●リプレイ本文
(字数を大きく超過しておりますが、遅延状況と依頼の内容的に特例として許可しております。
ご了承くださいませ)
●早春の南仏
「ブラッスリに行くのか?」
高速移動艇からターミナルへと歩きながらアンドレアス・ラーセン(
ga6523)が訊ねれば、ケイ・リヒャルト(
ga0598)が緩やかに黒髪を揺らした。
「コールの事を知った時の、狼狽振り。あのリヌが‥‥いえ、あのリヌだからこそ。逢いに‥‥行かなくちゃ」
「そうか」
前を見据えたまま案じるケイに短く答え、彼は長い金髪を掻く。
「こっちは『眠り姫』と‥‥って、アレは男か。コールとは『ラスト・ホープ』で顔を合わせるだろうし」
少し間を空け、皮肉めいた苦笑を浮かべ。
「合わせたからといって、別にいつも通りだけどな。それが最も望む事だと思うし、仮にコールみたいなコトになったら‥‥俺も、そうして欲しいからな」
「‥‥覚えておくわ」
「あ? 覚えて、どうすんだよ」
微妙に怪訝な反応をする友人に、ただケイは「どうも?」と小さく笑んだ。
○
見慣れた扉を開けば、フロアは閑散としていた。
「客ならお断り、バグアの話なら更にね。誰も彼も出払ってるから」
「それなら、友人は?」
来訪者の顔も見ずにあしらうリヌ・カナートは、返事に振り返る。
「それなら、話は別だ。でも今日は、あたししか‥‥」
苦い言葉を遮るように、フロアを横切ったケイはぎゅっと相手を抱きしめた。
「リヌ‥‥」
名を口にしただけで、後は何も言わず。
ただ静かにそうしている友人の背を、リヌは軽くぽふぽふ叩く。
「そうか。気遣って、来てくれたんだね」
「‥‥リヌ。ツラい時はツラいって、言って良いのよ?」
いつもと変わらぬ口調が、逆に避けられぬ結末を甘受したようにも思えた。
「あたしには、リヌとコールとの時間は分からない。それでも‥‥どうか」
独り、そこに到った感情の変遷を思えば、少しでも苦い思いを分け合いたいと願い。
「あたしだけは。リヌが心から本当のことを言える存在で、ありたいの」
「全く‥‥変わらないね。本当に優しい子だよ、あんたは」
そっと肩に手を置いたリヌは、顔が見えるよう彼女を離した。
「変な話さ。あいつが死ねばと願い‥‥実際、トリガーを引いた事もあったのに。いざ余命に一年の猶予すら不明となると、奇妙なくらい現実感がなくてね」
気持ちの整理がつけられないのか、口元に自嘲めいた笑みでリヌが感情をこぼす。
とうに受け入れたつもりだったのに、と。
「‥‥ねぇ、リヌ。ブラッスリは休業状態だし、少しくらい外に出ても問題ないんじゃない?」
ゆっくりと頭を振ってからケイは肩に置かれた手を取り、微笑んで誘った。
車を出す訳でもなく、ブラッスリの外を散歩する。
冬の終わり、春の気配を感じる空気を吸い込み、移り変わる季節や世間話をしながら小道を目的もなく進み。
歩きながら、ケイは歌を口ずさんだ。
暖かい日差しに溶ける透明な歌声は優しくも、どこか儚げで。
友人の紡ぐ歌にリヌは耳を傾け、見慣れた風景を眺める。
複雑な感情の混じった横顔に去来するものを思えば、歌は自然と途切れた。
「‥‥ケイ?」
再びぎゅっと抱きしめる友人にリヌは驚いた顔をしたが、それ以上は何も言わず。
しばし、言葉の要らない時間が流れる。
「せっかくだ。あんたの歌の続き、聞かせてくれるかい?」
「ええ‥‥もちろん」
微笑むケイはほつれた黒髪を耳にかけ、再び歌を紡ぐ。
透き通る声を乗せた風に吹かれ、実りつつある麦が波のように揺れた。
○
「微弱電波を発してるのは、『下位人格』の意思なんだろうか?」
「おそらくは。実際にはどのような精神構造になっているか、意思の疎通すら困難なために解明も難しいのですが」
応対する担当官に、資料へ目を通していたアンドレアスが唸る。
彼が足を運んだのは、UPC仏軍が管理する病院。そこには、ロシアのバグア施設から運び出された強化人間が収容されていた。
ピレネーで暴走した詳細な原因は「戦況が変わった影響」か「洗脳の影響が弱まった為」と考えられているが、今もって不明。
『下位人格』の存在も、強化人間としての能力の一端か、処置を重ねる間に発生したイレギュラーと思われるが、予想や推測の範疇に過ぎない。
『下位人格』の覚醒時にジャン・デュポンが伝えてくるのは、彼の主観や感情の一切が含まれていない、僅かな単語の羅列のみ。起きた事象を羅列した調査レポートも、引き出した情報を繋ぎ合わせた結果だった。
「結局、身元は判んねぇのか? 歯型から特定できたりは、しねぇかな」
「それは‥‥」
歯切れの悪い担当官に、髪を掻く手を止めたアンドレアスが顔を上げる。
「掴んでるのか」
「いえ。作戦行動中の行方不明者リストには、該当者ナシです」
「MIA『には』‥‥?」
「『死者』の名誉は汚せませんから」
微妙な言いよどみの裏を悟り、彼は一つ嘆息した。
確かめるまでもなく、元は戦死扱いとなった仏軍所属の『誰か』なのだろう。
「だから『ジャン・デュポン』ってのは、皮肉というか。で、会ってもいいか?」
それが単なる自己満足と承知しているが、追いかけてきた者の顔を見ておきたかった。
飾り気のない『病室』の真ん中に、機械化された箇所以外は骨と皮だけの男がぽつんと床に座っていた。
拘束具のついた手足を曲げ、可能な限り小さく身を丸めている。
向き合うアンドレアスの後方、外に通じるドアの傍らでは、万が一に備えて二人の兵士が控えていた。
「よう、ムッシュウ」
年齢は自分より5〜10歳ほど上か‥‥気さくに声をかければ、落ちくぼんだ目が落ち着きなく左右に動く。
「こんな姿になっても、な」
