●リプレイ本文
薄暗い森の中に巧妙に隠された入り口の前に、八人の能力者たちが集っていた。
入り口の奥に待ち受けているのは、「狂童」アニス・シュバルツバルトが潜伏していたというバグアのアジトである。
「アニスの‥‥拠点跡、か。
この所、やられっ放しだからな。少しでも、情報を得て有利に立たないと」
入り口から伸びる通路の奥を見据えながら、クリス・フレイシア(
gb2547)が呟く。
「何だかんだで、初めてアニスと会ってからもう一年近いんだね」
持ってきたカメラを弄りながら、忌咲(
ga3867)が感慨深げに言う。
彼女もクリスと同じく、アニスが起こした事件に初期から関わってきた能力者の一人だ。
「せめて、アニスとは‥‥、決着をつけなければ」
ライガークローを嵌めた腕を確かめるように、ティーダ(
ga7172)は視線を下ろす。
ティーダは、単なる敵として彼らを見る事が出来ない。
だからこそ、今度こそしっかりと結末を見届けたい‥‥それが彼女の本心であった。
「‥‥彼女を止めることは、もう叶わないのでしょうか?」
以前出会った時の、豹変したアニスの姿を思い出し、リディス(
ga0022)は瞑目する。
「そんな訳無いじゃないですか。あの子が嫌がっても、絶対叱ってやらなくちゃ」
リディスの呟きをすかさず否定したのは瓜生 巴(
ga5119)。
彼女は、自らの腕と体の中に残る感触を思い出していた。
――自分の腕が包んだ、歳相応の童のように震え、泣きじゃくる少女の体。
――連行されていく装甲車の中で、ずっと自分の体に抱きつき、縋り付いていた少女の温もり。
数多の人を殺め、罪に塗れた『私の妹』。
それでも尚、また再び抱き締め、叱るために、瓜生はここに来たのだ。
「――そうですね。まだです‥‥まだチャンスはある筈‥‥!!」
リディスはその言葉を聞いて、自らの心を奮い立たせる。
――彼女が愛した男・サイゾウが同じく愛した少女。
彼の代わりに、自分が叱ってやらなくてはいけないのだ。
「ふーん‥‥彼女たちにあんな表情をさせるなんて‥‥。
益々興味が出てきたわね、そのアニスって子に」
アニスとの因縁が深い能力者たちの決意の表情を見ながら、キョーコ・クルック(
ga4770)は感心したような表情を浮かべた。
「今回の事で、あの子の事をもっと知れればいいんだけど‥‥」
物憂げな表情で、結城悠璃(
gb6689)は手の中のフルートを見つめる。
それは、夢の中ではあるけれど、アニスに笑顔をもたらしてくれた楽器だった。
自分が実際に出会ったあの少女の心は壊れてしまっていたけれど、夢の中の笑顔をもう一度与える事が出来るように、結城は少しでも彼女の「人と成り」を調べるつもりだ。
「――そのための今回の依頼だ‥‥行こう」
「――はい!!」
一足早く準備を終えたアンジェリナ(
ga6940)が結城の言葉に応える。
彼女もまた、アニスとの因縁があまり無い者の一人だ。
一度KVとゴーレムを通じて対峙した事はあるが、その時は倒すべき敵としか認識していなかった。
――だが、ある時知りたくなったのだ。
彼女に付き従っていたサムライを名乗る男と、能力者たちとの敵味方を越えた繋がり、そしてその彼が命を賭して仕えたというアニス。
バグアや人類といったカテゴライズなど関係無い所にある、ヒトとしての強さ。
それを確かめんがため、アンジェリナは通路へと向かった。
――パシャッ!!
暗闇に包まれた室内を、カメラの眩いフラッシュが一瞬照らし出す。
そこには用途不明の謎の機材が並べられていた。
「――撮影完了‥‥っと。リディスさん、チェックしておいて」
「分かった」
忌咲の言葉に頷くと、リディスは丁寧な手つきで自分が描いたマップにチェックを付ける。
彼女の口調は周囲を警戒するために覚醒しているため、少し固いものになっていた。
「しかし、かなり広いな。アジトと言うよりはちょっとした研究所並だ」
「もしかしたら、この丘全体がアジトになってるのかもしれませんね」
アンジェリナの呟きに、結城が頷く。
このアジトの入り口は小高い丘の上にある森の中に隠されていたのだが、中は複雑に入り組んでいた。
そしてそれ以上に四人を悩ませたのが、数々の罠である。
――チュゥンッ!!
