●オープニング本文
前回のリプレイを見る ──人の数だけ物語があり、苦楽が存在する。
●before 20years
ハーゲン家の末子として生まれた次男ジョエルは、いつも長兄・カイルの影に隠れてしまうような控え目で大人しい少年だった。
優しい母、知性的な兄、そして、仕事であまり顔を見せない父。
英王室よりナイト爵を拝受し「ハーゲン卿」と称された父は、少年にとって大層な誇りだった。
そんな父から授かったミドルネームのS。それは「シリウス」の称。
父の名で、かつ、兄と同じミドルネームは、少年にとって何物にも代えがたい宝物。
「いずれ必要な時が来るまでは、名乗らずとも良い」
そう言って、父は時折少年の頭を撫でた。
大きな暖かい手。言葉少なで不器用な父と、唯一気持ちが通じ合う瞬間。少年は、それを非常に好んでいた。
母親が殺害される、あの日までは‥‥。
ある日、ハーゲン卿が長い仕事から出戻った当夜。邸を何者かが強襲した。
ジョエルのもとにやってきた侵入者は、物音一つ立てず、少年の首元に刃を当てる。
「父、様‥‥?」
突如、少年の覚醒を促す様にベッドに覆いかぶさってきたのは首のない男の身体。
同時に、返り血を浴びた父親の姿が、少年のピジョンブラッドの双眸に鮮烈に映し出された。
呆けている少年の顔に飛び散った生温かい血液が、頬を伝ってゆく感触は酷く不愉快で。
生まれて初めて見た無惨な遺体。せり上がる嘔吐感を堪えていた少年へ、言葉少なな父が発する。
「剣を持て」
‥‥たった、一言だった。その日を境に、父の手が、酷く恐ろしいものに見えるようになっていた。
けれど、そんな日々を癒したのはジョエルより少しだけ大きな手。
「大丈夫だよ、ジョエル」「何にも怖くないよ。私がいるよ」「心配しなくていいからね」
幼馴染で、ジョエルより2つ歳上のステラという少女の存在だった。
●before 10years
父が大隊長を務める小隊ロイヤルスター(RS)への所属が決まったのは、士官学校在籍中だった。
平たく言えばそれは“イギリス陸軍の遠縁”で、普通の軍隊と立ち位置が異なる部隊。
その最たるは‥‥諜報と暗殺を主として動いているという点だった。
諜報やら暗殺やら、そんなことはどの国でも当たり前のように存在している。ただ、皆、表だって言わないだけだ。
イギリスにおいて軍の最高権力者は女王。そもそも“女王の番犬”は端から好んで人を傷つけようと言う訳ではない。
この活動は英国を守る為の自衛手段の1つであり、国が民を守る為に必要な事であるとジョエルは考えていた。
だが‥‥この5年後、ジョエルは兄・カイルとの決定的な決別によりRS隊を“離反”することとなる。
●before 1day
「‥‥随分急なお仕事だったのね。この間のバグア施設の破壊」
RS隊大隊長カイル・S・ハーゲンの眼前には隊服を身に纏った美しい女が立っている。
女は指先を男の顎に絡めると、希少な宝石でも眺めるかように目を細めて見入った。
「私の居ない間に、しなければならないことだったの?」
「単純な話さ。迅速に処理することが国益と判断したまでだよ」
「‥‥そう。“成果”は?」
「何を“成果”とするか、だけれど‥‥上々だね」
「ふふ。‥‥さて、数か月とはいえ長期潜入で疲れたわ。隊員と一緒に宿舎に控えているから、次のお仕事があったら声をかけてね」
そういって、女は男の首筋に指を這わせた後、大隊長室を出ていった。
◆
規則正しいノックの音が聞こえ、男は分厚い書類から目を離す。
特別手入れをしている訳でもないだろうに、艶やかな黒髪が首の角度に合わせて流れ、髪の色と同じ黒色フレームのメガネの向こうでピジョンブラッドの双眸が鋭く光った。
「‥‥どうぞ」
「失礼します」
男‥‥カイルは現れた人物が“彼”である事を認めると、小さく息を吐いた。
「フォーマルハウトか。収穫は‥‥どうだった」
「該当施設より、これが発見されました」
地味ながら拵えの良い机の上に載せられたのは、この隊の者だけが持つ“王家の星”の紋章が刻まれたピンバッジ。RS隊員の証だ。
中でも、RS隊は大隊長カイル率いるシリウス隊以下、フォーマルハウト隊、レグルス隊、アンタレス隊、アルデバラン隊の計5つの隊から組織されており、各隊の隊長だけはバッジに刻まれた紋章が異なるのだという。
フォーマルハウトには魚。レグルスには獅子。アンタレスには蠍。アルデバランには牡牛の意匠が凝らされている。
そして今‥‥デスクに置かれたピンバッジに施されているのは。
「やはり“蠍”か」
カイルは苦い表情を浮かべて項垂れた。
