‥」
しかめ面で言う京夜に、2人は顔を見合わせる。
「笑顔笑顔。楽しい事するのよ? そんな顔じゃダメ」
ぐに、と頬を両手で吊り上げる。すぐ仏頂面に戻る自分の顔に、京夜は首を振った。
「そもそも笑うって‥‥どうすんだっけか」
ケイは肩を竦めてから、スティックを握る手に軽く手を重ねた。
「いい? まずは自分が楽しむの。最高に楽しくするわよ?」
「ですね。自分達が楽しめなくては、見てるほうも楽しめませんしね」
フォルも、その上に手を重ねてから。
「ステージでは、泣いても助けてあげませんからね」
「さぁ、魅せてやろうじゃないの、仔猫ちゃん。出だし、失敗したら‥‥お仕置きが待ってるわよ?」
そんな言葉を残していく2人に苦笑が漏れる。暫く見失っていた場所に、手が届く気がした。
「うわぁ‥‥」
勢いのあるケイの歌声はロシア語で、ソラには意味までは判らない。漏れた声を、両手で塞いで、音に身を任せる。周囲のロシア人も、いつもの仏頂面が嘘のような笑顔を浮かべていた。
「音楽がかかると、陽気になるんですよ。誤解されますけれど、ね」
論子がニコニコと言う。京夜は、初めてとは思えぬ鋭い音を出していた。
(クソ度胸だけは、あるんだから‥‥)
自分は棚に上げて、フォルは苦笑する
「‥‥良かった、のう」
藍紗が囁いた。遠かった京夜が、この夜はそこに居る。そこに彼がまだ居たと言う事が、嬉しい。
「明日からは、我も‥‥」
愛する伴侶を支えたいと思う自分に、素直に。握った拳を音に合わせて揺らしながら、彼女は勇気をかき集めていた。
「‥‥歌、か。もう、だいぶ、IMPにも、顔出してないな」
呼吸する度に笑いの形に近づいていく京夜の口元を、ラスはじっと見て。
「今は楽しい、のかな」
ポツリと呟く。それは作り笑いか、そうで無いのか。
「これまで、楽しかった‥‥のかな」
ずっと、あのままの兄でいてくれると思っていた。あの笑顔は、作り笑いだったのか、そうでなかったのか。ぐるぐる、何かが回って音が聞こえなかった。
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執務室まで響くロックに、中佐は珍しく微笑を浮かべていた。
「気づかないフリをして見過ごすだけってのも管理職の辛い所だよねェー」
「祖国の様式美のような物だ。この音楽も資本主義の退廃を示す、と言っていたが」
敵の研究と称した方がレコードを手に入れやすかっただけだ、と笑う男のグラスに、獄門が琥珀の液体を注ぐ。
「案外、フランクなのは意外だったんだよー」
料理を持って押しかけてきた少女が『美少女の酌をつけてやろうじゃないかねェー!』等と言うのにも、鷹揚な物だった。差し向かいで飲む中佐に当てられたのか、少女の頬はほんのり赤い。
「そも、君たちロシア人はウォッカをがぶ飲みするのでは無かったのかー」
中佐とっておきらしいウォッカのラベルを見つつ首を傾げた少女に、中佐は苦笑する。
「我々にも好みと言う物はある」
「うむ。個人には好みがあるのは理解できるんだよー。獄門にも好むタイプはあるからネェー」
頷いてから、獄門は首をまた傾げた。少し酔っているのかも知れない。と、そこに控えめなノックが響く。
「誰か?」
「お邪魔しても、よろしいですか?」
獄門同様、酒席を抜けて挨拶に来た霞澄だった。
「邪魔と言う事は無いんだよ。さぁさぁ、入りたまえー」
早口で言う獄門。
「少々、彼女の連れてきた敵が多すぎた。増援は歓迎する」
料理を示しながら、中佐が苦笑する。執務室の中を眺めてから、霞澄は膝を揃えて椅子に座った。
「私には半分スオミの血が流れていますし、ソ連の軍や体制にはあまりよい印象は無かったのですが‥‥」
そんな自分がロシアの地を守る事になる不思議を、彼女は語る。中佐にすれば祖父の、霞澄であれば曽祖父の世代の戦争は、つい先日までその根を残していた。