「――うわっ!!」
結城は頬を掠める熱い感覚に思わず悲鳴を上げた。
見れば、そこには巧妙に隠された防衛用のセントリーガンが設置されていた。
すかさず身を隠し、それ以上の追撃を避ける能力者たち。
「これは、壊しちゃった方が早いかな」
「‥‥ああ忌咲、やってくれ」
忌咲の超機械から電磁波が放射され、セントリーガンの回路を焼き切る。
四人はある時は破壊し、ある時は解除しながら少しずつ通路を進んでいった。
その奥には、人が優に三人は並んで入れるほどの大きさの扉が四人の前に立ち塞がる。
念のため引いてみるが、相当な重さなのか能力者の力でもびくともしなかった。
「‥‥参ったな。何か非常電源のようなものがあればいいんだが‥‥」
眉根を寄せてアンジェリナが扉や周りの壁をコツコツと気まぐれに叩いていく。
結城はアニスの心理を推測し、どのような仕掛けを施しているのかを想像していた。
(「彼女なら‥‥どうする? どうしたい?」)
結城の思考の間も、アンジェリナの壁を叩く音が続く。
――コンコン。
――コンコン。
――コッコッ。
「あれ‥‥? アンジェリナさん、ちょっと待って下さい!!」
不意に、思考に耽りながらその音を聞いていた結城が、アンジェリナを引き止めた。
「ん? どうした結城?」
「もう一回、そことその周りの壁を叩いてみて下さい」
「――分かった」
結城の頼みに不思議そうな表情をするアンジェリナだったが、彼の真剣な表情を見てただならぬ雰囲気を感じたのか、今度は慎重に壁を叩いていく。
「やっぱり、何か反響がおかしい‥‥。そこを調べてみましょう」
結城が持つ絶対音感は、アンジェリナの叩く壁の僅かな差異を確かに聞き取っていたのだ。
調べると巧妙に隠された開き戸の中に、非常時のロック解除用レバーが見つかった。
重い扉を開くと、そこにはかなりの広さを持った空間が広がっていた。
その広大な空間に所狭しと並べられているのは、独特な匂いを放つ培養液を湛えた無数のカプセルであった。
中には様々な姿をしたキメラや、ワームの生体パーツなどが納められている。
「――これは‥‥!!」
「アニスのラボ‥‥まさか、こんなのが丸ごと残ってるなんてね」
四人は油断無く武器を構えると、キメラからの襲撃を警戒しながら進んでいく。
既に電源が落ちたせいか、カプセルの中のキメラたちは全て息絶えていた。
――だが、それ以上に能力者たちの目に焼き付いたのは、キメラと同じようにカプセルの中に浮かぶ、老若男女様々な「人間の標本」であった。
一糸纏わぬ姿のまま、空ろな目で虚空を見つめ続ける幼い少年。
体のあちこちを解剖され、生々しい内臓を晒す若い女性。
何の実験か、半身を醜い肉塊に変えられ、その身を数倍にも膨れ上がらせた壮年の男性。
苦悶の表情のまま固まった、頭だけになった少女。
それは、見ているだけで吐き気を催すような光景だった。
「相変わらずだね‥‥この趣味の悪さはさ」
「‥‥聞いていた以上に、凄まじいな」
「これを‥‥あの子が‥‥」
以前同じような光景を見た忌咲でも顔をしかめているのだから、初めてこの光景を目にしたアンジェリナと結城の衝撃は如何程だろうか。
(「これが、アニスの所業――」)
しかし、リディスは決して目を逸らそうとはしない。
アニスが行った所業――その全てを理解していなければ、彼女に手を差し伸べるなど、口が裂けても言う事は出来ない。
そのためには、自分は全てを知らなければならないのだ。
空ろな表情の人々の亡骸を、リディスは一つ一つその記憶に焼き付けていった。
無論、衝撃を受けてばかりはいられない。
四人は手分けして回収出来そうなサンプルを捜索し、重要そうな物を写真に収めていく。
「生物工学やってたから、半機械化キメラとか興味があるんだよね」