彼は人間だ。最後まで人間だったのだと、アンドレアスは思う。
ロシアのプラント施設から脱出する際、彼は自爆による『攻撃』を選択しなかった。もしバグアに忠実な兵なら、敵に最大のダメージを与える機会を逃さなかっただろうに。
「‥‥ありがとう。どっかの誰かさん」
『願望』でもあった、ささやかな『甘さ』を受け入れてくれて。
そして友人達を哀しませる事なく、投降してくれて。
だから目の前で死に逝くモノに、せめてと最期の問いを投げる。
「アンタの名は‥‥?」
干からびた唇が、微かに動いたように思えた。
『情報伝達』を使わなかったのは武装解除されたせいか、自分の口で伝えたかった為か――逡巡した末、アンドレアスは後者の解釈を選ぶ。
それが身勝手な欺瞞だとしても、一人くらい夢を見たって構わないだろう、と。
「彼は俺が救えなかった、最後の一人になるだろうか」
日差しの下で煙草に火を点け、紫煙と共に自問を吐き。
「‥‥ならねぇだろうなぁ」
青い空へ腕を上げ、遮るように広げた手をかざす。
指の間からこぼれる眩い光に、アンドレアスは目を細めた。
「俺はまだ、手を伸ばす事をやめるつもりはねぇから」
――だから、彼を忘れない。
翌日、強化人間ジャン・デュポンは生体と機械の双方の全機能を停止した。
看取った者がいたのか、記録には記されていない――。
●意志と意思
「Hi,コール。リヌも居るのかしら?」
『トマティーナ』の前日、シャロン・エイヴァリー(
ga1843)は鏑木 硯(
ga0280)と共に『ラスト・ホープ』のホテルを訪れた。
「よく来たな。『ブクリエ』をカラにはできないと、リヌは残ったが」
迎えたコール・ウォーロックに案内されたリビングには、先客が二人。
「硯とシャロンも来たんだ」
「お邪魔しています‥‥」
一人掛けソファから赤崎羽矢子(
gb2140)が手を振り、別の椅子に浅く腰掛けた朧 幸乃(
ga3078)も軽く会釈をした。
顔を見合わせてから、硯はシャロンと空いた二人掛けソファに落ち着く。
「羽矢子と幸乃が先に来てるって、なんだか珍しい感じ?」
「そうかな? でも、偶然なんだけとさ」
小首を傾げるシャロンに少しバツが悪そうに羽矢子は苦笑で答え、小さく幸乃が頷いた。
「この島も久し振りだが、随分と変わったな」
備え付けのキッチンで紅茶を淹れたコールを手伝おうと、硯は腰を上げる。
「バグア本星が去りましたからね。とはいえ、能力者の仕事はまだまだなくなる訳ではないようですけど」
「ところで、イブン達は?」
「挨拶ついでに、整備部だ。フロリダ奪還に伴う退去勧告以来だからな」
「そっか。コール、その‥‥この間は厳しいことを告げてしまって、ゴメンなさい」
祈るように指を組んだシャロンは、金の髪を揺らして謝罪した。
「イブンのためにも、必要なことだと思ったから‥‥」
「気にするな、赤い月が消えるのを見届けられたしな。俺としては、イブン達を気にかけてくれた事を感謝している」
最後にコールはクッキーを置いてから、窓の外へ目をやった。
「‥‥あの時から、兆候はあったのか」
カップを見つめながら、浮かない表情の羽矢子がぽつりと呟く。
思い返すのは、コルシカでの一連の作戦行動だ。
言いたい事もいろいろ胸にあるし、非難するのは簡単だが、それで病状は回復しない。相手も自分も悔いを残さないよう、彼女は用件だけを切り出した。
「あのさ‥‥何か、やり残した事は?」
顔を上げた羽矢子は、正面からコールの目を見つめる。
「コルシカの時、無理して島に潜入した事は尊敬してるんだ。意図はどうあれ、解放の一端を担った事には違いないし‥‥あたしには、出来なかった事だから」
きっと相手は、素直に本心を口に出したりはしないだろうが。
「そんな男が命をすり減らして逝こうとしてる事が惜しいし、気付けなかった事が悔やまれる。せめてあたしに出来る事があれば、力になりたいんだ」
手助けできる事、後に残せるもの、引き継げる思いがあるなら‥‥と。
「気遣いは有難いが、不用意に背負い込むと身の丈に合わなくなるぞ」
「それは、そうだけどさ」
不満げに羽矢子が口を尖らせれば、思案顔でコールは唸り。
「では、せいぜい生き残ってくれ。出来るだけ、味方も死なせずに済んだら‥‥礼にワインでも、用意しといてやる」
「‥‥了解。しっかり寝かせるくらいの時間は、稼いでいくよ」
悔しくも呆れ顔で、羽矢子は了承する――多くの戦友を見送った者の心境を思いながら。
「後は、リヌや子供達か。何かあった時はよろしく頼む」
「勿論です」
「でも困った時は必ず連絡するよう、よ〜く言っておいてね」
快諾する硯に続いて、シャロンが冗談めかした。
周りの会話を幸乃は静かに聞きながら、クッキーを一口かじる。
もしお菓子好きな彼が、この場にいたら‥‥嬉々として『おかわり』を要求する姿を想像しながら。
「ティランさん、皆でトマト投げができるの、楽しみにしてたんだろうなぁ」
ふと、そんな呟きがこぼれた。
(そして私も、楽しみにしてたんだろうな‥‥コールさんとも一緒、したかったのかも、かな‥‥)
深く目を閉じてから幸乃はコールを見上げ、遠慮がちに口を開いた。
「‥‥ティランさんは一度くらいお見舞い、これてます?」
思い切って訊ねれば、苦笑いながらコールは首を横に振る。
「来ていないな。遠慮しているのかもしれないし、忙しいのかもしれないが。元々、風船のようなところがあるようだし」
「風船、ね‥‥」
小さく呻いて、羽矢子が額に手をやった。容易に想像がつくというか、心当たりが多いというか。
「彼は‥‥相変わらず、元気ですよ」
