タイトル:明日を歩めぬ者達マスター:錦西

シナリオ形態: ショート
難易度: 難しい
参加人数: 8 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2013/03/27 01:00

●オープニング本文


 血の匂いがする。鉄の匂いがする。
 靄がかった意識の中では唯一感覚だけが明瞭なまま。
 悪夢よ覚めろと念じるも無為。
 時間の感覚も失せてはや1日、1週間、1ヶ月。もしくはそれ以上。
 長すぎる夢には終わりはなく、足元には絶え間なく血が流れている。
 誰の血なのだろうと疑念が起こるも、視線を動かすより早く疑念は雲散霧消する。
 この夢の正体を知ろうと何度も足元を見る。
 そして幾度かはその正体を理解するも、気づけば記憶は振り出しに戻る。

 何時の頃からか、靄は薄れ視界は明瞭になる。
 見てはいけないと思いながらも足元を見る。
 本当は知っているのだ、そこに何があるのかを。
 それは自分の罪の証。
「―――――――――――!!!!!!!!!!」
 自由にならない声帯は悲鳴をあげようともしない。
 腕さえ自由になれば自身の命を絶つことも出来ただろうが、それも叶わない。
 靄は徐々に晴れ、自分が踏んでいる肉の感触も明瞭になる。
 意識は再び侵食され、彼はまた血にまみれた道を歩み始めた。
 


 北アメリカ某所、廃棄都市。
 ここにはメトロポリタンXから敗走してきたバグア軍が立てこもっていた。
 司令の名はアトオリ。ゼオン・ジハイドの6、エドガー・マコーミックの副官である。
 彼らはバグアのエアマーニェが停戦を宣言してからきっかり5分後、
 アトオリ司令の名前でもって宇宙と同条件での停戦を申し出た。
 対する北中央軍の指揮官、エドモンド・マルサス少将はこれを受諾。
 激しい戦闘から一転、バグア軍が宇宙へ離脱するのを見守るだけの日々がしばらく続いていた。
 この状況が変わったのは変化が起こったのは数ヶ月経った頃である。
「強化人間を引き取っていただく件ですが、問題が発生しました」
 通信でマルサス少将にそう告げたのはバグアのアトオリだった。
 彼は部隊再編から宇宙への打ち上げを行う最中、全ての強化人間を返還する準備も進めていた。
 洗脳の解除と人類側で治療が可能になるまでに必要な延命の処置、
 この2点を粛々と進めていたのだが‥‥。
「現在までに洗脳を解除した17名のうち、5名が自殺しました」
 居並ぶ士官達は皆一様に苦い顔をする。
 マルサス少将は彼らに代わり、話の続きを促した。
「その理由に関する調査は?」
「現在調査中ですが、おそらくは強化人間であった頃の記憶が原因だと推測されます」
 わからない話でもなかった。
 バグアはヨリシロ候補をさらに鍛えるために、強化措置の後に洗脳を行い戦闘に出すのが常だ。
 意に沿わぬまま仲間を殺し続け、結果激しい敵意に晒される。
 罪の重さを身に受けて自覚してしまったとき、果たして正気が保てるだろうか。
 戦争の爪痕がいかに深く残るか知らないわけではない。
 会議室が静まり返る。
 僅かな空白の時間の後、アトオリは静かに言葉を引き継いだ。
「洗脳の解除と延命処置のみが契約ではありましたが、
 人類をこれ以上殺傷するなと命令も受けています」
 たびたび、アトオリが口にしてきた台詞だった。
 並ぶ佐官達の視線が自身を映すモニターに向いたことを確認すると、アトオリは続けた。
「我々から提示できる案が3つあります。
 1.全ての強化人間に記憶の消去を行う事。
 2.ヨリシロとしてバグアで引き取る事。
 3.治療はそのままに行い自殺防止の拘束具を使用する事。
 1番は完全な実行を保証できません。関連した必要な記憶も封印されます。
 また、洗脳の延長ですので事後の人類側での治療が難しくなります。
 ですが自殺することはありませんから第二の人生を歩む事はできます。
 2番は資源のロスがありません。人材を安全に有効利用できます。
 最も必要な工程が少なくて済み、確実に実行できることも保証します。
 ですが政治的には内密に処理する必要があります。
 3番は自殺防止は100%を保証しますが根本的な解決にはなりません。
 事後の治療を全て人類側で行って貰うことになります」
 会場内の至るところから唸り声が聞こえる。
 3つの案は実現可能性で言えば特に問題ないのだが、
 選ぶにはやはり勇気が必要だった。
 人の人生に関わってしまう事でもあったし、誰もがなるべくなら、これ以上の不幸を生みたくは無かった。
「我々だけで悩んでも答えはでないでしょう。
 実際に彼らと戦ったことのある者達の話を聞いてみましょう」
 マルサス少将が良く通る声で言うと、議場の意見はそれでまとまった。
 軍に関係ない者なら個人情報を隠蔽すれば誤魔化せる。
 だが前線の能力者はそうもいかない。
 受け入れるかどうか、心情としてもっともこの件に影響を受けるのは彼らだ。
 