ラボ内の端末を一つ一つ検索しながら、忌咲が呟く。
研究者の性か、新たな技術への渇望か、その目はうきうきとした光を帯びていた。
「――そういうものか」
忌咲の姿を見て、肩を竦めるアンジェリナ。
――その時、彼女の足元を何かが通り過ぎた。
「――む!?」
暗闇に目を凝らすと、それは一抱えほどある数匹のスライム型キメラの姿であった。
近くにはカプセルが砕け、ガラスと培養液が床に散乱している。
恐らくは何らかのトラブルによって起動してしまい、飢えを凌ぐために這い回っていたのだろう。
スライムの傍らには、数匹分のネズミらしき骨が転がっていた。
仲間たちもそれに気付き、スライムに向かって武器を構える。
スライム達は威嚇するように体を大きく広げ、飛び掛ろうとした、その時――、
「――控えろ」
アンジェリナから迸った濃密な殺気に、思わず身を竦ませる。
その隙に、四方からリディスを先頭に仲間たちが飛び掛っていった。
同じ頃B班の面々も生き残ったキメラたちと、戦闘を繰り広げていた。
「――ティーダさん、そっち行きました」
「ま、またですか!? ああもうっ!!」
瓜生の警告に、ティーダが顔を顰めながらもタイガークローを足元目掛けて突き下ろす。
一瞬の固い手応えの跡、湿った音と共に、例えようも無い程に嫌な感触が伝わってきた。
――そこには、フナムシの姿をした醜悪なキメラ。
恐らくはこのアジトで作られた固体が脱走したのだろう。
B班の四人が調査のために入ったこの部屋の機材を食い散らして生き延びていた。
飛び散った体液で爪だけでなく全身が悪臭に包まれ、ティーダは少し涙目になる。
「うう‥‥」
「しかし、正しくゴキブリみたいな姿と動きよね」
キョーコはため息を吐きながら、接近してきたもう一匹に向かってツインブレイドを繰り出す。
フナムシは足を数本犠牲にしながら、素早い動きで斬撃をかわす。
だが、それは本命を隠すための囮であった。
「剣ばかりに目を取られるとっ!!」
すかさずフナムシの進路上にキョーコの蹴りが繰り出される。
ブーツの先に取り付けられた砂錘の爪が、フナムシの体を大きく切り裂き、壁へと叩きつける。
「――止めだ!!」
そして地面に落ちた所に目掛けて、クリスの放ったライフルの弾丸が突き刺さる。
フナムシは四散し、その命を散らす。
「これで最後ですか‥‥ですけど、滅茶苦茶ですね」
機械剣を懐に収めながら、瓜生が周囲の惨状を見渡して憂鬱そうな顔をする。
部屋の中は戦闘が始まる前から既に、フナムシの大群によって食い散らかされてしまっていた。
おそらくは飢えを凌ぐために、普通は食べられないようなものまで口にしたのだろう。
「‥‥くそっ、ここも荒らされていたか」
「まぁ、しょうがないわよ。諦めて次に行きましょ?」
悔しげなクリスの罵りに、キョーコがぽんぽんと肩を叩いて落ち着かせる。
「流石にもう生き残っているキメラはいない‥‥と思いたいです」
ティーダがフナムシの体液をタオルで拭いながら呟く。
既にB班の面々は十数匹に及ぶフナムシキメラを駆除していた。
その事に一縷の望みを託し、四人は先へと進んでいく。
――だが、その願いも空しく、奥に残った部屋はその全てが荒らされており、しばらく進んだ所で行き止まりになっていた。
「うーん‥‥念の為、隠し扉の類が無いか調べてみましょ?」
「そうですね。何か隠されていたら、いい情報源になる筈です」
「ちょっと待った」
キョーコの言葉に頷き、一斉に動き出そうとした能力者たちを、クリスが呼び止める。
「闇雲に調べていたら、どれだけ時間を食うか分からないぞ?」
「確かに、そうよね‥‥」
彼女の言葉に顎に手を当てて考え込むキョーコ。
暫く考え込んだ後、手を打って表情を明るくさせる。
「地図と照らし合わせて、怪しそうな場所を重点的に調べましょう?
