タイトル:Heavenly Songマスター:藤山なないろ

シナリオ形態: ショート
難易度: 普通
参加人数: 6 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2011/04/25 21:44

●オープニング本文


 響け。伝え。空より遠く。
 奏でる音色は、天より高く───

●Einsatz
 今年も、あの季節が来る。
 ずっと遠く、雲より空より高い所まで繋がる際限ない青空。
 山の白もゆるりと溶け行き、本来の青々とした色を少しずつ取り戻してゆく。
 一面の芝も、太陽の光を浴び、目に痛い程の鮮やかさで存在を主張する。
 美しい花々は暖かい陽射しの中で咲き乱れ、柔らかな風が花弁を撫で、柔らかな香りを運ぶ。
 香りに誘われた虫たちも、小気味良く羽音を立てて舞い踊る。
 全てが生の喜びに満ち溢れる季節。

「ジル、お帰り。また少したくましくなったんじゃないか」
 訪れた教会。
 今まさに燭台の蝋に火を灯そうとしていた歳老いた牧師は、柔らかな笑みを浮かべた。
 時刻は、夕暮れ。
 この時間になってまだ月が輝かない事について、随分日が長くなったものだと、ジルはどこかぼんやり考えていた。
「傭兵の仕事は、大変だろう」
 現れる深い皺。浮かぶ悲哀の色。
 牧師は手元の火を蝋の先端に分けると、ゆっくりとジルの元へと歩む。
「そう‥‥なのかな。どうだろう、わかんない」
 どんな仕事にも貴賎などなく‥‥等と言う意味では無く。
 単純に、分からなかった。
 ジルは、自分自身が傭兵としてきちんと務めを果たせているのか。
 それすらも、分からなかった。というより、分かりたくなかった。
 というのも、自分は課せられた任を果たせていない、という自責や負の認識が強くあった為だ。
「また、春が巡ってきた」
「うん」
 出会いと別れの季節とはよく言ったものだが。
「もうじき慰霊祭だ。今年も‥‥手伝っておくれ」
「‥‥うん」
 ジルにとって春は「別れ」の季節でしかなかった。

●Glissando
 オーストリアの首都であり、そして音楽の都と呼ばれる街、ウィーン。
 多数の音楽学校を始め、世界きっての名門オーケストラや国立歌劇場を擁するこの街は、音楽と切っても切り離せない関係にあった。
 音楽のみならず、全ての芸術家を国を挙げて支援するその国柄や姿勢は、まさに芸術家たちのユートピアでもある。
 その街に、ある年、一人のソプラノ歌手が生まれた。
 奏でられるリリック・ソプラノの抒情的な様。
 軽やかで心地の良い高音が、聴く者の耳も心も掴んで離さない。
 熱狂的なオペラファンによる支持もつき、現役時代はフルートにすら匹敵する最高音域までも奏で、様々な役を歌いこなした。
 ‥‥素晴らしい、歌手だった。
 だが今では、その人物もジルの目の前の慰霊碑に名が刻まれるのみ。
『今年の慰霊祭まで、あと少し。その前に一度、ご挨拶をしてきたらどうだい』
 牧師の提案もあり、ジルは今、ザルツブルグのとある音楽学校跡地に足を運んでいた。
 そこは、今や音楽学校の名残りはなく、生々しい戦火の痕がコンクリートで蓋をされたようにも見えた。
 中央、台座の様に盛り上がったその上には高さ2mほどの慰霊碑。
 そこにはたくさんの名前が刻まれている。
 音楽の道を志した前途ある若者たち。そして彼らを指導する熱心な教育者たち。
 ここで亡くなった人々の命を、いつまでも弔い続けるように、慰霊碑は静かに、そこに在り続けていた。
 冷たい石碑にそっと触れ、指先で刻まれた名を辿る。
 失われたものの大きさを嘆きながら、慰霊祭の為に粛々と用意をする現地関係者を横目にジルはその場を後にした。