「その他、現場の傭兵伍長から興味深い情報が提供されました。昨年の8月29日、彼女らはドイツのベルリンにて女性型のヨリシロを討伐したそうですが、その際黒色HWが西へと飛んでいく様を見たそうです」
「‥‥女性型の」
「そしてそのヨリシロは“ベルリンの聖母”と呼ばれていたそうです」
「つまりドイツで討伐されたそのヨリシロは“蠍”で間違いない、と言う事だね。でも不可解じゃないか」
「はい。“討伐した”という証言に反し‥‥」
「彼女は、生きている」
大隊長の思考を遮らぬように男は黙りこむ。
間、ややあって男は慎重にこう付け加えた。
「討伐云々については単純に傭兵達が取り逃がした可能性もありましょう。問題は、彼女がいつ侵されたのか。ドイツ潜入調査の折か、またはそれ以前か‥‥」
「そうだね、僕もそれが気になっていたんだけど」
カイルは覆い隠す様にして掌を顔にあてた後、意を決した面持ちで立ちあがった。
「‥‥討とう」
「はい」
「ああ、そういえば。傭兵達に口止め料は支払ったんだね?」
「計12名分、一人当たり通常報酬に加えて50万Cを渡しています。問題は無いでしょう。‥‥それと」
フォーマルハウトは、カイルに“弟”の事を告げるか否かを迷い逡巡する。
「いえ、なんでもありません」
●the present
「どういうことだ‥‥!」
オペレーターのバニラの急な呼び出しで本部に駆けつけたジョエル・S・ハーゲンを出迎えたのは、ある通信。
機器の向こうから届くのは、途切れ途切れに響くフォーマルハウトの声だった。
『お前に‥‥事を‥‥義理では‥‥が‥‥』
「怪我でもしているのか? 下手に喋るな!」
だが、ジョエルの声を確かめると、フォーマルハウトは一息吐いた後に尚も続ける。
『大隊長を‥‥カイルを、助け‥‥誰か‥‥裏‥‥』
「ヤツを、助ける‥‥?」
自嘲気味に呟くジョエルの脳裏に蘇ったのは、5年前の出来事。
血だらけの兄。嵐の中、彼を背負って診療施設へ走った日の記憶。
思ったより、兄の身体が軽かったことを今更のように思い出した。
「‥‥っ! バニラ、今すぐ人を集めてくれ! 間に合う戦力だけでいい、行先はロンドンだ!」
ジョエルには気付いたことがあった。
‥‥ああ、自分はいつの間に変わったのだろう、と。
どこか他人事のように感じながら男は高速艇へと駆けた。
●リプレイ本文
●王家の星
高速艇内の作戦室へ傭兵達を集めると、ジョエル・S・ハーゲンは漸く重い口を開いた。
今向かっている場所の事。助けを求めたフォーマルハウトの事。彼らが何者であるかと言う事。
歯切れの悪い言葉で、それでも懸命に語られた話。
(口止め、裏切り、潜入捜査‥‥)
ジョエルから明かされた英国の裏にある組織。エスター・ウルフスタン(
gc3050)には、それら真実の一片が、やけに重く、かつリアルに響いていた。
複雑な心境で俯くものの、16歳の少女もその実「傭兵伍長」という立場がある。そして、母国を想い、女王を敬う心は彼らにも引けを取らない。
(‥‥そう。全て、国民の為)
先日出会った特殊部隊隊長の顔を思い浮かべながら内心独り言ち、それでも今は発すべき言葉に行き当たらず、少女は依然沈黙していた。
誰もが中々口火を切れずにいたところ、察して踏み込み過ぎぬようにと秦本 新(
gc3832)が事も無げに呟く。
「‥‥ハーゲン大隊長、ですか」
他の傭兵達を代表するような“指摘”。ジョエルは肯定も否定もせず、たったの一言「あぁ」と答えて視線を落とした。
(過去を隠していたジョエルさんが、こうも懸命に、か)
呼ばれて集ったULT本部。そこには見た事も無い形相をしたジョエルがいたのを思い返す。
前回共に戦ったフォーマルハウトと名乗る男とジョエルとの奇妙なコミュニケーションも、その辺りが噛んでいるのだろうと直ぐに解った。だとすれば、男の表情の裏側‥‥その一端に、少しは触れられた気がする。
(きっと何か振り切ったのだろう‥‥)
そう思える。だからこそ、新はそれ以上を言葉にしなかったし、その必要はないとも感じていた。
「まずは助ける、話はそれからですね」
青年の言葉はいつの時も頼もしくあり、男もそれに甘んじるようにしてただただ首肯を返すに留まった。
作戦室を一人、また一人と退室してゆく中、円卓の最奥で物憂げにしている男の袖を夢姫(
gb5094)が引く。
「‥‥どうかしたのか」
男は気づいて視線を合わせるが、少女は「なんでもないよ」と力なく首を振る。
夢姫は、ジョエルが自身と同じ名と姓を持つ男の事を他の隊員らと同様、特筆もせず努めて淡々と話す様に感じるものがあった。
カイルという人間が恐らく血縁者であることは間違いないだろうけれど‥‥蟠りがあるのだろうかと、胸にそんな懸念が過る。