――ねぇ瓜生? ちゃんとマッピングはしてあるんでしょ?」
「え、えぇ、勿論です」
歯切れの悪い瓜生の答えに怪訝な顔をするキョーコだったが、彼女から地図を受け取って、その理由を即座に理解した。
それは方角、高低差や空間の広さ、調査のチェックポイント等が正確に書き込まれた素晴らしい出来、とも言って良い地図だった。
――それが一本も真っ直ぐに引けていない直線の集まりで出来ている以外は。
「‥‥オーケー、ありがと。思わずクラッと来そうなステキな地図ね?」
「――精進します」
こめかみを押さえて苦笑するキョーコに対して、瓜生は面目無さそうに項垂れるのだった。
悪戦苦闘しながら地図を読み取ると、ある一部のエリアに不自然な空白地帯がある事に気づく。
無論、空調や動力などに必要なスペースである可能性もあるが、その場所はそれを差し引いたとしても、明らかに空間が開きすぎていた。
(「罠の仕掛け方とか、こういう部屋の構造も‥‥パターン化してる。
――今なら、あの子の合鍵がポストのどの部分に貼り付けられてあるのか、分かるような気がする」)
瓜生は心の中でそう呟くと、その壁の周辺を調べ始める。
明らかに「それらしい」囮を避け、隠されたもう一つのレバーを発見し、引っ張る。
――ビンゴであった。
重々しい音を立てて、隠された扉が姿を現し、開いた。
扉の中から現れたのは、今まで回って来た部屋とは明らかに違う雰囲気を持った部屋であった。
中には最新式の端末と整然とファイルされた資料が並んでおり、予備電源が作動しているのか、薄暗いながらも照明も点いている。
「明らかに重要度の違う部屋だな‥‥」
クリスが銃を構えながら中の様子を伺う――罠の類は見当たらない。
「生憎私はこういうのは専門外だけど、調べてみましょ?
何か重要そうなものがゴロゴロしてそうだし」
キョーコがファイルの一部を手に取り、パラパラとめくってから肩を竦めた。
その中身は、彼女にとっては複雑な暗号と、何か様々な言語で書かれた専門用語の羅列にしか見えない。
だが、逆に言えば暗号と複雑な言語の組み合わせをする必要がある程の資料だという事だ。
四人は協力して、資料を開き、端末を操作して何か重要なデータが残っていないか調べ始めた。
――その後数十分間、能力者たちは資料との格闘を続けたが、思いの他暗号は複雑であり、どうにかそれらの内容が、何かしらの人体実験、そして能力者に関する情報である事しか分からなかった。
「――忌咲さんなら、もう少し詳しく分かるかもしれませんね」
細かい文字を見て疲れた目を解しながら、ティーダが適当な資料を取り出して鞄に詰めていく。
結構な数のファイルがあったが、手分けして持つ事で部屋の中の資料の三分の一程を持ち出す事出来た。
「――では、そろそろ合流しましょう」
ティーダの呼びかけに三人は頷く。
既に担当するエリアは調べ尽した。
隠し扉等も、これ以上見つかりそうもないため、B班の面々はA班の四人と合流すべく、来た道を戻っていった。
「皆さん、ご無事で何よりです」
「まぁね。そっちも怪我が無くて良かったわ」
B班の無事な様子を見て嬉しそうに駆け寄ってきた結城に、キョーコは気さくに微笑みかける。
互いに多少の傷は負っているものの、殆どかすり傷と言っても良い程の軽傷であった。
忌咲が練成治療で皆の傷を癒している間に、互いに自分達の成果を確認し合う。
「――そう言えば忌咲さん。こっちでこんなのを見つけたんですが‥‥」
「え、何? 何か重要そうなデータでも見つけたの? どれどれ――」
忌咲が興味深げにB班の四人が持ってきた資料を読み始める。
――その顔は次第に真剣なものになっていき、額にはじっとりと汗が浮かび始めた。
そして全てを粗方読み終えると、忌咲は深い溜息を吐いた。
「‥‥大まかな概要しか分からないけど、多分アニスが独自に開発した、スキルの雛形だと思う。
多分、大量の錬力と引き換えに、エミタの限界性能を強引に引き出すような」
彼女の言葉に全員の顔が驚愕に染まった。
新スキルの開発というものがどれだけ難しいことか、能力者たちは知っている。
新たなクラスが開発された際を除けば、既存クラスのスキルは殆ど増えない事がその証拠だ。
スキルの開発とは、KVやSES兵器など比べ物にならないほどのコストと時間、技術が必要なのである。
「それだけバグアの技術力が凄まじいという事でしょうか?」
「ううん‥‥違う」
リディスの疑問に忌咲は頭を振った。
「――これ、殆ど全部アニス一人が作ってる。
そして、それだけじゃない‥‥その際に必要な人体実験や臨床の類も、『全部自分自身の体を使ってる』」
「‥‥ど、どんな実験だったんですか?」
「――一部聞いただけでも、今日は何も食べたくなる事請け合いだよ」
結城の言葉に答える忌咲の顔は、僅かに青ざめていた。
それは例えて言うならば、毎日死に至るギリギリまで自らの体を切り刻み、さらにその体にほぼ致死量の劇薬を注入し続けるようなものだった。
――それも、麻酔無しで。
普通の科学者――いや、人間ならば考える事など到底出来ないような内容だ。
「――だけど、それ以上に発想が凄いよ。
普通の科学者だったら、全く考え付かないような着想から、全く想像も出来ないような数式を使って最上のデータを導き出してる。
‥‥ちょっと、嫉妬しちゃうな」
アニス・シュバルツバルトという科学者は、紛れも無い天才であるという事がはっきりと証明出来るかのような、そんな資料であった。
――凡百の科学者ならば、到底到達出来ない高みを、事も無げに渡る様を見せ付けられたようで、忌咲は思わず自らの正直な気持ちを口にしていた。
それ以上に忌咲が悔しいのは、これほどの才能を持っていたアニスの人生が、修復しようも無いほどに歪んでしまった事だ。
――これほどの才能が人類にいたならば、どれだけの人々に恩恵を与えただろう?