近況を伝える幸乃の表情は自然と和らぎ、おもむろにテーブルの端に置いた紙袋を抱えた。
「これ、お見舞いの品です」
「わざわざ気を遣わせて、すまんな‥‥って、こりゃあ?」
受け取った紙袋を覗き込んだコールは、中から赤く熟したトマトを取り出す。
「お見舞いにトマトって、なんだか、変ですよね‥‥でももし彼がきたら、投げてあげてくれませんか?」
別のトマトを幸乃は小さな袋に入れ、紙袋に加えた。
「投げる前に皮を潰してから、だな?」
「‥‥はい」
笑って確認するコールに、こっくりと幸乃は頷く。
「お土産といえば、桜餅を持ってきたんですよ。塩漬けの桜の葉っぱと一緒に食べるのが、美味しいんです」
持参した箱を硯が開ければ桜の葉の香りがほのかに漂い、淡いピンク色をした道明寺粉の和菓子を珍しそうにコールが覗き込んだ。
「日本の菓子か。それなら、紅茶よりグリーンティの方が良かったな」
「いえ、お構いなくっ。イブン達の分もありますから、緑茶の茶請けにするならあいつらとでも‥‥あ、お皿とか、取ってきますね」
慌ててコールを止めた硯は席を立ち、深呼吸して気を落ち着けてから人数分の皿を用意する。
キッチンから戻ると箱の桜餅を取り分けながら、何気なく口を開いた。
「あの‥‥コールさん。なにか受け継げる事とかあれば、なんでも聞いておきたいです。羽矢子にした話なんかもそうですし、それ以外の事も」
「それ以外、か。カスレの作り方とかもか?」
冗談めかすコールだが、真面目に硯は「ええ」と即答した。
「教えてもらえるなら、もちろん。戦闘経験の蓄積は重要ですけど、料理のコツなんかも蓄積は大事ですよね。まぁ、なんでも出来るって訳でもないけど、俺で出来る事なら出来るだけの事はしたいので」
「気遣いには感謝するが、お前にもお前自身の道があるんだ。いなくなる者の後は気にせず、先に生きてる者を幸せにしてやれ。ああ、『幸せが何か』なんて、改めて俺に聞くなよ? それは、俺が『出来なかった事』だから」
さながら「昨日の味付けは失敗した」とバラす風な、軽い口調でコールが返す。
「一度に複数、しかも大量の料理を作ろうとしても、一人じゃあドレか焦がすのが落ちだしな」
「そうですね‥‥心します」
やり残した事、出来なかった事を継ぐのなら、それもまた一つなのだろうと、笑んでは硯が頷き。
「ところで、だ。この桜餅は、葉ごと一口で食べるものなのか?」
慣れぬ餅を前に、コールは神妙な表情で訊ねた。
「それじゃあ、また。今度は、ブラッスリへ遊びに行きます」
「ああ、いつでも大歓迎だ」
ひとしきり世間話をした後、少年らが戻るのを待たず、来訪者達は席を立った。
「あれ、忘れ物‥‥ごめん、先に行っててくれる?」
皆に断ったシャロンは部屋の中へ引き返し、ぐるりと部屋を見回したコールが首を傾げる。
「特に気付かなかったが。何か、忘れたのか」
「ええ、言っておこうと思った事‥‥とか? リヌがいないのが、残念だけど」
バツが悪そうにシャロンは苦笑し、左手の甲へ右手を重ねた。
「まだ、皆には黙ってるけど‥‥能力者を辞めようと思ってるの。疑う訳じゃないけど、エミタの安全性もあくまで理論の話。この先‥‥もし子供が出来た時に、不安に思いたくないし」
「‥‥そうか」
いつもと変わらぬ様子で決意を聞く相手に、真面目な口調から悪戯混じりの表情で先を続ける。
「で、コールには辛い思いをさせた罰を1つ、受けてもらうわ」
「罰?」
きょとんとしたコールへ、にっこりシャロンは微笑み。
「将来、もし私が男の子を授かったら、コールって名付けるの。子供には一緒に戦った、立派な能力者の名前だって聞かせるわ」
怪訝そうな顔から呆気に取られたというか、脱力した風な反応の末、大きくコールは嘆息した。
「どう? これ以上ないぐらい恥ずかしい罰でしょ」
「一応は聞くが、本気なのか?」
「もちろん、本気よ。覚悟しておいてね」
胸を張って宣言すれば、神に祈るように『立派な能力者』は天を仰いだ。
「‥‥了解した、リヌにも伝えておく。反応は予想がつくだろうが」
「ありがと。コール、リヌ、これまで本当に、ありがとう」
直に言えない相手の分も感謝を込め、深々と一礼する。
「それから、リヌとあんまり喧嘩しちゃ駄目よ。程々なら良いけど♪」
「ま、銃を撃ち合う程の事は、もうないさ」
安堵したシャロンは満面の笑顔とウインクを返し、踵を返すと恋人や友人達の後を追った。
閉じたドアにコールは十字を切り、指を組んで頭を垂れる。
それが都合のいい願いである事を懺悔し、彼ら彼女らの幸いを祈って。
●始まる前から
「トマト投げ祭りなのだー!!」
トラックの荷台に満載されたトマトの山に陣取ったティラン・フリーデンが、子供のようにはしゃぐ。
そこへ、左右に揺れながら生ハムの大きな塊が近寄ってきて。
「‥‥あれ? トマト投げ開始前に、“パロ・ハボン”はやんねーの?」
不思議そうに抱えた生ハムの陰から、小田切レオン(
ga4730)は『主催者』を見上げた。
「ぱろん、ぽろん?」
「パロ・ハボン、ですよ」
「ふおぉっ!? そうであったのかっ」
いつの間にか傍にいた古河 甚五郎(
ga6412)がこっそり小声で修正すれば、驚いたティランが奇声混じりに納得する。
「ところで‥‥それは?」
彼の手にあるガムテープと保護用のビニールシートに気付き、ティランが指差した。
「KVの保護シートです。整備スタッフを手伝っていたので‥‥必要なら、遠慮なくかけますが」
保護シートを差した指で自分を指差す相手に、わりと本気な目で甚五郎はビーッとガムテープを伸ばす。
「自分、被りには自信がありますので。加えて、ガムテの扱いも!」