「まあ、UPCは人類の総力である訳だがー。これは何も、生まれた国だけに限った話ではない。と、思うのだよー」
国境はあれども、そこを越えて人のつながりは生まれている。そう言う獄門もまた、古き時代にはロシアと幾度も戦った歴史を持つ国の血を引いていた。
「まあ、一杯やりたまェー。アインプロージット♪ だぜェー」
上機嫌な獄門は、やはり空気だけで酔っているのかも知れず、手つきがおぼつかない。その手に、細い手が重なり。
「良い指揮官と良い部隊に出会えました。今後の更なる幸運をお祈り致します」
霞澄がそう言い添えた。
●
「‥‥あ」
ふらふらと歩いていたラスの足が、榊原を見て止まる。素通りはしたくないし、できない。しかし、どうしていいのか少年には判らなかった。
「‥‥ごめん、なさい」
頭を下げて、その一言を搾り出すのが精一杯で。
「今日は、謝られてばかりだな」
目を薄く開けて、男は微笑んだ。
「ありがとう」
家にいたより幸せだったのだろう、と言う榊原は、自分に言い聞かせるようで。
「‥‥幸せ、って。何」
口をついて出た質問に、彼は再び目を閉じる。
「こちらから探しに行かないと逃げてしまう物、かな」
言って、榊原は短いフレーズを口ずさんだ。何故か、さっきと違ってその歌は少年の心に届く。
●
「疲れてたんだろうな」
篠畑に背負われたまま、透は目を覚ます様子は無かった。ずり落ちかけた毛布をセシリアが押える。幸せになるように、そして幸せにするように、と繰り返し言っていた少年の気持ちが、胸に温かい。
「‥‥健郎さんの、部屋‥‥。私も、お邪魔していい、ですか?」
「汚い所だけど、な。せっかくだから上がっ‥‥あれ? 鍵が」
かかっていない、と首を傾げた篠畑の耳に、楽しげな声が聞こえた。
「遅いじゃないか、篠畑」
「先に、はじめてますよ」
部屋の中で飲み物を手にした京夜と、フォル。その奥で、何やら広げている炎西を見て、篠畑は色々思い出した。
「ありがとうございます。中々横になって貰えるスペースが無かったので」
「あー、いや。俺もあいつの様子は気になってたから、な」
京夜に鍼治療をする、という炎西に、自室の鍵を渡したような気が、そういえば。コンサートが終わってから今まで治療していたのだろう。
「あ、篠畑君、寝室はちゃんと片付けて置いたからねっ☆」
奥から現われた慈海がウインクする。
「‥‥皆さん、楽しそうですね‥‥。何か、作りましょうか」
「すまん」
室内の先客に軽く会釈してから、セシリアは無表情なままでキッチンへ立った。いたのは、幾度か任務で一緒になった事もある顔ぶれだ。空での、自分の知らない姿を知っている人達。少し、気分が沈んだ。
「篠畑君」
ベッドに透を寝かせていた篠畑に、慈海が少し落とした声で、言う。
「‥‥女性と会ってる時には、その人の事だけ考えなきゃ。寂しがらせちゃったら、ダメだよ」
思い当たる節は、あるのだろう。篠畑が溜息をつく。
「そうだよな‥‥。頭ではわかっちゃいるんだが」
冷蔵庫を開けて中の物をチェックする少女の耳に、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「来ない方が、よかったかな‥‥」
ふと呟いた彼女に、後ろから手が回される。透を寝室へ置いてきた篠畑だった。
「そんな事は無い。俺が時間を作れなくて、すまんが。1分でも、1秒でも、一緒にいられるのは嬉しいから、な」
耳元で囁いてから、チーズの皿を手に。
「明日は、ちゃんと彼氏らしい事をする。つもりだ」
照れくさそうに視線を合わさないまま、篠畑は宴席へと戻っていった。
「で、彼女はどうやって落としたんです?」
楽しげに問うフォル。もごもごしている恋人の背を見て、セシリアの口元が僅かに綻ぶ。
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現地の兵たちの間ではまだ乾杯が続いている。逃げ遅れた傭兵と、好んで残った傭兵もその中にいた。例えば。