――どれだけの人間を救い、どれだけの人間に感謝されただろう?
それを思うと、忌咲の胸に何とも言えないような切なさが過ぎった。
「――けど、モノがモノだから、これを提出しても実際に開発出来るかは分からないかな」
忌咲はこのスキルについての考察を、そう締めくくった。
だが、仮にこれが実用化されなかったとしても、データとしては非常に貴重だ。
(「彼がいたら、泣いて悔しがったかもね」)
忌咲たちと同じくアニスと深い因縁を持ち、強化人間の技術に並々ならぬ関心を抱いていた友人の顔を思い出し、思わず苦笑する。
「しかし、何で奴はこれほどの資料を残していったんだろう?」
クリスが独り言のように呟く。
――確かに妙だった。
これほど膨大な量のデータやサンプルを残して行く理由が無い。
何か、考えがあっての事なのか、それとも罠や気紛れなのか?
「――それを知るためにも、この先に行く事が必要だと言う事か」
アンジェリナの指す方向には、一枚の扉があった。
残る未調査の部屋は、その場所のみ。
――すなわち、このアジトの主であるアニスの部屋だ。
部屋に入ると、つんとした消毒液の臭いと、それに混じった濃い血臭が鼻を打った。
簡素なベッドと机、そして本棚が置かれた殺風景な部屋だ。
ベッドにはあちこちが血で汚れたシーツが残されたままになっており、床のあちこちには赤黒いシミが出来ていた。
「これは‥‥アニスの血か?」
クリスが手に持っていたルミノールを撒くと、青白く発光し、床のシミが血液だという事を教えてくれる。
――思えば、メンテナンス不足のエミタでの度重なる戦闘や、自らへの人体実験を強行し続けてきたのだ。
何かしらの弊害があってもおかしくは無い。
「エミタ、か。こんなモノの手入れを怠るだけで人が‥‥恐ろしいものだな」
クリスは改めて自らの中に埋め込まれた物質の不安定さを実感した。
そして、机の上を調べていたティーダが、仲間達に向かって呼びかける。
「皆さん、ちょっと来て下さい」
机の上には、何枚もの便箋が置かれ、その一枚目には『能力者の皆へ』と書かれていた。
「アニスからの手紙? 何が書いてあるの?」
「――どうやら私達宛てのものもあるようですね」
忌咲とリディスが興味深げに覗きこむ。
他の仲間たちも一旦捜索を止め、机の上の手紙を注視する。
ティーダは一つ頷くと、丁寧に折り畳まれた手紙を広げた。
『傭兵のみんなへ――これはボクの心からの思いと、甘えです。
だから、ボクはこれをここに置いて行きます‥‥ヒトの情を全て捨て、ただ狂童として往くために。
――まず最初に、ボクはヨリシロにはされていません。
今までの事も、そしてこれからの事も、アニス・シュバルツバルトという一人の人間が起こしたものだという事を覚えておいて下さい』
「そんな‥‥っ」
それを見たティーダの顔が悔しげに歪んだ。
ようやく罪を自覚し、自分達の目の前で年相応の子供のように泣いた少女が、今でも罪を重ね続けているとは考えたくなかった。
ショックだった――けれど、ティーダは目を逸らさずに手紙を読み続ける。
『幾千、幾万の罪を、ボクは今まで積み重ねてきました。
しかも全くそれらを罪と自覚する事無く。
もうそれは、死しても尚許される事は無いものです。
だけどみんなは、そんなボクを殺さずにいてくれました。
その上、ボクを許して、手を差し伸べてさえしてくれました。
――本当に、ありがとう。
ボクは、サイゾウ君とみんなから、一生分の幸せを貰いました』
「アニス‥‥」
締め付けられそうになる胸を、瓜生はぎゅっと抑えた。
『――だからボクはもう満足です。
もう、これ以上幸せや安らぎはいりません。
元から、多くの人々の幸せを奪ってきたボクに、そんな権利は無いのですから。
――ボクは、バグアの信奉者。