芸人としての経歴もあるが、元々は裏方のセット職をこなしてきた甚五郎。
業界再就職の就活用にとガッツリ『記録映像』を撮りにきたのだが、被写体を選べるなら勿論むさ苦しい野郎より麗しい女体派だ。
撮影の障害物は少ない方がいいというか、なんというか。
「とっ、当方は、遠慮しておくのであるよーっ!」
ある種、気合の籠もった甚五郎より発せられるオーラに、動物的な本能から身の危険を感じたのか。わたふたとティランはトラックの荷台を降り、レオン達の方へ逃げてくる。
「で、ぱろんぽろん、とは何なのだ?」
「石鹸が塗りたくられて滑りやすくなった木の棒の先端に生ハムをくくりつけて、大勢の人がソレを奪取する為に棒をよじ登る‥‥って云うらしい、アレだ」
企画した当事者にレオンが説明してやると、その目が急に輝いた。
「詳しいのであるなっ」
「ま‥‥先に、ネットで調べておいただけなんだけどな」
ごにょりと小声でバラすレオンに、傍らで聞いていた聖 海音(
ga4759)がくすりと微笑む。
ちなみに生ハムは、レオンが自腹を切って買ってきたものだ。食材を揃える海音の荷物持ちを兼ねて買い物に付き合い、どれがいいか売り場でアレコレ悩んだ結果、「どうせなら」と一番大きな塊を選んだ姿を彼女は思い出していた。
「でも能力者さんだと、棒も石鹸も難なく登って‥‥壮絶な事になりそうっすけどね」
若い整備スタッフの一人が、じぃ〜っと生ハムを凝視しながら呟く。
「あぁ、考えてなかったな」
唸ったレオンは、どうしようという目で海音を見やり。
「食事の時に、皆さんへお切りしましょうか?」
「いいな、それ。さすが海音だぜ」
頷くレオンの後ろでは、期待するスタッフ数名と主催者が目をキラキラさせていた。
「あ、私の方でもお菓子を作ってきましたので。練りきり、ですけど」
「おぉ、ねりねり〜!」
お菓子と聞いたティランが、謎の表現つきで喜ぶ。
「わざわざ手土産の手間までかけさせて、すまんな」
「いえ。参加させていただくお礼というか‥‥場所をお借しして下さって、ありがとうございます」
帽子を取って礼を言う老チーフに、菓子を差し入れた海音は緩やかに黒髪を揺らした。もっとも彼女はレオンの応援に回るつもりだが、世話になる事に変わりはない。
「ところで奥様は、お元気でいらっしゃいますか?」
「ああ、あれなら息災だ。今頃、持ってくる弁当でも作っているだろう」
「そうですか。楽しみにしていますね」
相変わらずの仲睦まじい様子に、ほっと海音は安堵する。老いてなお、いつまでも二人寄り添う姿に、自分もそうなれたらと胸の内で願いながら。
準備に余念がない者は、他にもいた。
「こちらのシート張り、終わりましたよー!」
作業の邪魔にならないよう、伸びた髪を束ねたレーゲン・シュナイダー(
ga4458)がぱたぱたと駆けてくる。
格納庫では整備スタッフが祭りの準備を進めていたが、心配したレーゲンがヘルプに来ていた。
「すまんな。若い連中はちゃんと働いてるか? もし尻が重いようなら、遠慮なく蹴っ飛ばしてくれ」
ねぎらう老チーフへ、逆に彼女はぺこりと頭を下げる。
「大丈夫です。それに整備部の方のお手伝いが出来たらと思っていたので、準備の段階から加われて嬉しいです。終了後のお掃除も、ぜひぜひやらせてくださいっ」
「祭りではしゃげば、疲れるだろうに」
「むしろ、お祭りは見学でっ。格納庫大好きなので、何でもお手伝いしますですよ、何でもお申し付けくださいです!」
レーゲンの気迫に、からりと老チーフは笑った。
「なら、好きにするといい。手際は下手なモンより慣れている上、花があるだけで若い連中は張り切るからな」
「ありがとうございます、光栄ですっ」
束ねた髪を揺らし、ぺこりとレーゲンが一礼する。
「それにしてもバグア退治だけでなく、いろんな事に手際がいいもんだ」
感心する老チーフの言葉に視線を辿れば、アルヴァイム(
ga5051)もまた着々と別のアプローチからの準備を進めていた。
トマト投げの範囲となる――彼曰くは『交戦域』を確認し、その境界線と安全地帯を把握。安全地帯には手配した防水性能の高い衝立を遮蔽物として設置し、『被害』が及ばないよう配慮する。
「次は、簡易シャワールームの設置か。水はホースで引き込むか、又は汲み置きで代用だな」
ポロシャツにジーパンという、ラフな服装。思考を巡らすのは、たかだか遊びの延長ではあるが、彼の表情は依頼で敵対勢力と対峙する時のように真剣そのものだった。
ブルーシートや鉄パイプ、固定用クランプといった事前に用意した資材で手際よく囲いを作る夫を、百地・悠季(
ga8270)が事務所から見守る。
「思い返せば、このトマト投げを見聞したのは、時雨が産まれる直前の頃合だったのよねぇ」
予想通りの体調不十分で、せっかくのお祭り中に気を遣わせるのも忍びなく。もっぱら見学役の悠季は奮戦するアルヴァイムを娘と共に応援しながら、共有する時間を楽しむ。
「態々スペインまで行ったものだけど、それが今の時期に『ラスト・ホープ』で‥‥そう思うと感慨ものかしら。ねぇ、時雨?」
羽織ったグレーストールを肩にかけ直しながら悠季が話しかければ、一歳半になる愛娘は膝の上できゃっきゃと笑った。
●真赤な攻防
その日、鏑木 硯は空を飛びながら思った。
――口は災いの元だなぁ、と。
災いの発端は、注意書きにあった僅か一文。
トマトをトラックごと投げるのは、ダメだそうですよ‥‥なんて、つい彼女に言ったばかりに。
「さあ、硯、アンドレアス。先にトラックに投げ込まれたいのは、どっち!?」