●Konzert
 ザルツブルグの慰霊祭に出席をするまで、まだ少しの猶予がある。
 ジルはそこにただ立ち止まっている訳にも行かず、一度ラストホープに帰還を果していた。
 あの沢山の人々の眠りを思えば、自分に出来る事を探さずにはいられない。
 ただ、1体でも多くの侵略者たちを屠る。
 腰に収めた輝剣の重みを感じながら、ジルは本部へと足を運んでいた。
 スケジュールに見合う依頼を探そうと受付に顔を出した所、馴染みのオペレーターが慌ただしくしているのが見える。
「‥‥バニラ? どうしたの?」
 バニラと呼ばれた少女は忙しなく動かしていた両手を止め、声の主の方を振り返る。
「ジルちゃん! えと、あのね‥‥」
 驚いたような表情で最初こそとまどっていたバニラだが、考えあぐねている時間が惜しいとばかりに出力された真新しい資料をジルに手渡した。
「ジルちゃん、オーストリアの出身‥‥だったよね?」
 資料と同時に添えられた言葉が心に突き刺さる。
 ザルツブルグ。音楽学校跡地。双頭の大鷲。複数名の犠牲者。
 並ぶ文字列は一度だけでは現実味に欠け、二度目に目を通した時、資料の内容をようやく理解した。
「え、待って。ジルちゃん!!」
 ジルは、バニラの声も聞かずにその場を飛び出していた。
「早く他の同行者さん、集めなきゃ。‥‥けど。それにしてもあの子、ちょっと様子おかしかった気が‥‥」
 いくら故郷の依頼と言えど、あまりに余裕のない表情が気にかかる。
 芽生えた不安を押しつぶすように、バニラは本部へ依頼を掲示した。
「‥‥どうか、皆が無事に帰ってきますように」
 小さな祈りは、青い空へと昇って消えた。

●参加者一覧

時枝・悠(ga8810
19歳・♀・AA
シャーリィ・アッシュ(gb1884
21歳・♀・HD
愛梨(gb5765
16歳・♀・HD
イレイズ・バークライド(gc4038
24歳・♂・GD
寺島 楓理(gc6635
26歳・♀・HA
緋蜂(gc7107
23歳・♀・FT

●リプレイ本文

●ザルツブルグへ進路をとって
 時枝 悠(ga8810)は一人、後方の座席に座り、窓から眼下の雲を眺めていた。
 はるか過ぎゆく雲の影が、通り過ぎてきた人々の姿にリンクして。
 けれど胸に痛みを感じる間すら与えられずに、雲は儚く空の青に溶けてゆく。
 大切な人を亡くした時のあの感覚も、もう随分と磨り減って。
 日々伝えられる犠牲者の情報も、もはやただの数字としか認識できなくなって。
 ふと、悠の脳裏によぎった気持ちは、何だっただろう。
(こういうのを、寂しいと言うのだろうか)
 帰結した想いを押し込めるように、気丈にも悠は首を横に振った。
(‥‥くだらない事を考えてないで働け私)
 悠の瞳に良く似た青い空から視線を外すと、拳を握りしめ、叱咤するようにその拳で膝を一度だけ叩く。
 華奢な少女の手はいつしか刀を握る凛々しい手に成長し、握る武器の形に合わせて少しずつ骨格も皮膚も形を変えてゆく。
 その手に、その背に、背負うもの全てを「なんでもない」と言い聞かせるように、少女は瞳を閉じた。
「守るものを守り、壊すものを壊す。いつも通りだろ、何もかも」
 呟きは誰にとも知れず。そして少女は再び瞳を開ける。
 ‥‥その手に、武器を握りしめて。