新と同様、思い返すのは先日の出来事。あの時の男の様子は違和感を覚える程だったから。
(近しいから‥‥思いが深いからこそ、すれ違いが確執に変わる、のかな)
ただ、なんとなく夢姫自身もそれに似た感情に憶えがあった気がする。
じっと見上げた瞳はいつもより哀しそうな赤をしていて、思わず少女まで苦しくなりそうだった。
前を向いてほしい。未来を望むように。一緒に前を向く為に。今、私に出来ることは‥‥
「もうすぐ到着するみたい。それまでもう少し‥‥体を休めておこう?」
夢姫は、自身の感情を押しのけて微笑んだ。
手を差し伸べれば、男は必ず応えてくれる。繋がれた手のぬくもりに、想いの全てを注ぐようにして少女は男の手を引いた。
失われた命は取り返せないけど、生きていれば関係は修復できる。
少女はそう信じている。だからこそ‥‥同じ名をもつ彼の血縁者を、死なせはしないと心に決めた。
高速艇が着陸態勢に移行する旨をアナウンスする。それはつまり、もう間もなく“始まる”という警告にも類した。
一層険しくなる男の様子を見かねたのか、次々と着陸に備えてシートへ着いてゆく傭兵達の中、宗太郎=シルエイト(
ga4261)がすれ違いざまにジョエルの背を叩いた。
ハッとした様子で顔をあげる男の目に、涼しげで余裕すらも垣間見える宗太郎の笑みが飛び込んでくる。
「‥‥気負わず行きましょう」
今のジョエルが余程気負ったように見えたのだろう。指摘された事に気恥かしさを感じながらも、同居するもう一つの感情は恐らく情けなさとかいう類のもので。
知らず苦い顔を浮かべる男に、宗太郎は首を横に振り、務めて相手に苦を強いらぬよう力付けて去っていった。
「直ぐに終わらせましょう。だから、その後でお話聞かせてくださいね」
◆
耳を劈く大音響に、フォーマルハウトは驚嘆した。
現場に到着したのは数台の救急車。けたたましいサイレンを鳴らしながらそれは塀の周囲で止まると、男たちを見つけて声を上げる。
重篤状態の隊員3人が車に収容されてゆく中、フォーマルハウトの心には大きな不穏が芽吹き始めていた。
(‥‥拙い。間違いなく連中に気付かれた。こちらが“動いた”事に)
それがどう影響を及ぼすのか量りきれぬまま、自身も搬送車両に乗せられた男は傭兵達の一刻も早い到着を願った。
「‥‥サイレン? もしかして救急車、なの?」
館の正面玄関の先、エントランスホールから吹き抜けの上階へと続く階段の上で、女は心底意外そうな顔をして呟いた。
「貴方達の‥‥いえ、そもそも私達のやる手じゃないわ。何を考えて‥‥まさか、何か目的が? 或いは、番犬がプライドをかなぐり捨ててまで“素人”相手に助けを求めたか‥‥」
どちらにしろ、想定外だわ。女はそう独り言ちた。
既にこの時、館内は牡牛隊の手で照明が灯されていたのだが、それによって明らかになったのは、何処からどう見ても蠍隊であった仲間達が一人も余さずバグアに侵されていたというだけの無慈悲な現実だけだった。
結局、先に接触してしまった獅子隊のうち2名が重体となり、壊滅寸前と言った状態まで追い込まれたギリギリのところで牡牛隊が、次いでシリウス隊がエントランスホールに集結した。
対するは、ヨリシロ1体を含むバグア5体。
先のベルリンでの戦いは、ヨリシロと強化人間を同時に相手取らなかったと言うだけで大きな差だが、それを引き合いに出しても、今の状況が決して優位とは言えない数の戦いであることが解る。
しかし、先程到着した救急車のサイレンを耳にした途端、ただ一人、吹き抜けの広間の階上から銃撃に専念していた女がぴたりと戦いの手を止めたのだ。
長考の後‥‥ヨリシロの女は身を翻した。
諜報と暗殺を主とする国の暗部を抱える人間達が、戦いの負傷を委ねる相手は救急車の先に無い。
先のサイレンに“隊外からの救援の匂い”をかぎ分けた女は、いち早く撤退を決意したのだ。
当然追いすがるカイル達。しかし女の撤退を援護するように眼前に4体のバグアが立ちはだかる。
「道を‥‥開けろッ!!」
普段穏やかな男から放たれる途方も無い殺気。それに生前の記憶が蘇ったのか、バグア達は僅かに身を固くした。
その隙に獅子・牡牛隊で動ける者たちが一気に敵陣を突き崩し、7人の隊員らで敵4体を包囲。
この好機を逃すはずもなく、2階の先に消えてゆく女の影を追い、シリウス隊は大階段を駆け上がっていった。
●アンタレスの名を持つ女
「中々の気配です、気を抜けば秒殺されそうな」
塀の外まで聞こえてくる憚る事ない交戦音と、肌を刺す強烈な殺気に、宗太郎は思わず口の端をあげた。