「ま、待て待てっ!?」
勢い込んで袖をまくったシャロンへ、力いっぱいアンドレアスが頭を振る。
「硯なら、さっき投げ込んだだろうがッ!」
指差す先のトラックの荷台では、足が二本生えていた。
「あら。我ながら、いいコントロール♪」
トマトと間違えた。と言わんばかりに、ちらとシャロンが舌を覗かせる。
まぁ、硯だって現役能力者。荷台にはトマトが満載されているから、当たりドコロとかは大丈夫だろう‥‥たぶん。
「ふふっ、いっそイェーガーにならない?」
くすくすと笑いながら、ケイは次のトマトを握って潰し。
「あの‥‥手加減は、するんふがっ?」
「なっ、何も言ってないからなっ」
思わず確認したエリコの口を、とっさにアンドレアスが手で塞いだ。
「手加減なら、勿論。だけど‥‥全力がご希望なら検討するわ、アス?」
「相手は俺かよ!」
「折角だし、派手に行くわよ。‥‥子猫ちゃん達、アソビマショウ?」
問答無用でとびっきりの笑顔なケイに矛先を向けられ、慌てふためくアンドレアスを無責任に応援する狐耳尻尾付きが約一名。
「どちらも、頑張るのである〜!」
「‥‥羽矢子さん、羽矢子さん」
無邪気な様子を見ていた幸乃は、潰したトマトをおもむろに羽矢子へポイポイ投げて注意を引いた。
「ん? 幸乃も一戦、交えてみる?」
「いえ‥‥ちょっと提案が、あるんですけど」
視線で示す幸乃からの誘いに、驚いた羽矢子は目を丸くするが。
「いいねぇ。その話、乗った」
内容を聞けば、ニッと不敵な笑みを返した。
「此処で応援しておりますね。いってらっしゃいませ、レオンさま」
見学する海音から笑顔で見送られたレオンもまた、全力で童心に返っていた。
「――喰らえ! 必殺“消える魔トマト”!」
「消え‥‥ていうか、ソレ分解してるっぶあっ!?」
整備スタッフの一人が、潰し過ぎて空中分解したトマト片を綺麗に顔面に貰って沈む。
既に砕けているため物理的な破壊力はないが、精神的なダメージはそれなりにあるらしい。
「ほらイブン、突っ立ってると良い的よ♪ せっかくのお祭りなんだから、手加減せずどんどん行くわよー!」
「わぁっ!?」
「手加減しろってー!」
「な〜に、弱音を吐いてるの。女の子相手にっ」
イブン達にも、シャロンは容赦なくトマトを投げた。
エキサイトすれば、多少の『流れ弾』は生じるもので。
避けられて標的を失ったトマトの一つが、見物人達の方に飛ぶ。
「あっ、避けて‥‥っ」
見ていた足の悪いリックが声をあげ、運悪く放物線の先に立っていた海音は目をぱちくりとさせ。
「おぉ、シャッターチャンス!?」
反射的に(ガムテで)防水加工したカメラを向けた甚五郎の脇を、駆け抜ける影が一つ。
「俺の海音に、手ェ出すんじゃ無えぇぇ!!」
「あ、あの‥‥レオン、さま‥‥?」
聞こえた言葉に海音は頬を赤らめ、思わず口走ったレオンも気付いて赤面した。
「えっと、その‥‥だな。汚れなかったか?」
「はい‥‥」
「そっか。よかった」
身を挺して守った恋人が頷くのを確かめ、「気をつけろよ」と注意してからレオンは再び赤い激戦に戻って行く。
その横顔が赤いような気がしたのは、決してトマトのせいだけではないだろう。
気付いた海音は太陽を見るように目を細め、どんな時でもまっすぐで、一所懸命で、眩しい‥‥なくてはならない、大切な人の背を見送った。
「私の、独りよがりな気持ちかもしれないけれど」
普段は意識しなくても、気がつけばそこにあって。愛しい人を包み込み、癒す――穏やかな大気のような、そんな存在に自分がなれたら‥‥握った手を胸に当て、海音は願う。
「どうした?」
「いいえ。何だか、微笑ましいわねって」
初々しい恋人達にふと自分の記憶を重ね、悠季はお腹に手をやる。
これまでの『戦況』と個々の能力、それにアルヴァイムの判断を加え、娘や自身に『流れトマト』が飛び込む危険のない場所で一家揃って観戦していたのだが。
「この後もエスコート、『お父さん』は宜しくよ。2人目が出来たからね」
「二人目?」
「妊娠、二ヶ月なの」
にっこりと笑顔で報告する妻に、珍しくアルヴァイムは驚きの表情を浮かべた。
「そうか‥‥二人目、か」
驚愕の色はすぐ喜びに変わり、感慨深げに妻の肩を抱く。そこへ存在を訴えるように、父の膝で娘がぐずり始めた。
「あらあら。少し、落ち着かせてくるわね。泣くなら泣くで、発散したら寝るだろうから」
「ああ、任せる」
上品なフレアーシルエットに仕立てた七分袖ワンピースの裾を揺らして、娘を抱き上げた悠季が静かな事務所に向かうのを見送ってから。
懐妊を聞いた時とはまた別の嬉々とした顔つきで、ゆらりとアルヴァイムは席を立った。
「一緒に彼を、真っ赤にしちゃいません? お互い、あのきつねさんに色々と、振り回されている同士で、ね」
それが幸乃から羽矢子に持ちかけた、予想外な誘いだった。
「では、遠慮なく‥‥いきますよ、きつねさん」
「そーら、狐狩りだよーっ!」
「ちょ、ま、幸乃君に羽矢子君〜〜ッ?」
連携する二人に、肉体労働系ですらないティランが太刀打ち出来る筈もなく。
わたふたと逃げ回る狐尻尾を挟み撃ちにすれば、あっという間に障害物――トラックの傍まで追い詰められる。
「ほらほら。もう、逃げ場はないよ〜?」
「やっちゃって下さい、羽矢子さん」
「了解、幸乃!」
「うぴょあぁぁぁ〜〜〜っ!?」
そして、奇声が宙を舞う。
「わわっ、ティランさん!?」
毒喰らわばナントヤラで荷台からトマトを投げていた硯が、飛来する『物体』を反射的にキャッチしようとし。
ぐしゃもしゃだぷんっ。
トマト汁で赤いプールと化しつつある荷台に、二人して沈んだ。