人類の敵にして、幾千、幾万の人々を実験体として弄び、切り刻み、その命を奪った『狂童』。
おじーさまが最期までおじーさまであったように、サイゾウ君が最期までボクを思ってくれていたように‥‥。
――ボクも最期まで、アニス・シュバルツバルトとして『悪』を貫こうと思います。
死の今際の際まで人々に仇成し、罪を重ね、人類の記憶に「アニス・シュバルツバルト」という『悪』を、永遠に刻み付けるために――ボクは往きます。
――正直に言えば、辛いです。苦しいです。今すぐにでも止めたいです。
でも、だからこそボクは行かなくちゃいけません。
その苦しみこそが、ボクの罰なのです。
願わくば、みんなと戦場で相見える事がありませんように。
さようなら、そして――改めてありがとう。
Dear.アニス』
「ふ〜ん‥‥報告書でかなりイカれた奴だと思ってたけど、普通な女の子な面もあるのか〜」
顎に手をやりながら感慨深げに呟いたキョーコの表情は、ふっ‥‥と真剣なものに変わる。
「‥‥本当に情が捨てられるなら、こんな手紙もいらないだろうに」
アンジェリナもまた、アニスの手紙に対して思いを巡らせていた。
「強いな‥‥だが、それは間違った強さだぞ――アニス・シュバルツバルト」
誰一人として幸せにならない強さなど、空しいだけだ。
そして、罪に塗れなければ償えない罪など、決してありはしないのだ。
「全く‥‥ちゃんと心、残ってるんじゃないか。
心は‥‥捨てた所で無駄だよ。
だって、いくらでも‥‥何度でも、新しく湧き出してくるモノだから‥‥」
手紙を読み終えた結城は、思わず呟いていた。
彼は、自分の事を正義とは思っていない。
むしろ、アニスに自らの想いを押し付ける以上‥‥自らもまた悪なのだ。
「だから僕は、僕の理由で‥‥僕の悪で、君を許し、手を差し伸べ続ける。
君が悪を貫くと言うのなら‥‥その悪ごと、僕の悪で打ち砕き、包み込むその為に、全力を尽くす。
それが、僕の誓い‥‥僕の貫く「悪」、だ」
そう続ける結城の瞳は、何処までも真っ直ぐな光に満ちていた。
そして、その手紙の後には、アニスと面識のある能力者たちに向けて、追伸としてメッセージが残されていた。
『――リディス君へ。
キミの事は、サイゾウ君から何度も聞かされました。
その時の彼の顔は、物凄く楽しそうだった事を覚えています。
――ボクには、恋愛とかそういうものは分かりません。
でも、サイゾウ君の心の中には、確かにキミがいたという事を覚えていて下さい。
それこそが、ハットリ・サイゾウという人間がいた証になると思います。
そして、「アホ」と言ってくれてありがとう。
まるで、サイゾウ君みたいに厳しくて、優しい言葉でした』
――それを読んだリディスは、一筋涙を流した。
あの夢は、自らの幻想では無かったのだと、改めて実感する事が出来たから。
その涙を拭うと、リディスは目を閉じながら嘆息した。
「‥‥。
あなたは、とんだ勘違いをしているようですね。
アニス。貴女がここに全てを置いていくと言ったところで、私たちはそれをここから貴女の元へ持っていきますよ。
間違いは叱ってあげなければいけませんから。
‥‥彼ならそうするでしょうから。
また代わりに阿呆と叱って、そして許してあげますよ。あなたを」
――そう、何度も‥‥何度でもだ。
『――忌咲君へ。
キミを同じ科学者と見込んで、頼みがあります。
この机の引き出しに、ボクの研究データと、今までボクが殺して来た人達の個人情報と、施した実験についてのデータを残しておきました。
――これを、キミに託します。
そして伝えて下さい。
――ボクが殺した人々の事を。
――ボクの研究の恐ろしさと、おぞましさを。
二度と、バグアの技術力に魅入られる愚者が現れないように』
研究者にとって、決して他人に明かす事は無く、命に次いで大切な自らの研究データ。