その青年の隣で難しい顔をしていたエスターが、淡い光を纏いながら全神経を研ぎ澄ませる。
「入ってすぐそこで派手にやらかしてるわ! でも‥‥3階にも、複数いる」
少女の報告を受けながら、パイドロスの奥で新が沈黙する。彼の脳裏に浮かぶのは昨年のドイツでの出来事だった。
(彼らの裏切りは、自らの意志なのか。それとも “彼”のように‥‥)
静かに怒りを湛えたまま、青年は俯いた。
記憶に残る亡き突剣使いの男は、間違いなくあの女に弄ばれ、最期には命を落としたのだ。
「‥‥行きましょう」
新が合図を送る。そして、オーディと共に突入を図るべく、大きな音と共に壊れかけの正面玄関を蹴破った。
すると、それまで隙間から零れていただけだった光が一気に溢れ出す。
すかさず突入した先発班は、光の先にある凄惨な光景を目の当たりにした。
古びた洋館の床板に広がる体液。漂ってくる濃厚な血の匂いに新は思わず身を引き締める。
───その時。突然、エントランスホールで繰り広げられていた激しい剣戟の応酬がぴたりと時を止めたのだ。
理由は明快。両者の視線は間違いなく“現れた第三勢力”へ向けられている。バグアとなった蠍の面々も、RS隊員らも、皆一様に“今現れた連中が何者であるか”を推し量っていたのだ。
‥‥傭兵達を呼んだのはフォーマルハウトだ。だが、彼は既に凛の指示によって救急車で搬送されたあと。
それに、傭兵達は自らが何者であるかということを含め、RS隊に自分たちの立ち位置を示す言葉を用意してはいなかった。
新たちが何者であるかを判別出来ない時点では、このようなバトルロイヤルの場において最初に動いた方が絶対的に不利になってしまう。故に、この場の誰もが動けずにいる。
時間がこんなにも長く感じる事があるだろうか。忌々しいほどに重い一瞬が、流れた。
◆
突然交戦音が止んだ事に気付き、トリシア・トールズソン(
gb4346)が無線を通じて先発隊へと呼び掛けるが、一向に反応が無い。
「繋がらない‥‥どうして」
向こうからも無線による情報共有を行う手筈で作戦を開始したと言うのに、なぜ。
「そういや、先に入ってた他の隊も音信不通だって言ってたよな?」
ぽつりと思い出したように空言 凛(
gc4106)が指摘した瞬間、夢姫はハッとした。
連絡が取れない状況について、幾つか可能性はあった。
彼らが無線で連絡する余裕がない場合の他にも‥‥あの館内にジャミングが走っている可能性だ。
彼らはプロであるが故に情報の恐ろしさを知っている。自らの情報の保護には殊更警戒していて不思議はない。
宗太郎達が正面から突入して以降どうなったのか? 不安が過る中、突然交戦音が再開された。
これは、敵戦力とこちらの戦力が未だ健在である事の証にもなる。
「ま、言ってもしようがねえ。戦闘は続いてるみたいだし、突入するしかないだろ」
塀の外で身を顰めていた傭兵達の中、凛は立ちあがると親指で洋館を指した。
◆
傭兵とChariotを除く動体は全て敵であることを前提とし、警戒していたエスター。
少女の眼差しに込められた不信など、敵部隊には勿論、獅子・牡牛両隊にも伝わっていた。
人の傍にあり、時に謀り、利用し‥‥最悪の場合、人を殺める仕事。
エスターのように、年端も行かぬ真正直な少女の瞳など尚の事解りやすいものだった。
彼らはこう判断していた。『新たな敵が現れた』、と。
重く圧し掛かるような沈黙。広間の時計が時を刻む。
ざっと見渡した限り、ジョエルの血縁者と、蠍隊の長である女の姿が無い事が気にかかった宗太郎は、眉を寄せた。
こんなところで立ち止まっている暇など無い。
「時間が足りねぇ‥‥まずは、数を減らす」
───腹を括れば、一瞬だった。
三つ巴で睨み合う中、宗太郎は迷うことなく蠍隊であった元人間に向かって瞬天足で駆け出した。
それに追随するようにエスターやルナたちも走り出し、同時に新とトールが獅子・牡牛両隊へと接近を試みる。
この瞬間、遂に均衡は崩れた。
接近する新達に武器を突きつける隊員たち。それにも臆することなく、新はここで初めて彼らに言葉をかけた。
「彼はERだ。奥で倒れている方が居ますね? すぐに治療を開始しましょう。もし自力で歩けるようなら、そのまま脱出して下さい。外に救急車両が停まっています」
「‥‥一体、何を‥‥」
うろたえる男たちに、AU−KVの奥から新は懸命に訴える。
「今は一刻を争います。フォーマルハウト隊は既に救急車で搬送しましたから、早く‥‥!」
相手の不信を見とれるように、目の前の相手がこんな極限の状況で嘘を言っているか否か程度は浅く無い諜報歴の間に解るようになったつもりだった。