「たっ、助かったのであ‥‥ぁぶあっ!?」
もがきながら顔を出すティランに、すかさず追い討ちのトマトが飛び。
「あはは。銀狐が、赤いきつねになった!」
「はい。いい感じに、赤いです」
荷台の縁に登った羽矢子が指をさして笑えば、楽しげ幸乃もこっくりと頷く。
「まだまだ、行くよっ」
‥‥今までのもやもやを、全てぶつける勢いで。
「のぉを〜〜っ!?」
女性二人からトマトを投げられ、わたふたするティランに改めて硯は思った。
――災いの元は口だけじゃないんだなぁ、と。
「エキサイト、してるなぁ」
「大人げなごぷっ!?」
しみじみと見るミシェルに笑ったニコラを、シャロンのトマトが沈めた。
「ニコラも油断大敵‥‥きゃあ!?」
予期せずベシャリと背中に広がる感触に振り返れば、後ろを取ったレオンが遠慮なくトマトを投げる。
「それは、こっちの台詞だぜ!」
せっかくの短い祭り、遠慮するよりも楽しんだ者勝ちと、無礼講状態でトマトが飛び交い。
「何だか、男性対女性の構図、かしら? いいわ、敵が分かり易い方が良いもの。それなら徹底的に潰すわよ」
先手必勝と仕掛けるケイに、トマトを喰らいながらアンドレアスも容赦なく全力で応戦する。
「えぇいっ。ティランもスペインのガキどもも、片っ端から喰らいやがれ!」
「にょぉぉ〜っ!?」
すっかり乱戦状態の中で、ぐにゃっとトマトでアンドレアスの肩を叩く者が一人。
「何か、トラックに投げ込むとか面白そうな話が聞こえたが」
「てめっ‥‥見学組だろうが、アルヴァイム!」
今さらトマトの感触の気持ち悪さなどはないが、予想外の『伏兵』に狼狽し。
「隙あり〜ッ♪」
楽しげな掛け声と共に、ぐるんとアンドレアスの天地がひっくり返った。
どぼんと、赤い水飛沫が上がる。
「今また、何か隠し味が加わったような‥‥? この、やわらか〜い★ お出汁が効いて、濃ゆくて美味しい♪ ‥‥と、トマト男汁‥‥もとい果汁を、視聴者プレゼント☆」
つい癖で、なにやら甚五郎が怪しげなセールストークを始めた。
「だぁーっ! そんなプレゼント、いらねぇから!?」
「いらっしゃい‥‥です」
赤い水を滴らせながら飛び起きた友人を、苦笑しながら硯が迎える。
「くっそ。アルヴァイム、お前も喰らえー!」
かなり減ったトマトを掴み、ぶんぶんとアンドレアスは見境なく投げ始めた。
混沌とした馬鹿騒ぎの中、老チーフはおもむろに時計を確認する。
「そろそろだな。頼めるか?」
「了解ですっ」
流れトマトに当たらないように気をつけつつ、庫内の施設に被害が及ばないか気にしながら、楽しそうな者達を見物していたレーゲンが手を挙げて応えた。
駆け足で扉の外に出ると、持ってきた花火に火を点け。
祭りの終了を告げる炸裂音が、格納庫に響いた。
●祭りの後
「あら、もう終わりね‥‥残念」
名残惜しそうにケイが構えを解き、赤い水の滴る黒髪をかき上げる。
三台分のトマトはほぼ消えたか、荷台でプールと化していた。
「ケイさんやシャロンさんの猛攻もあって、ここから脱出できませんでしたよ」
よいせと荷台から降りた硯は歩み寄るシャロンをまじまじと見つめるも、はたと我に返って目をそらす。
前回で慣れたと思っても、濡れたTシャツに透ける水着や女性的な曲線は気になってしまうもので。
「えっと‥‥」
「硯、本当に、ありがとね」
彼の頬に手を添え、問答無用でトマト味のキスを贈った。
「こりゃあ‥‥」
みせつけてくれると羽矢子が幸乃に視線を送って苦笑し、ミシェルらは口笛を吹いて冷やかす。
「アスさーん! 幸乃さんも!」
「おい、汚れるぞっ?」
駆け寄ったレーゲンはトマト塗れも気にせず、次々と友人達に抱きついた。
「‥‥あの。ええと。デラード軍曹と、その。婚約、しました」
「そうか。よかったな!」
「おめでとう、ございます‥‥」
照れくさげに報告したレーゲンは、ずっと心配してくれた優しい友人に微笑み。
「ありがとうございます。幸乃さんにも、たくさん幸せになってほしいです」
励ますように、ぎゅっと抱きしめる。
「うん。あの男にはこれでもかっ! ‥‥ってくらい言ってやらないと、特別にはなれないよ。fight!」
同じ相手に心を寄せた彼女を、羽矢子もまた応援した。
「羽矢子さん‥‥」
「その、ね‥‥気付いてたんだ。コルシカの少女の家に行かなかった時、あたしとは違うんだなって。そんなティランだから好きになったけど、あたしが進む道は彼と一緒には歩けない」
複雑な表情の羽矢子は、トラックの荷台から降りるのに苦戦するティランを眺める。
「そして、ティランの隣に寄り添う幸乃はぴったりしてて、とてもお似合いに見えて。少し妬けるけど、二人が幸せになってくれるならいいかなって」
胸の内に仕舞っておいてもよかったのだが、明かす彼女に幸乃はぺこりと頭を下げ。
「‥‥アメリカのこと。宜しくお願いします」
北米軍に入隊した羽矢子へ、故国を託した。
「さて、身体を洗うならシャワーを使え。着替えも用意してある」
「さすが、周到だな」
アルヴァイムにアンドレアスが感心し、レーゲンもこくこくと頷いた。
「後片付けもしっかり、ですね!」
「借りてきたのだよ〜っ」
子供らと一緒にホースを持ってきたティランに、ぽむとレーゲンは手を打ち。
「ティランさんは、すごいひと! 覚えてますです。尊敬なのですよ」
「ほ?」
レーゲンが覚えているのは『技術的にすごいひと』という意味だったが、そうと知らぬティランは突然の事に目を点にする。戸惑う本人をよそに、ほんわりとレーゲンが笑んだ。
「模型とオルゴールの方ですよね。いつか、また見学に行きたいです」