それを託されるという事がどれだけ重要な事か、忌咲ははっきりと理解していた。
「――確かに、受け取ったよ。
見解の相違はあるけど、あなたの事は嫌いじゃないからね」
データディスクを手に取り忌咲は頷く。
軽いはずのそのディスクは、どこかずしり、と重たかった。
『――瓜生おねえちゃんへ。
抱きしめてくれてありがとう。
許してくれてありがとう。
叱ってくれてありがとう。
どんな言葉を使っても、感謝し切れません。
おねえちゃんのおかげで、ボクは決意を固める事が出来ました。
あの時の温もりを、残り短いけれど、ボクは一生忘れません。
ありがとう‥‥そして、さようなら』
「そう‥‥それがあなたの決意なのね。
――私は、これからも心の底からあなたの事を全て受け入れるつもりよ。
それにあなたが挑戦するのなら‥‥。
私が受け入れたせいで、あなたが苦しんで、そうしなければならないんだとしたら‥‥」
――後は、意地の張り合いだ。
瓜生がアニスを許し続けるか、アニスが瓜生の気持ちを跳ね除けるか、二つに一つ。
それだけの事だ。
もう、小難しい話をする段階では無い――瓜生はそう思っている。
自分が受け入れた事が、アニスの背を押してしまった事には、勿論責任を感じている。
だが、心は苦しくは無い――自分は心の底から、アニスを許したのだから。
『――ティーダ君へ。
サイゾウ君の技を盗むほど、何度も彼と戦ってきたキミに託す願いは唯一つです。
――サイゾウ君の器を、いつか必ず開放してあげて下さい。
彼なのに、彼じゃない「サイラス」の姿を見るのは、苦しいです。
だけど彼が「器」になってしまったのは、ボクのせい。
――「彼」はボクの罪の証。
だからボクは、サイラスの心が変わらない限り、傍に置いておこうと思います。
だけどボクが死んだら――その時は、お願いします』
「‥‥必ず」
あまりに強く握り締めたティーダの拳から、血が滴り落ちる。
アニスの、サイゾウの行いは決して許される事では無い。
だがそれは、彼らなりの思いの結果だ。
――それを踏み躙るバグアは、遥かに許せない。
だからこそその約束を果たすのは勿論、アニスがアニスであるうちに、想いをぶつけ合った決着を着けることを、ティーダは望んでいた。
『――クリス君へ。
キミがボクに向けた殺気。
――それを思い出すと、恐怖で体が震えます。
思えば最初から最後まで、ボクに明確な殺意を向けていたのは、キミだけだったかもしれません。
再びボクのような人間が現れたなら、その怒りと殺意をその人間に向けて下さい。
もしかしたら、彼はボクのよりも早く、罪に気づく事が出来るかもしれません。
――最後に、貴方の弾丸がボクの心臓を貫かん事を』
「――ふざけるなっ‥‥!!」
歯を食い縛りながら、クリスは搾り出すように吐き捨てた。
アニスを殺す――その決意は、最初から変わっていない。
――けれどそれ以上に、殺す、殺さないなど関係無く、クリスは何処か勘違いをしているこの小娘を張り飛ばしたい衝動に駆られていた。
理由は分からない――だが、何か一言言ってやらないと気が済まない。
クリスは、何としてもアニスに会う事を心に決めた。
調査を終え、能力者たちが地上に出る頃には、太陽は南天で晴れ渡り、欧州の突き抜けるような空が広がっていた。
「ん〜っ――穴倉這いずり回った後に見る景色としては格別ね」
キョーコが調査で凝り固まった体を解すように伸びをする。
そう――それは美しかった。
思わず感嘆の声や、笑顔が浮かんでしまう程に。
「あの子にも‥‥見せてあげたいな」
結城は懐からフルートを取り出すと、美しい音色を奏で始める。
――それは夢の中で、彼が彼女に弾いてあげたケルトの民謡。
陽気だけれど、何処か物悲しいその音色は、森と空に溶けていった。