その顔は見えずとも、新の想いは伝わるべくして伝わったのだろう。彼の隣ではトールも両手を挙げ「戦意は無い」と示している。
「妙な真似をしたら、その場で首が飛ぶ事を覚悟しろ」
獅子隊の長が漸くその場を譲り開けると、両隊は後方に匿っていた獅子隊の重体者2名へ新達を通す判断を下した。
「ランスチャージ‥‥一気にぶち込むぞ!」
宗太郎が敵の一人に肉薄した刹那、その槍に輝く剣の紋章が溶けてゆくのが見えた。
長大なランスの穂先が一瞬赤く輝くと、エクスプロードが揺らぐ熱気を纏いながら渾身の力で突き出された。
薙ぎ払いなどの線状の攻撃に比べ、槍の突きによる点の攻撃は回避することが難しい。
相手がヨリシロクラスであれば、話は違っただろうが‥‥これで敵の戦力レベルがはっきりした。敵は、強化人間だろう。
宗太郎の放つ渾身の一撃は、敵の身体をずるりと貫いてゆく。
最中‥‥宗太郎が槍の先に固定していた強化済み弾頭矢5つが全弾起爆した。ここまでは、宗太郎の狙い通りだ。
───だが、もし相手が“強化人間”だとわかっていたら、宗太郎はその手を止めていただろうか?
「‥‥ッ!!」
当たり所が悪かったのか、弾頭の爆破に誘発されたのか、それとも強化人間自体が宗太郎の一撃によって生きることを諦めたかは定かではないが、宗太郎の目と鼻の先で強化人間体内の自爆装置が作動。
有無を言わさず直撃した宗太郎はその場に崩れ落ち、青年の手から離れた主兵装が乾いた金属音を床に叩きつけた。
「センパイ!!」
ずくり、とエスターの根底にある恐怖が蠢いた。
宗太郎と連携をとるべく前線に出てこようとしていたエスターだが、宗太郎が瞬天足で一早く敵に肉薄し、エスターが追いつく以前に攻撃を繰り出したのが唯一の救いだった。
少女は漸く宗太郎の傍へと到達。倒れた体を抱き起こすと、焼け爛れ血に塗れた青年の頬へと掌で触れた。
怖かった。少女の過去と今とが重なり、怖くて仕方がなかった。
仲間が「目の前で居なくなってしまうかもしれない」と思うと、いつも纏っていた強がりだとか、意地っ張りだとかいう精一杯の武装など跡形もなく剥がれ落ちていた。
少女の瞳から零れた涙に気付いた宗太郎が、力ない腕でエスターの肩に触れる。
弾頭矢の爆発の勢いが多少相手の自爆の勢いを殺いだのかもしれない。
それに、そもそも宗太郎が強靭な能力の持ち主である事も救いではあったのだが、彼はまだ意識があり、どの部位も欠けることなく、更に若干体を動かせる様子でもある。
しかし、そこへ残る3体のバグアが彼らに接近。勿論これを見逃すはずもなく、ルナが、オーディが我先にと2人を庇うように前に立ったが‥‥残る1体の攻撃を撥ね退けたのは、傭兵以外の存在だった。
「何者かは知らんが、加勢する。どうやら“敵”が一致しているようなのでな」
獅子隊・牡牛隊の内、未だ健在である隊員が一挙に傭兵達の攻撃に加わってくる。
むしろうちらが加勢に来たのよ! と、常ならば声を荒げたい気分にもかられただろうエスターも、今は‥‥そして、彼らには何も言わず、毅然と涙を拭って前を向いた。
短時間の思案の後、少女はしかと頷き、そして宗太郎に肩を貸しながら立ち上がった。
全ては彼に治療を受けさせるべく、一時後方へ撤退するため。
「‥‥宜しく頼みます」
◆
後発班の面々は建物に接近し、目標に据えた館3階の窓の真下に位置取った。
ジョエルで言えば兵装・装甲含め約90kgにも及ぶ訳だが、それを高さ約10m程の位置にある窓に投げ入れ、3階の窓から直接突入するという荒業をやってのけようと言うのだ。
一見すれば相当無茶な策にも見えるかもしれない。だが、傭兵の能力は常識で考え得る人間のそれを越えている。
特に凛の体力はジョエルの次に突出しており、それはごく一部のエリート能力者が到達する領域にまで近い。
彼女なら、その荒業を可能にしてしまえる。
「迷ってるヒマはないぜ?」
凛は両手を組み合わせると、掌を上にして体の中心に据え、腰を落とす。
「上まで飛ばしてやるから、ここに足乗せて構えろよ」
凛が放つ迷いのない声。絶対にやってのけて見せるという、強く真直ぐな眼差し。
成功を疑わない彼女の堂々たる佇まいは、こちらの迷いなどお構いなしにYESと言わしめる力があった。
「‥‥お前を信じる」
「何言ってんだ、当たり前だろ」
かか、と豪胆な笑い声が返る。過大な緊張に圧迫された状況にあって、少女の振る舞いのなんと気持ちの良い事か。
頷くジョエルは、少女の手に足をかけた。あとは‥‥突入するだけだ。
トリシアの肌が褐色に染まってゆく。覚醒の合図。突入の先陣を切る役をやったのは少女だ。
迅雷と高速機動を発動し、トリシアが見据えたのは頭上。聳える壁を捉えて小さく息を吐くと‥‥大地を蹴った。