「すずり今日もかわいいー♪ はぐはぐー♪」
「わわっ!?」
酒は心の垣根を下ろすと言うが、シャロンに抱きつかれた硯は複雑そうだ。というか、生殺しかもしれない。その向こうで話し込んでいる叢雲と真琴は、いつも通りに見えた。
「私も、ロシアで働いていた事があるんです」
「通りで。慣れている感じですね」
宴席の様子を懐かしげに見る論子が、イワノフに言う。キーロフ戦線の様子を尋ねた彼女に、イワノフの表情が曇った。
「‥‥酷い状況でした」
青年の同期の多くは土に返ったらしい。しんみりした彼の後頭部に、リュインの肘が乗った。
「何故そっちから注ぎに来んのだ」
ぐりぐりと捻られる肘。溜まっていたストレスを発散していたら、こんな時間まで飲んだくれる事になったらしい。
「ヤツも軍属なのだが、忙しいらしくなかなか会えんのだ」
「は、はぁ‥‥」
「コレは1つ、同じ士官のお前に落とし前をつけてもらおうか。という訳でさぁ、飲め」
恋人の話から強制お酌へ。ちなみに、この会話は今晩3回目である。
「ホント、無理しないでよ少尉殿う。下士官にとっちゃあアンタら新米士官は可愛いーい子供なんだぞう」
わしゃわしゃとイワノフの髪をかき回すフェブ。ついさっきまで、小隊一同に訓示、というか檄を飛ばしていたのだが。
「子供はあ、国の宝って言うだろがー! なあ軍曹ー!」」
「ダー。その通りです」
「で、あるからしてェー、苦戦の折あらば臆せず迷わず呼ぶよーに!」
「有難い言葉です。では、輝かしい最後の希望と泥に塗れた我らの交誼に、乾杯を」
軍曹の合図で、兵隊どもがまた杯をあげた。
セシリアや慈海が引き上げてからも、篠畑の私室での宴も続いていた。どちらかというと、約一名が続けていた。
「健郎‥‥お前も盛り上げる芸やれ」
「飲みすぎじゃないか? 傷に障るだろうに」
応じる篠畑も、ちびちびと飲み続けている。京夜が、不意に見える片目を眇めた。
「そういえば、殴らせろとか言っていたよなァ?」
「ああ。今も殴りたくてしょうがない」
そんな会話の横、フォルは静かに杯を開けていた。
「ふざけんな。弱い奴に殴らせる理由は無いね。殴りたいなら、許可なんか求めずに来いよ」
「‥‥そうか」
「まあまあ、京夜さんもその辺にして。中尉もほら‥‥」
言い掛けた所で、身を引いた所を篠畑の腕が通過する。
「‥‥前からお前のすまし顔は気に入らなかったんだ」
京夜が反撃に放った蹴りは、篠畑をあっけなく転がした。
「さて‥‥、と」
立ち上がろうとした京夜の首根っこを、フォルの手が掴んだ。
「2人とも、止めろって言ってるんですよ。聞こえませんか?」
「‥‥」
転がった篠畑と、捕まった京夜の視線が交差する。酔いが醒めた、と言いながら京夜は瓶へ手を伸ばした。
「‥‥心配だよ、俺は。前の俺のようになるんじゃないか、とな」
ひっくり返ったままの篠畑の声に、酒を注ぐ手がピクリと揺れて。
「うだうだ言ってないで、飲め」
突き出された杯を、篠畑は呷って、そのままひっくり返った。
●
翌朝。滑走路に並ぶ機体の間を、白い花びらが一片、二片飛んでいく。
「資朗君の辺りまで飛んで行ってくれると良いんだけど‥‥。それに、ロシアの兵隊さんの所にも」
千切った花びらの行く先を目で追って、白虎が呟いた。駐機場の端には、イワノフや兵士も見送りに出ている。
「意外と、小さい‥‥です」
篠畑に愛機の感想を聞かれたセシリアは答えつつ外装を撫でていた。これが、自分の知らない場所を、恋人と共に行く物。守っている物。複雑な思いで見る少女の耳に、咳払いが聞こえる。
「‥‥後ろ、乗っていかないか。セシリアに、俺の見ている物を見せたい」
少女が頷くまでの間は、瞬き3回分程。篠畑が機上に彼女を引き上げた瞬間、口笛が滑走路を渡る。聞こえてきた方角では、中佐が何食わぬ顔をして敬礼をしていた。