 自身の記憶は既に定かではない。
 洗脳が解けたからと記憶が戻るはずもなく、
 過去の記録と自身の記憶を照合する毎日だった。
 わかったことは、遡っても遡っても、自分が殺しを続ける記録だけ。
 どうやら相当以前に自分は強化人間になったらしく、
 長い間この地に脅威であり続けていた。
 世界を救うために戦い続けていた、つもりだった。
 その思いの強さは、洗脳に利用しやすかったのだろう。
「詳しいデータであれば私が把握しています。統計で良ければすぐにでも開示できますが?」
「‥‥必要ない」
「そうですか」
 それが表情のない司令なりの親切だとわかっていた。
 だからと言って何を許せるわけもない。
 積み上がった死体と向き合う必要がある以上、目の前のデータには全て目を通す必要がある。
 背後で司令が遠ざかる音がする。
 一人になった彼は崩れ落ち、拳を握り締め、吐き出すように嗚咽していた。

●参加者一覧

綿貫 衛司(ga0056
30歳・♂・AA
UNKNOWN(ga4276
35歳・♂・ER
風代 律子(ga7966
24歳・♀・PN
狐月 銀子(gb2552
20歳・♀・HD
天羽 圭吾(gc0683
45歳・♂・JG
ラナ・ヴェクサー(gc1748
19歳・♀・PN
天野 天魔(gc4365
23歳・♂・ER
モココ・J・アルビス(gc7076
18歳・♀・PN