風を切る、という言葉がこれほど似つかわしい様もないと断言できるほどに、少女は恐るべき速度で駆けた。地を蹴り、壁を蹴り、その勢いを伴った跳躍で、各階の窓にある縁を足がかりに、脚力のみのロッククライムのようにして更に跳躍する。
驚異的な身体能力と、迅雷の速度を伴ったからこその力技でもあったが、然程の苦も無く3階まで到達。垂直方向に働く力のままで窓へと飛び込む事は出来なかった為、少女は3階の窓、その上縁を両手で掴んだ。
その手はそのままに、勢いを利用して身を縮め、足を胸の辺りまで引きつけると、全身のばねを使って両足から窓に蹴り込む。
木枠が壊れ、砕け散るガラスの音が涼やかに響く中、破片と共に3階の部屋へと堂々の侵入を果たしたトリシアが目にしたものは、先の英国のプラントで感じた黒い靄の正体そのものだった。
体温がスッと下がる感覚。少女の顔からあどけなさが消えてゆく。
「あら、まさかお嬢ちゃんが来るとは思わなかったわ」
3階の広い一間の奥には光線銃を握る女の姿と‥‥彼女と対岸に陣を組む5人の男の姿があった。
中でも先頭に立つ男は、刺し殺さんばかりの鋭い眼差しでトリシアを見ている。
しかし、様子がおかしい。傷が相当に深いのだろうか、後方のERが必死にその男の治療を続けている。一見しただけで解るほどに、男は隊服のあちこちが破れ、焦げたような跡があった。一体どれほどの傷を受けたと言うのか?
大隊長はGDであると聞いた。恐らく、敵の攻撃を咆哮等を駆使して全て自らに引きつけ続けているのだろう。
だが、傷口が塞がったとて、失われた血は戻らない。消耗した練力も、直ぐには回復しない。あの男にはもはや、余力がないと断じても良い。
そしてその男の、血の失われかけた面立ちを見た時、トリシアはある事に気がついた。
片側がひび割れた眼鏡。目元から流血しているが、その奥に冴える赤い瞳も顔立ちも、全てが良く知る人物に似ているのだ。
(あの人が、ジョエルの血縁者‥‥か)
理解した少女は、決意も新たに疾風迅雷を構える。その手には複雑な思いが込められていた。
‥‥家族は、これから作る事も出来るだろう。
人と人とが結びつき、家族になって、家族が増えて。これから先、幸せはいくらも築いていけるだろう。
そうでなければ自分が今何のために戦っているのか解らないし、少女は頑なにそう信じている。
だが、そう信じる気持ちと同じくらいに絶望も身に沁みていた。それは、喪ったものは戻らないということ。
亡き両親を想う。喪失の痛みとは、何時如何なる時も付き纏うもので、消す事も出来ず、かといって生涯忘れる事も出来ず、重くとも苦しくとも抱えて生きてゆくしかないもの。
これを、人は“業”と言うらしかった。
今は何でもない顔をしていても、それは古傷として時折何らかの切欠で鈍く強烈な痛みを与えてくる。
持たなくていいのなら、こんなもの要らないのに。それでも‥‥
(ジョエルと夢姫には、そんな思いをさせたく無い)
ジョエルに似た面立ちの男は、少女から寄せられる“殺意とは異なる視線”に気づき、眉を寄せた。
(だから‥‥必ず救い出す)
そんな少女の想いなど、知る由もないままに‥‥
少女への迎撃は無かった。それもそのはず‥‥1階エントランスでの“三つ巴の再演”が起こっていたのだ。
動揺した様子で少女を見やるシリウス隊の面々は、突如現れた存在が敵か味方かを測りかね、完全に防御の態勢に入っている。特にカイルは、先の少女と女のやり取りを見て、2人が仲間ではないかと判断しかけていた。
だがそこへ、外から声が聞こえてくる。
「いくぞ、ジョーさん! しっかり“飛べ”よ!!」
それが何を示すのか、理解することになるのは数秒後。瞬く間に窓から長身の男が飛び込んできた。
「トリシア、無事か」
「‥‥ジョエル」
この間も、部屋には更に別の男が突入してくるが、それよりも気にすべき事があった。
シリウス隊の面々は、今し方少女が呼んだ名に確証を得たのだ。
だが、それを意に介さず、先に飛び込んできた男は部屋を一瞥した後、無言で腰元の刀に手をかけた。
様々な思考が渦巻き続ける。
「あの男がジョエルなのであれば我々の救援ではないか」という楽観的な見解と、逆に「離反した男であれば寝返っている可能性も否定できない」という懸念。当のジョエル本人も、何も言うつもりが無いらしく、女だけを見ている。
一方、女はと言えば突入してくる傭兵達を見て状況を悟ったらしかった。
本来1階で足止めさせるつもりだったのだが、この無茶苦茶な突入の仕方には辟易もしよう。
“一体何人がこの部屋に突入してくるのか?”