「このタイミングの悪さ‥‥しくじったな‥・」
 大規模作戦最終フェイズ。
 戦果と引き換えに大きな傷を負い、艇内で安静にしていたイレイズ・バークライド(gc4038)の元へ、ジルが現れる。
 青年の様子に痛ましい表情を浮かべた少女にイレイズは苦笑いを浮かべた。
「重体ゆえ、無理をせずにやるしかないな」
 ふと、ジルはどこかイレイズが以前と違うように見えた。
 確かに、長く光の様だった金糸が短く切り落とされていたが、それだけでなく、より研ぎ澄まされたような印象を受ける。
「ん‥‥あたしも、サポートするよ」
 イレイズが事前にバニラに聞けたのは、ジルの様子と故郷の事のみ。何らか切迫した様子の少女を見てイレイズは息を吐く。
「襲撃を受けた場所と何か関係があるのか?」
 この少女には、これ位真直ぐに言わなねば伝わらないと、青年は良く知っていたのかもしれない。
 ハッと見開かれた瞳はどこか不安げな色をしていた。
「‥‥あのね、あの場所は‥‥」
 ジルが何かを伝えようとした時、鳴り響く到着の報せ。艇内放送が着陸を告げる。
「これだけ言っておく。‥‥妙なことに気を回すな。共に行く仲間を、信じろ」
 少女は、小さく首肯した。

●Doppeladler ─双頭の鷲─
「こんちゃーっす、楓理は寺島楓理よろしーくナリ」
 着陸後、高速艇を降りる傭兵達を、最初に下船した寺島 楓理(gc6635)が人の良い笑顔で出迎えた。
 しかし。
「早速だけど、あれ、今回の標的なんじゃない?」
 小さくため息をつく愛梨(gb5765)が指差す先、そこには怪鳥と呼ぶに相応しい双頭の大鷲の影が見えた。
「嘆くのも祈るのも後、ですね。まずは‥‥」
 敵影を認めたシャーリィ・アッシュ(gb1884)は、両肩に赤龍の描かれた真白きミカエルに身を包んだ。
 戦乙女の模られた鍔を持つ剣が、その透き通る銀の刃を陽の下に晒す。
「私の剣は奪うためではない。‥‥守る為のもの‥‥もう一度、確かめる‥‥!」
 現れる覚醒の証。シャーリィの背から深紅の竜翼が現れ、敵を迎え撃たんと駆ける。
「皆の思いのこもった慰霊祭‥‥邪魔はさせません」
 後衛を囲むように位置した前衛達のうち、緋蜂(gc7107)はその背にジルや楓理を守るようにセリアティスを構える。
 現在目視で確認できた1頭の大鷲以外、周囲に敵の気配がないか入念に確認を行う緋蜂を横目に、悠が飛び出す。
「無理するなよ。誰とは言わんが」
 特定の人物に視線をくれるでもなく、悠はオルタナティブMを手に、空を舞う異形へと照準を合わせた。
 覚醒変化により黄金に染まる左眼が‥‥半身に浮かぶ翡翠の光が、一際輝きを放つ。
 飛来するそれを捉えた時、弾丸は放たれた。
 悠の一撃は見事その翼を撃ち抜き、同時に衝撃でバランスを大きく崩した鷲はその巨体のまま大地へ落下。
「当たらなくても良かったが、好都合‥‥だな」
 悠が凋落する鷲へと接近を開始すると、同時に緋蜂から声が上がった。
「2体、急接近! 構えろ、この場で撃ち落とす」
 緋蜂の警鐘を受け、イレイズも御陣形を発動。
「俺が言えた義理ではないが‥‥余り無茶をするな」
 周囲の全ての傭兵に、今出来うる最大限の支援を送る。
 支援は身体の底から湧きあがる力となって溢れ、それを受けた炎のように赤く染まった緋蜂の髪が、軌跡を残してその場から消えた。
「覚悟しな、蜂が鷹を落とすぜ!」
 接近する大鷲に対し、緋蜂はスコーピオンの銃口を向ける。
 射程40m。決して余裕のある距離ではないが、ただ攻撃されるのを待つより、余程好戦的でいて、今の緋蜂に相応しい。
 距離=射程。
 瞬間、緋蜂の自動小銃から次々と弾が射出される。撃ち落とす事はできなかったが、十分だった。
 後方から、歌が聴こえる。
 寸での距離、武器を持ちかえた緋蜂の眼前で巨体がぐらりと均衡を崩す。
「おいおい、食う立場だろ? もっと頑張れや!」
 緋蜂のセリアティスが、鈍い音を伴って双頭を穿ち抜いた。