●リプレイ本文

 陽光が暖かい。エアコンが必要ない季節になりつつある。
 傭兵達の呼ばれた会議室には中央に大きなテーブルが一つ。
 片側に北中央軍の幹部達とバグアの立会い人、片側に傭兵達が集められた。
 机の上にはそれぞれにコーヒーと紅茶。
 どちらも高級な品だが、復興が進みつつある今では容易に手に入る品だ。
 上品な香りが室内を包む。
 全員が進められた椅子に座る中、UNKNOWN(ga4276)だけは興味津々といった体でアトオリの子機を眺めていた。
 アトオリ本体と寸分変わらぬ子機は辛抱強く動かない。
「面白いね。青鳥、これは何を利用した通信かな?」
「アトオリです。前回も訂正しました。通信は中央軍より借り受けた無線を使用しています。
 これは有事にこの子機の使用を北中央軍から停止できるようにするための‥‥、
 それはともかくやたらと触らないでください」
 マジックハンドを抑えながらせめぎあう。
 そこまでに、と止めるタイミングを逸した周囲は、
 彼から視線を外して本来の予定を消化することにした。
 彼は必要な時に勝手に口を挟むだろう。
 紅茶とコーヒーを準備したのは彼だ。無関心なわけでは消してない。
「では、意見を聞かせてもらおう。まずは‥」
 マルサス少将は端に座っていた綿貫 衛司(ga0056)を見る。
 名を呼ばれた綿貫は直立不動の姿勢を取った。
「はっ。バグアの提案では3がベターと思えます。
 1はこれまでのバグアの洗脳技術から考え、
 記憶のフラッシュバックが起きないとは限りません。
 2は‥‥採りたくないですなぁ。我々は守り、取り返す為に戦ってきたわけですから」
 綿貫はそこで天井を見上げ、言葉を区切る。
 3をベターとしながらも納得できたわけではない。
 この時、綿貫の心を締めているのは、氷雪が眩しいグリーンランドの景色だった。
 あれはそろそろ3年前になる。あの頃の綿貫はハーモニウムの助命・救命に走り回っていた。
 普段から気に入らなかったのだ。
 青春を謳歌する年代の少年少女が、戦争しか知らずに生きて死んでいくことが。
「刑死を選べば遺恨側の溜飲は下げれます。ですが、他の強化人間の投降に悪影響が出ます。
 自死を認めても本人が満足するだけで遺恨は残ります。難しい問題ですな」
 憤懣は口にしなかった。
 大人として場に立つ自分はそれを表明することは許されない。
 ただ生きて欲しいと願う。
 悪意に満ちた世界でも生きてさえいれば希望も見つかる。
「なるほど。参考にしよう。ありがとう」
 マルサス少将にどこまで想いが伝わっただろう。
 幾分かの熱意が伝播することを願い、綿貫は席につく。
 続いて指名されたのは天羽 圭吾(gc0683)だった。
「俺の考えは、強化人間は洗脳された被害者であるのだから、
 今後については本人の希望を聞くのが妥当じゃないかと思うんだが、どうだろう」
 マルサスは立場もあり途中で答えは返せない。
 話の先を促され天羽は考えの根拠を並べていく。
「記憶を消去し苦しみから逃れるか、または3の方法で治療を続けるか。
 どうしてもと言うなら、死を選ぶ選択もあるのではないかと思う」
 自殺する位なら安楽死の手段を用意する事も考慮できるのではないか。
 その点で天羽は綿貫と差異があった。
 全てを解決する方法はないなら、苦痛は少ないほうがいい。
 自殺するほどの罪悪感を抱えたまま一生を送らせるのは忍びない。
「選択ができないなら軍側で決めておいた方が良いんだろうな。
 強化人間に家族がいれば家族の意向を聞くのが良いが‥」
「こちらで預かっている強化人間に家族はいません。確認済みです」
 なんとなく予感はあった。
 天羽はそのことはそれ以上追及せず、もう一つの選択肢に言及する。
「最後に2について。『資源』として有効利用するなら臓器移植等の方法のほうが
 人間に有効利用できるんじゃないかな」
 人間に、という部分を強調した。今は同じ部屋で相談していても、立場は違うのだ。