既にこの時点で8対1、秒を追うごとに高まるリスク。今こうしている間にも、もう一人、窓の外から見覚えのある少女‥‥夢姫が突入してきた。
「あの時の‥‥双子、いえ、クローン?」
少女は女の姿を捉え、そして思案を巡らせ始める。“能力”の一つについて、手掛かりを与えてしまったのだ。
とつとつと推察を重ねてゆく少女。今はまだ遠くとも、このままではあの娘はいつか必ず辿りついてしまう。
そして今も、憚らず大きな音を立てて壁を蹴りあげる音が聞こえる。これ以上の猶予はない。
シリウス隊の面々が“第三勢力”の存在を測りかね、動けずにいる今しかチャンスは無いと確信した。
突如、女の身体が短く発光する。
「悪いけど“全部私”だから。偽物がどれか、なんて詰らない事は言わないでね」
収束してゆく光の向こうに現れたのは、4人の“女”。内、1体がそう漏らして光線銃の銃身を舐めた。
皆、同じ外見をしており、まるで悪夢のようだ。
ヨリシロの中には、こういった能力を持つものが過去に何例か記録されている。傭兵ならばそれを耳にした者もいるかもしれないが‥‥この女は自らの身を分ける能力を持っているのだ。
「これで、4対‥‥」
9、と。言いかけた女を制するように、最後の傭兵が突入してくる。
威勢の良い音を立てて着地した少女は、正面の光景に驚く事も無く、素直にそれを受け入れるとただただ不敵に笑って拳を合わせた。
「10だ。ま、そんなに分は悪くないと思うぜ」
その凛の言葉にカイルは悟った。
女は“少女たち”を敵と認識している。そして、“少女たち”は“我々”を同じ戦力として認識している。
ならば、共に戦っても良いと‥‥血を分けたあの男を、もう一度信じてもいいのだと、本能が告げた。
「構えろ! 標的はアンタレスだ。共闘を許す!」
大隊長が吠え、同時に隊員らが攻撃態勢に移行した。
しかし、ここで苦い顔をしたのは、カイルに撤退を促すつもりだった夢姫だ。
練成治療により傷が塞がっているとはいえ、カイルはあの状態。だが、どうやって撤退させればいい?
仮にも相手は大隊を預かる男。それに当人は馬鹿なことにまだ指揮を取るつもりでいる。
恐らく“自分が最初に死ぬことになっても隊員を残しては撤退しない”のだろう。以前のジョエルによく似ている。
(男の人って‥‥)
全く、しようもない生き物だ。
だが、それこそが彼、或いは彼らの矜持でもある。誇りと命とどちらが大事か、などという無粋な選択を迫る事すら憚られる程に圧倒的かつ苛烈な、戦いへかける想い。
ならば、夢姫は決意を改める。この場を収めることで、彼を、彼らを護るのだと。
こうして、戦いの火蓋が再び切って落とされた。
「妙な繋がりがあると思ったら、カイル・S・ハーゲン‥‥なるほどね」
凛は現れた女の1人へと接近を開始した。視界の端に、ある男の姿を認めながら。
不躾に眺めた先の男は、どう見てもジョエルに酷似している。
ふと、凛の胸中に過るのは、在りし日の家族の姿。だが、苦い思いはあれど、凛の足も手も止まりはしない。
感傷に浸るのは後で十分だし、そもそもそんなのはガラじゃない。
それに、自分がやるべきことは明確なのだ。“生きている者の為に全力で、この手を伸ばす”だけ。
けれど‥‥ただ、想うのは。胸底を掻き乱す強烈な感情を、凛は力で押しこめた。
(‥‥あんな思い、仲間にはさせねぇよ)
切なる願いと、秘めたる決心。‥‥こいつだけは、絶対に叩き潰す。異論など、認めない。
ヴェルナスは射線を確保すると制圧射撃を開始。足が鈍った1体を突くのは、前衛を担うトリシアとジョエルだ。
まず先に懐に飛び込んだトリシアは、女が態勢を整える暇も与えずに手首を切りつける。
閃く剣閃。‥‥疾風迅雷の切っ先は、女の腱を切り裂き、手先の自由を奪ったのだろう。途端、見覚えのある二丁の光線銃のうち、片方がするりと落下。もう一撃斬りつけんと刀の勢いに乗じて体をひねるトリシアだが、女も素早さと身のこなしに特化したタイプ。既に態勢を整えたのか、もう片方の光線銃の照準をトリシアの額に完全に合わせていた。