「‥‥跳びます。叩き落すので処理をお願いします」
 驚くジルを斜眼に見て、シャーリィは竜の咆哮を込めた剣で地を叩きつけた。
 瞬間、AU−KVを纏った重量のある体から放たれた一撃は、能力者のパワーと相俟って、大地に衝撃を走らせる。
 それは地面を揺らし、埋め立てたコンクリートに大きな亀裂を生じさせた。
 当初は『足』で使用するつもりだったが、竜の咆哮は武器攻撃が命中した際に発動する能力。
 仕方なく武器での使用に切り替えたのだ。
 地に衝撃を当て、反動で体を浮き上がらせる算段だったが、しかし。
 衝撃が最初に地に当たった時点で1つ媒体を介す事となり、ストレートに咆哮の威力を自身の身体へ伝える事が出来ず、威力は半減。
「くっ‥‥」
 思う様に飛べなかったシャーリィだが、着地後、再び剣を構える。
 彼女目掛けて、大鷲も既に間近だ。そこへ響く軽快な楓理の声。
「そんじゃ、ゴールデンスランバーいってみっか」
 それは黄金のまどろみ。古くからある、子守唄。
 楓理から奏でられる歌は、眼前の怪鳥の思考を緩やかに停止させ、双頭はややあって長い首をうなだれた。
「頭が2つ在ったって、鳥頭じゃなんにもなんねぇよ!」
 笑う楓理が目配せするのはシャーリィ。
「この襲撃で亡くなった人たちの為にも‥‥やらせるものか。ここで、朽ちろ!」
 ワルキューレが陽の光を受けて、輝きを増す。
 その刀身は大鷲の胴部に食らいつき、躊躇いなく両断する。引き裂いたそれを見下ろして、シャーリィは小さく息をついた。

 一方。
 初手で撃ち落とした鷲が地に落ちてくるのを見計らい、悠の持つ紅炎からSES排気音が高まる。
 甲高い音を発するそれと同時に、薄く発光する悠の身体から途方もない力が溢れた。
 接近し、駆けあがる様に、跳躍する。
 その先に完全に大鷲の姿を捉えた悠は、紅炎の刃を振りかぶった。
「遠慮無く油断無く容赦無く、膾に刻んで狗の餌、だ」
 驚異的な破壊力を持つ天地撃が、2つの頭をいとも容易く叩き斬り、そのまま胴部は首から上と分離しながら大地へと叩きつけられた。
 亀裂の奔ったコンクリートに、更なる衝撃が加わる。そして‥‥
「!!」
 更なる亀裂が台座に刻まれ、大きく傾いた慰霊碑を目にして、ジルが走り出した。
 傍に居たイレイズも、防御陣形によって行動力が尽きた状態では止める事は叶わなかった。
 発作的に走り出した少女の背に、残る1頭の大鷲が目をつけた。
「‥‥ったく、世話が焼けるわね!」
 いち早く気付いた愛梨が、その場で竜の翼を発動。そのままジルと大鷲の間に立ちはだかり、薙刀を構え、振り抜く。
 炎のような刀身が描いた太刀筋に咆哮をのせれば、一撃は衝撃となって大鷲を強く弾き飛ばした。
 愛梨は油断なく大鷲へ接近し、敵が態勢を整える前に更なる追撃を食らわせる。
 翼を裂き、嘴を割り、そして‥‥胸部への研ぎ澄まされた一撃は、確実に眼前の敵を屠った。
 全ての敵影が、沈黙。
 だが、愛梨は表情を緩めることはなく、つかつかとジルの元へ歩み寄ると、その腕を強く掴んだ。
「聞くけど。あんたは何のために傭兵になったの? バグアを倒すため? 誰かを守るため?」
 愛梨のアンバーライトがジルの瞳の奥を見透かす。
「‥‥どっちでもいいけどさ。でもあんた、1人で戦うつもりなわけ?」
 そこまで告げた後、愛梨は一呼吸置くと勝気な瞳をほんの少し緩めた。
「できない事は仲間を頼ればいい。‥‥自分の弱さに、打ち勝ちなさい」
 本来の、少女らしい表情が僅かに戻ってくる。
 ぶつけられる正論に何も言えずにいたジルも、静かに愛梨の言葉に耳を傾けた。
「焦り、不安、無力感‥‥それは誰にでもあるわ。それに、別件かもしれないけど‥‥バグアに対する怒り、失った悲しみも、あんただけのものじゃない」
 訥々と、自分の心情も反映するように、愛梨は自身の深層に潜む言葉をそっと取り出し、諭すようにジルへ言う。
 少女の言いたいことは、つまり。
「思いや痛みは、共有できるはずよ」
「‥‥ありがとう。ごめんなさい」