「停戦したとは言え、いつか再びバグアと戦うことになる可能性は0%ではないだろう。
 ヨリシロ化は、バグアにとってのメリットが大きすぎる」
 鈍く光る目でアトオリを見る。
 すぐさま返答が来ると思ったが、アトオリの反応は鈍かった。
「バグアと今後敵対する可能性に関しては考慮していませんでした。
 以後、参考にさせていただきます」
「‥‥考慮していなかった?」
 呆れたように、思わず言葉がついてでる。
 アトオリはしおらしく「申し訳ありません」とだけ口にする。
 今回の3つの提案は彼なりの善意によっている。
 意図しなかったとはいえ、それを確認できたのは僥倖であった。
 天羽が着席し、次に席を立って発言したのは天野 天魔(gc4365)だった。
「私の意見は大筋で天羽と同じです。これからの事は彼ら自身に選ばせて欲しい。
 そして、軍から手厚い保証も可能な限り。
 細かい部分は既に出ていますから、契約の話をしましょう。
 敵であるからこそ、契約には重みがある」
 その言葉で内容に察しのついたマルサスは眉間に皺を寄せた。
「アトオリ司令。契約では全ての強化人間を返還するとのことでしたが、既に契約不履行です。
 そして、三つの提案全てのどれであっても契約に反することになる。
 ゆえに契約違反の賠償として強化人間に関する技術の全般を譲っていただきたい。
 よろしいですね?」
 場が静まりかえる。それは不安を含む空気だった。
 ややあって、アトオリは機械音声で返答を開始した。
「管理不行き届きは認めます。ですが技術の譲渡は拒否します」
「何故?」
「理由は二つ。1.こちらの責に対して賠償が多すぎる事、2.私にその裁量が無い事、です」
 彼の言葉は普段と変わらず平坦だった。
 感情はいつも以上に見えない。
「天野君。彼は人とバグアの文化の違いに悩み、前向きに今後のことを相談しにきている。
 君を呼んだのは前向きな意見を聞きたいためだ。彼らを糾弾して欲しいわけじゃない」
 マルサスの言葉は明確な拒絶だった。
 天野はそれ以上の追求は流石に止め、場をモココ(gc7076)に譲った。
「私は‥‥」
 正解が何かわからなくても、想いは伝えなければならない。
 モココは意を決して言葉を並べ始めた。
「私はどの案でも良いと思います。それは、綿貫さんや天羽さんが言ったとおりの理由です。
 でも私の個人‥、子供としての我侭を言わせてもらえるなら‥‥みんなに生きて欲しいです」
 みんなに。その言葉は重かった。
 救えないものがある以上、叶え難い。
「この戦争で多くの人が味方として敵として死にました。
 だからこそ、みんなに生きて欲しい。
 彼らの命は、多くの人が欲して手に入れらなかった物です。
 その命を無駄にしないでください。私が救えなかった分まで‥どうか‥」
 誰もがその言葉を黙って聞いていた。
 誰もが望んだ結末の再確認だったからだ。
 モココが席を座ったのを見計らい、ようやくUNKNOWNが口を開いた。
「青鳥、この話に期間はあったのかね?」
「私が宇宙へ帰還する2ヶ月後までです」
「時間がないのは厳しいな。私は青鳥と長い対話もしたいから、ね」
 UNKNOWNは前に進み出る。
 手元のコーヒーは既に空だった。
「選択肢にこだわってはいけない。なければ4つ目の選択肢を作れば良い。
 1にしても、強化人間としての彼に死んでもらえれば良い。
 これだけ長い戦闘が続いたのだ。行方不明者も多いだろう。
 別の住民票や身分を作ることもできるだろう」
「彼らの個人情報を隠匿することまでは考えたが‥‥。
 そうだな。嘘をつくことも必要か」
 マルサスは小さく頷く。
「嘘をついてもよいのですか。例えば、宇宙への復帰作業が難航してると」
「うむ。時間は金だ、時間を延ばす方法を考えよう。今、ここで解決しなくても、ね」
 それは小さな転換だった。
 嘘という要素は今のこの状況では危うい。
 人とバグア、どちらからも言い出せない言葉だ。
 今その合意がなったことに、大きな意味があった。