「おぉ! いつでも、遊びにくるといいのだよ〜」
ようやく意図を理解したのか、こくこくとティランも頷き。
その横合いからバシュッと、水が浴びせられた。
「あぶぁ〜〜っ!?」
「トマトまみれの真っ赤な人は、どこかな?」
いつもより楽しげな幸乃が、すっかり赤くふやけたティランや友人達に水を撒く。
「それを言うなら、幸乃さんもですよ!」
レーゲンもまたトマトだらけの幸乃へホースを向け、あっという間に水の掛け合いが始まった。
「賑やかというか、まるで子供だな」
「ぬくい言うても4月。どなたさんも、風邪ひかんよう」
コールを伴って訪れた老婦人は『大きな子供達』に微笑み、頭からタオルをかけたケイが気付いて駆け寄る。
「奥様ご無沙汰してます、ケイです。お元気かしら?」
「ええ、前にうちへも遊びに来てくれはった別嬪さんやよね。お陰様であの人共々、あんじょうさせてもろてます」
小柄な老チーフの夫人が丁寧に頭を下げ、表情を綻ばせたケイも一礼した。
「お腹も空いたやろうし、ようけ食べて下さいな」
「私も桜の練りきりを持って参りましたので、奥さまも是非」
ふわりと笑んで海音が菓子を提供する。
「あらあら、春らしゅぅて可愛らしい。おおきに」
「いえ。レオンさまからは、生ハムもありますので‥‥」
散々っぱら遊んで腹の虫を鳴かせている整備スタッフ達が、手を止めてやり取りを眺め。
「こぉら、何をしとる! 片付けるまでは飯抜きだぞ」
「す、すぐにー!」
老チーフに叱られると駆け足でモップがけを再開し、参加者達も笑いながら掃除を手伝った。
「ご苦労様。もっと悲惨な様相になるかと思ったけれど」
やがて事務所へ戻る者達を、微笑む悠季が迎える。
「誰かさんは、悲惨だったかもしれないわね」
「楽しかったよー! ね、幸乃」
面白そうにケイは意味深な返事をし、目配せをする羽矢子に幸乃も「はい」と頷いた。
「後は、速やかに片付いたからな」
答えたアルヴァイムは身を屈め、母に抱かれて眠る娘の様子を窺う。
「こちらも、大人しく寝たか」
「終了の花火で泣き出したけど、今は大丈夫よ」
「そうか‥‥何か欲しい物があれば、言ってくれ」
立ち動かずにすむよう悠季をいたわってから、アルヴァイムは用意した果実や野菜チップス、そしてスポーツドリンクを取り出した。
「今日は、ありがとうございました。あと、それから‥‥」
UPC軍に入隊後、KVの整備を学ぼうと志すレーゲンは、今後も世話になるであろう整備部の面々に、これまでの礼と挨拶をする。
「今後も色々と、ご指導よろしくお願い致しますですっ」
深々と一礼する彼女に、渋面の老チーフは刻まれた皺を一層深くした。
「もし片手間程度にと甘えた事を考えておるようなら、傭兵でも放り出すからな。なにせボルト一本にも、乗る者の命がかかっとる」
「はいっ、心します」
気を引き締めた表情でレーゲンが即答すれば、「なら、後は言わん」と老整備士は素っ気なく踵を返す。
言い方は荒っぽいが彼なりの激励に、丸い背中へもう一度レーゲンは頭を下げた。
「悪ぃ、待たせたか?」
簡易シャワーでトマトを洗い流し、さっぱりとしてレオンが戻ってくると、気付いた海音が駆け寄ってきた。
「海音?」
じぃっと黒曜の瞳で見つめる恋人に首を傾げれば、彼女は彼の胸に手を置いて寄り添い。
「レオンさま。私、『川畑海音』になりたいです」
「か‥‥ッ!?」
周りには聞こえぬが、告白ははっきりとレオンの耳に届いた。
予期せぬ事態に何か言わねばと口を開いたものの、愛しい名すら発する事も出来ず。
耳まで赤くなったレオンはひとしきり狼狽してから、やっと言葉を繋いだ。
「‥‥お、俺みたいな歌う事しか脳の無い馬鹿なんか選んじまって、本当に良いのかよ?」
じぃっと彼を見つめる海音は、小さくだがこくりと確かに頷く。
「ずっと、お傍に居ます。私は‥‥レオンさまのお傍に寄り添って、お支えしたいです」
彼の姿を追いながら、長らく胸に秘めていた思いを口にした。
「海音‥‥」
自分を見つめる青い眼差しが揺らぎ、彼女の名を呼んでからレオンは続ける。
「ゴメンな?」
つきんと、胸の奥が痛んだ。
何故、謝るのか‥‥分からず目の前が真っ暗になり、胸に置いた手をきゅっと握り。
倒れそうな海音を力強い腕が支え、ぬくもりが彼女を包み込む。
「ゴメン、海音の方から言わせちまって‥‥本当は、俺の方から言わなきゃいけないコトだったのに」
「レオン、さま?」
「俺も言いたかったんだ。海音に、ずっと」
ばくばくと、鼓動が激しいリズムを刻む。
その動悸で自分の声さえもかき消されそうな気がしながら、腹に力を込めたレオンは想いを大声で告げる。
「――俺も、海音の事がずっと好きだ。世界で一番大好きだ‥‥!!」
「ありがとう、ございます‥‥!」
結んだ想いに、ふっと海音の視界が滲んだ。
ほどけた不安と溢れる嬉しさで、後から後から涙が頬を零れ落ち。
「明日っからは『川畑海音』だ。川畑なんてダセェ苗字、やっぱ辞めた! ‥‥なーんて言っても、もう手遅れだぜ?」
指で拭いながら問うレオンに顔を上げた海音は、これまで見た中で一番の微笑みを返し。
背伸びをして、彼女から唇を重ねた。
交わす口づけに――なによりの返事に、ニッと彼も屈託のない笑みを浮かべ。
「きゃ‥‥!?」
前触れもなく、ひょいと海音をお姫様抱っこする。
そしてそのまま深呼吸をすると、歌い出す。
溢れる感情の、迸るままに。
さながら、狼が遠吠えをするかの如く。
『 雲は高く 夢は遥か
希望は胸(ここ)に 願いをのせて
自由な空 自由な世界
笑っていこう この青い地球(ほし) 』
耳へ届く歌に、羽矢子は手を止めた。