しかし、そこへ漸くジョエルが到達。輝くは剣の紋章。赤い刃が女の真上から容赦なく振り下ろされた。
女が片腕を落とされ絶叫する。けれど他の女達はまるでそれを気にする風もない。
一方、夢姫は先程カイルの傷を癒していた男がERであると判断し、その男に接近すると「虚実空間を」と端的に告げる。
ERもそれに同意し、虚実空間を発動。だが‥‥放たれた青白い電波は女の手で容易に弾かれてしまった。
そんな中、最も後方に位置していた女の1人が後退を開始。傭兵達と逆側の窓から、外へ飛び出そうとしている。
それを阻止すべく瞬天速で加速した凛だが、今度は別の女が立ちはだかる。
‥‥徹底して1人を逃がす姿勢。
これはまるでベルリンで「絶対に自分は死なない」と言うように傲笑していたあの時の女の様子にリンクした。
「外にはフォーマルハウトが居る! 無線で‥‥」
これだけ時間が経てば、応急処置等で多少動けるようになっているのではとカイルは考えていた。
だが、予想に反し、返ってきた答えに息をつめる。
「いや、奴は救急車で搬送させたぜ。それに、無線通じねえだろ、ここ」
もし今、外に誰も居ない状況ならばそれでもよかっただろう。だが、“居る”のだ。
「アルドラ、走れッ!!」
叫びに乗った咆哮。3体の女は途端、カイルという男に釘付けになり、攻撃対象が固定された。
同時に、指示を受けたシリウス隊のPNが迅雷で外へ飛び出してゆく。
これは恐らく、最後の‥‥決死の咆哮だろう。
体力が回復しているとはいえ、既に多くの血を失い、練力を消耗し、青い顔をしている男に対し、身を分けたとはいえ3体のヨリシロが殺到したとしたらどうなるだろうか? そんなもの、想像に難くない。
「カイルさん!!」
ジョエルと夢姫が動き出したのは同時だった。だが、持ち前の身の軽さの分だけ夢姫が先に滑り込む。
女たちから放たれた銃撃を身をもって受け止めた少女は身体を穿たれ、小さな呻きと共に血液が溢れた。
しかし、それでも少女は剣を振う事を諦めなかったし、凛やシリウス隊の面々も完全に女とカイルの間に割り込む形で続く攻勢を防ぎきった。
そこへ、階下から伝う足音。
「ジョエルさん! 無事ですか!?」
新の声が聞こえる。それは、この館での戦いの決着まで間近い事を意味していた。
●血の雨に降られて
エントランスで4体のバグアを駆逐した後、1階の全戦力が直ちに3階へ合流。
傭兵達は女から分裂した3体のヨリシロを、カイル率いるその場の全戦力を以って完全に葬った。
だが、戦いを終えて外に出た傭兵達を出迎えたのは強烈な死臭だった。
呼んでいた複数台の救急車の運転手や同乗していたスタッフ達は既に事切れている。
紙をちぎるように体を引き裂かれた遺体もある。臓物が飛び出し、有る者は一部が繋がったまま、あるものは地面に撒き散らされ、血とまた別の醜悪な匂いを放っていた。
「‥‥間に合いませんでした。丁度、女が車で走り去っていくところで‥‥」
シリウス隊のPNは、言葉に詰まりながら、膝を折り、血の海に崩れ落ちていた。
女が身のこなしの軽い素早さに特化したタイプでなければ、話は違ったのだろう。
恐らく、彼女は自らの逃走方向を目撃した者を生かしておきたくなかったのだろうし、逃走するのに“車両”は丁度良い足になる。
女は先のサイレン音を聞きつけた際、既に逃走時の足をこれと決めていたのかもしれない。他の救急車両は、光線銃によるものの1発でタイヤを破壊されていた。
だが、尚悪い事に‥‥女が乗り去った車両には深手を負いきちんとした治療を待つレグルス隊の重体者2名が乗っていたはずだった。
そして、彼らは周辺を幾ら探しても見つかることは無く‥‥。
両手で顔を覆ったまま、カイルは深く嘆きの息を洩らした。誰もが言葉を発せないでいる。
(どこまで、人を弄ぶ気だ‥‥)
装甲を解除した新の手はきつく握り拳を作り、知らず爪先に自らの赤が滴ってゆく。余りに、酷い。
沈黙の中、絞り出したような掠れ声が、闇夜を物悲しく震わせた。
「まさか‥‥一般人まで巻き込んでしまうなど‥‥」