 風代 律子(ga7966)、狐月 銀子(gb2552)、
 ラナ・ヴェクサー(gc1748)の三名は個別の面談を希望した。
 内容に前者5名と大きな差はない。
 彼女達はケヴィンの様子が気に掛かっていた。
 その3人が部屋を後にし、残りのメンバーと合流する。
 3人の表情は暗い。
 何をどう伝えれば良いか難しい話だったが、その成果も不明瞭だ。
 律子は切実な思いを訴えた。
「多くの命を殺め、残された人達を悲しませた事は事実。
 だけど、それでも私は彼らを「人」として生きる道を与えたい」
 それは綿貫と同様の主張だった。
 彼女もまた彼と同じように強化人間と関わってきた。
 彼らの想いを無碍にできない。
「貴方の苦悩は私達が知り得ない程深く、暗い事は解るわ。
 それでも、私は貴方達に生きて欲しい」
 誰も救われない。それこそ、誰かの溜飲が下がるだけだ。 
「私は貴方達と共に生きたい。だって、貴方は優しい人だもの。
 優しさを持った人と共に未来を生きる。それがこの世界に必要な事だと信じているわ」
 彼女の必死の説得は、しかしケヴィンには届かなかった。
 彼は黙したまま、律子に何かを語る事はなかった。
 心を閉ざした者には何を言っても届かない。
「彼らに取って、生きる事は過酷な事は十分解っているつもりよ」
 風代はぽつりと呟く。
 時間は、自分の傷と向き合う心構えをするには、圧倒的に不足している。
「それでも、あの人は‥道を、模索‥してた」
 ラナもケヴィンとの会話を思い出す。
 彼の姿を見て思い出したのは、かつて戦ってきた強化人間達の面影だった。
 彼らが己の道を信じて進む様は、ラナにとって眩しかった。
「貴方は‥なぜ、自殺を考えて?」
 最初の質問の答えは予想通りのものだった。
 無辜の人々を手にかけたという強い罪の意識。
 吐露することでその気持ちが整理されるかと思ったが、
 淡々と喋る彼を見る限り、その試みは焼け石に水だった。
「貴方が死ぬ程度で、罪を償う事が出来る‥‥本気で思っているのですか?」
 ラナは、あえて強い言葉で彼に問い質した。
 死ぬだけなら逃げるのと同じ。
 命を対価にしても底なしになる。
「‥何が罪の償いとなるか。それはご自分で考えて‥下さい。
 治療を続けるなら、時間はたっぷり‥‥ある筈です」
 それは自分への言葉にも近かったがしかし結果は変わらず、
 ケヴィンは何の反応もしなかった。
 目の下に隈がある。考える事に、一日を費やしているのだろう。
(私が、説教できる‥身分では、ないのですけどね)
 彼自身も今後を見据えて、それでも生きようとギリギリのところであがいている。
 自分の事も決められない‥私が、一番ダメなのに。
 ラナは小さくため息を吐いた。
 銀子は2人のような問いかけはしなかった。
 今でも、自分の手で殺した人々に許しを請えない。
 彼の辛さが身に沁みてわかるからだ。
「ねえ‥死ぬ前に世界を守る為の仕事があれば何かしてみたい‥?」
 代わりとなった縋るような銀子の言葉。
 無反応だったケヴィンはゆっくりと視線をあげた。
「それは‥‥誰に必要な問いかけなんだ?」
 胸を掴まれるような感覚がした。
 相対する瞳は底のない沼のよう。けれど目をそらせない。
「僕は‥‥僕も」
 視線を外したケヴィンは地面に吐き捨てるように言った。
「正義の味方になりたかった」
 その苦痛を理解しているつもりだった。
 実際に彼の挫折と苦痛は同質だったが、
 ここまで酷似しているとは考えていなかったかもしれない。
「もしも、その時があったら‥」
 痛すぎるほどにわかってしまうから。
「仲間になりましょ」
 生きろとは言えなくて。
「正義の味方が一度挫折するのはお約束でしょ。
 貴方が‥貴方も立ち上がれるって信じてる。待ってるから」
 昔の自分なら平気だった、すこし冗談めかした言葉を送る。
 願いと祈りをこめて。
 一瞬だけケヴィンが笑ったような気がした。
 その笑顔は子供のように純粋に見えて、
 一瞬だったはずなのに、その笑顔は銀子の胸を離れない。
「なんとかならないかしら‥」
 銀子は思いつく限り、時間の引き延ばしも提案していた。
 洗脳解除の段階的な進行、バグアの出立引き伸ばし、解除技術の提供。
 アトオリは非常に協力的だったが答えは全て否定。
 バグアの技術であるだけで、拒否する人も存在する。それを無視はできない。
 返答が早かったのは事前に検討した事があったのだろう。
 物思いに耽る銀子は、背後から近づいてきた彼の気配に気づけなかった。
「狐月さん」
 他人行儀な機械音声で呼び止められる。
 アトオリは空気を吐くような独特の音をたてながら銀子の前まで身を滑らせる。
「一言、お礼が述べたくて」
 警戒心の次に疑問符が浮かぶ。
 私達は何も出来ていない。そういう認識しかない。
「私に人の気持ちはわかりません。
 ですが、ケヴィンは少し生きる気になってくれたようです。
 貴方の言葉のおかげです。ありがとう」
 この機械のような司令が嘘をつかないのはわかる。
 だから本当にケヴィンは救われたのだ。
「それは‥良かった」
 銀子はそれ以上、言葉に出来なかった。
 彼自身が自分を救おうと思えないから傭兵が集められた。
 彼が再起する心を取り戻せたのなら望外の成果だ。
 アトオリは「またの機会があれば」と人間を真似て社交辞令を述べると、
 来た時と同じようにその場を去った。
 その様は、初めてみた時よりも軽やかに進んでいるように見えた。
「正直な話、彼はもうダメだと思ってたわ」
 律子は笑みをこぼす。
 彼女達は強い。だがそれは支えとなる大義があるからでもある。
 ケヴィンの挫折は他人事ともいえなかったのだろう。
 一度は敵対したバグアがラナの目の前を過ぎていく。
 思わず笑ってしまう違和感を飲み込み、ラナは傍らの銀子に視線を向けた。
「貴方も‥覚悟、決めないと‥いけなくなりましたね」
 もう二度と挫折してはならない。
 選んだ道の向こうで再び彼と出会う時のためにも。
 銀子は大きく深呼吸をすると笑顔で言葉を受け止めた。
「当然ね」
 子供のまた子供くらいにはキレイな手をした正義の味方、
 なんてものが育っているだろうか。
 こんな思いをしないでまっすぐに前を向けるような。
 ならばこの手を携え礎となろう。
 いつかきっとみんなが手を取り合えるように。


 意見陳述は終った。
 8人が去って後、アトオリ、ケヴィン、マルサスのみが残される。
 今後の相談と考えていた二人の司令だったが、先に口を開いたのはケヴィンだった。
「マルサス少将」
「む、何かね?」
「ウィル・パーソンズという少年、御存知でないですか?」
 まだ記憶に新しい少年の名前にマルサスは目を見張る。
 どこから彼らに伝えれば良いか、どこまで伝えて良いか悩みながらも、
 マルサスは順序立ててその後の話を語り始めた。