●全ての亡き魂に捧ぐ
 戦いの傷を色濃く残すひび割れ隆起したコンクリートは、傭兵達が迅速に敵を排除した為に当日の内に補修工事が開始された。
 かくして、予定していた慰霊祭は無事開催の運びとなる。
 音楽学校跡地を覆うコンクリートの上、慰霊碑前には純白の献花台が。
 そして、慰霊歌を奏でる聖歌隊の為の質素なステージが用意された。
 歌は取り残された人々の心を慰め、癒し、そして明日へ立ち向かう力をくれる。
 願わくば、この痛みがこれより多くの人々へと感染せぬように。人類の明日が、希望に満ち溢れますように。
 歌声は、祈りをのせて、空高く舞い上がる───。

 ある祈りは、ここに眠る全ての魂へ。
 緋蜂の燃えるような赤髪が、風になびく。
 慰霊歌に応えるように吹く暖かく優しい風は、空が遣わした返事のようで。
 献花台に手向けた花に視線を落とし、緋蜂は胸に手を当てた。
 捧げられる黙祷は、此処で失われた人々の命に対するもの。
「‥‥歌われないのですか?」
 緋蜂の視線は先の聖歌隊に向けられており、それを察したジルは何かを言おうとして、上手く言葉にならず口を閉じた。
「今日の戦いは、終わりました。それに、私以外にも貴女の歌を聞きたい人はいると思います」
 決して逃げることなく正面から紡がれる緋蜂の気持ちを、ジルは少しずつ、端から全て受け止めようと考えた。
「ありがとう‥‥行ってくる」
 小さく頷いて。はたとジルは気付いた。
「‥‥緋蜂も、行く?」
 控え目な誘いに少々苦笑を浮かべた緋蜂。
「私は‥‥あまり歌を歌ったことが無いので遠慮したいです」
 一瞬だけ、寂しげな表情を見せたジルの肩に、緋蜂の手が触れる。
「ですが‥‥ジルさんに誘われたら考えなくも無いですね」
 くす、と笑みをこぼす緋蜂の手を、ジルが両手で握りしめて引いた。