聞き覚えがあるそれは、いつかの依頼で求められた「希望の歌」に到るフレーズだ。
『 受け継いでた 強い力
心の中そっと 魂で照らせ
何を求め 何を賭ける
現実(いま)を作り変えて 真実(あす)へ歩き出せ 』
突然の事に驚いていた海音の表情は、すぐに戸惑いから楽しげな笑顔に変わり。
吼える歌へ寄り添うように、伸びやかな澄んだコーラスを重ねる。
‥‥出逢いも未来も、共に歌で紡いでいけるよう。
『 Catch the Sky 掴んだ空へ 羽を伸ばし
誰もが持ってる すぐそこにある勇気
絶望の暗い雲に覆われても
夢を持って飛ぶよ 希望の青空へ 』
小隊【lilaWolfe】で一緒に戦った海音と恋人の姿を、レーゲンも微笑ましげに見つめ。
硯もシャロンと共に、耳を傾けていた。
『 NEW HOPE for the WORLD 永遠に 』
歌が終われば、格納庫に拍手がこだまする。
すっかり場所を忘れていた二人は互いに顔を見合わせ、顔を赤らめた。
「お幸せに、なのだよ〜!」
プロポーズの場に居合わせたティランのはしゃぐ横顔を見て、幸乃は濡れた頭へタオルをかける。
「おつかれさまです」
「幸乃君も、お疲れさまである〜。すっかりお腹も、空いたのだよ」
ねぎらいの言葉を掛け合い、正直に明かす相手に幸乃は微笑んだ。
「全部終わったら、また静かな‥‥今まで以上に静かな空間に、なるのかな。格納庫も少し、寂しくなるんでしょうね」
和やかに取り皿やグラスなどを用意する様子を、二人は並んで少しの間眺める。
「幸乃君は、楽しかったであろうか?」
「はい。とても‥‥、くしゅんっ」
幸乃が小さくくしゃみをすれば、ティランはかけてもらったタオルの端を取り、くしくしと濡れた黒髪を拭いた。
「なら、よかったのだ。後は風邪を引かぬよう、注意なのである」
「そうですね」
気がつけば、何だかいつもより沢山笑っていたような気がして。
それから普段より間近にいる相手を見て、ふと気付く。
先日の返事は、彼の口から直接聞いていないが。
「‥‥ティランさん。ずっと傍に‥‥私の隣に、いてくれます?」
「勿論なのだ」
返事は満面の、子供のような無邪気な笑みで。
それから、ぽふぽふと幸乃の頭を撫でる。
――ああ。この人は、不器用なんだ。
普段から賑やかなので気付きにくいが、言葉に対して言葉で返すより先に、感情や行動あるいは距離に気持ちが出るのだと。
今も、ちゃんと傍にいてくれる‥‥それが彼なりの、『返事』なのだろう。
「ところで。お邪魔しますかもしれませんが、束の間の馬鹿騒ぎの恥ずかしい写真でも‥‥如何です?」
「のをぁっ!?」
突然に甚五郎から声をかけられ、わたふたとティランが慌てふためく。
「し、写真であるか?」
「よく、撮れましたね‥‥」
「カメラは完全防水状態でしたから。ガムテで!」
ガムテを強調しながら、専用のプリンターで焼き増しした写真を甚五郎は手渡した。
「希望があれば、後でちゃんとした記念撮影もしますが。数年の後‥‥往く人、再会する人、出会う人の思い出の一片になれば幸いです」
ああ、それから‥‥と思い出したように、なにやら赤い液体の入ったビンを取り出す。
「後は記念に、本日特製の、この、男汁を!」
「ソッチは遠慮しておくのだーッ!」
「さぁさぁ、遠慮せず!」
がたぶると首を横に振るティランと、呆気に取られた幸乃へ問答無用でビンを押し付けた甚五郎は、意気揚々と次の『標的』へ向かった。
しげしげと観察する幸乃がビンの底に貼られたガムテに気付き、剥がしてみれば。
普通に『ラスト・ホープ』で売っている瓶詰めトマトジュースのラベルが現れ、思わずくすりと彼女は微笑んだ。
手まり寿司や煮物などの料理に、サンドイッチや果物など、祭りを楽しんだ者達は歓談しながら遠慮なく用意された軽食や菓子に手を伸ばす。
事務所で賑やかな様子を眺めていたコールは、煙草を取り出し。
そこへ横合いから、火の点いたライターが差し出された。
「‥‥すまないな」
「いいや」
煙草をふかすのを確認してからライターを閉じたアンドレアスは、トマト投げの間に外していた銀のアクセをじゃらじゃらと付け直す。
「せっかくの祭り、あんたも参加すりゃよかったのに」
そうすりゃ、トラックの荷台へ放り込めたのにと、口惜しそうにアンドレアスがぼやく。
「これだけの大人数分の軽食、老婦人一人に作らせて、運ばせる訳にもいかんだろうが」
「そりゃ、そうだけどよ」
何気なく煙草を吸う仕草を見つめていると、コールは箱を彼へ向けた。
僅かに逡巡し、有難く一本を抜き取り、火をもらう。
「格納庫内は禁煙だからな」
「ここで、ヤニを詰めてくってか?」
喉の奥でくっくと笑ってから、アンドレアスも紫煙を吐いた。
ハムを取り合ったり、スポーツドリンクを飲んだりと、ガラス越しに繰り広げられる光景をしばし無言で眺め。
眺める者達に気付いたニコラやエリコが手招きをし、しょうがないといった風にコールは灰皿へ煙草を押し付けると扉へ向かう‥‥その背に。
「‥‥いつか、また、何処かで」
ぽつと、アンドレアスが零した。
いつも通りに過ごし、別れるつもりだったが、結局は我慢しきれずに。
「全部良くなるとは言わねぇ。お前よりうまくやれるとも言わねぇ。でも、大丈夫だ‥‥たぶん。だから、任せろ」
言葉はなく、ひらと背中越しにコールは片手を挙げる。
だが『保護者』だけでは気がすまないのか、少年らは身振り手振りで彼も呼び。
観念したアンドレアスは大きく煙を吸い、吸殻の残る灰皿へ煙草を突っ込んでから事務所を後にした。
――騒々しくも愛しい馬鹿騒ぎの輪の中へ、還るために。