 ある祈りは、唐突に奪い去られた命へ。
「音楽学校跡地‥‥か」
 愛梨は一人、慰霊祭開場より離れた所から彼の地を踏みしめていた。
 愛梨自身もカンパネラ学園生であるが故に、此処に在ったとされる学校の校舎を、集っていたであろう無限の可能性を持つ生徒たちの事を‥‥自分に照らし合わせては、唇をきゅっと結ぶ。
 失われた命が戻らないことを、愛梨はこの歳にして苦しい程に理解していた。
(お母さん‥‥)
 決して表に出すことはない感情が。
 そして、かつて愛梨が普通の少女だった頃‥‥力を持たずにいた頃、母を失った記憶が心中に去来する。
 けれど。
(‥‥今は違う)
 二度三度、かぶりを振った愛梨は、いつもの大人びた強い眼差しをしていた。
(守る力がある。守りたい人がいる。だから‥‥)
 愛梨は離れたその場所から、小さく祈りを捧げた。
 ───どうか、これ以上の悲しみを生まぬよう。

 また、ある祈りは、遠い記憶の中、対峙した存在へ。
 白百合のような風貌の少女‥‥その、剣を握るにはあまりに白く整った指先が献花台に花を手向ける。
 慰霊碑の前、ゆっくりと深呼吸をしてシャーリィは石碑の名に目をとめる。
 自然に合わせた両手。指を折り重ねて、ここに眠る人々へと強く強く祈りを捧げる。
 そこへ、頭によぎったのは一人の少女の姿だった。
 極北の地の事。どうしようもなかった。どうにもならなかった。しかし。
(自分が殺したも同然の‥‥)
 あの少女の姿が、シャーリィの網膜に焼き付いて、離れなかった。
 どうか、祈ることが許されるのならば。
 乙女の祈りは、そうして空へと昇りゆく。

 そして‥‥ある祈りは、大戦に命を賭した英霊へ。
「どうしてだろうな。楓理の憧れとか小隊長は死んじまうんだよ」
 奏でられる歌に耳を傾けながら、楓理は慰霊碑の前にいた。
 花を手向けるでもなく、睨むようにして見上げた石碑を通して彼女が見ていたものは、先の大戦の記憶。
「もっと、生きてて欲しかったのによ楓理は‥‥」
 思い出すあの日、あの時のことを。届かなかった両腕を。
 心の奥底を突き刺し続ける喪失の痛みをかきむしるように、楓理は手を胸に当てた。
「どうすりゃいいんだよぉ‥‥ッ!」
 楓理はただ、泣きながら叫ぶ。
 けれど、決して何かにすがるでもなく。崩れ落ちるでもなく。
 自らのその足で、楓理は立ち尽くしていた。
 ややあって。深呼吸をした楓理の顔に、もう涙の雫は見えなかった。

「ジル」
 楓理は聖歌隊の撤収を待って、少女を引きとめた。
「‥‥あんま背負い過ぎんなよ。自分の人生だ、迷いすぎは良くないからな」
 同じハーモナーであり、どこか不安定なジルが気にかかったのかもしれない。
 自分の方がつらいであろう心境を押しのけて、楓理は敢えて笑んで見せる。
「何かあれば話に乗るからさ」
 ジルもその笑顔に励まされるように真っすぐ前を向いた。
「なんか妹って気もするしな」
「それじゃ、楓理はお姉ちゃん?」
 ラッパーでよけりゃ、な。と楓理は笑った。

「落ち着いたようだな」
 慰霊祭の後。
 事件前より幾分表情の和らいだジルへとイレイズが声をかければ「ごめん」とばつの悪そうな顔でジルは頭を下げた。
「‥‥俺には見守るくらいしかしてやれん」
 イレイズから紡がれる言葉はいつも優しく。
 前回の依頼で寄せられた、イレイズから‥‥そしてあの時の仲間からの信頼を、ジルは強く感じた。
「過去何があったかは聞かない。俺も言ってない事はある」
 イレイズはそうして一度、ジルの頭に手を載せると不器用そうに笑んで、一枚のチョコレートを取り出す。
「‥‥食うか?」
「‥‥うん」

 夕暮れのザルツブルグ。
 春の太陽が広場にぐっと近づいて、慰霊碑から長い長い影が伸びた。