タイトル:セブンデイズマスター:敦賀イコ

シナリオ形態: ショート
難易度: 不明
参加人数: 6 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2012/02/05 00:23

●オープニング本文


 男は己の処遇に強い不満を持っていた。

 男は高所得世帯に生まれ、この戦時下に餓えも寒さも覚えず育ち、一流と呼ばれる大学を卒業し、高級官僚となった。
 その男が、エミタの適合者として能力者になったのは数年前。
 男はこれまでの学歴、官僚としてのキャリアから、すぐに組織の重役に抜擢されるだろうと信じて疑わなかった。
 だが、男に割り振られる仕事は簡単なキメラ退治や事後処理ばかり。
 男がそれに不満を抱かないわけがない。
 自分は『選ばれし者』であり『特別』なのだから、当然のごとく、地位の高い人間に認められ、評価され、賞賛されるべきだというのに、なぜ『下っ端』がやるような『つまらない』仕事ばかりしなくてはならないのか。
 自分が認められない、理解されないのは周囲が無能だからである。と、男がそう思い込むのに時間はかからなかった。

 実際のところこの男は……
 学歴とキャリア、実家が高収入世帯であることを鼻にかけ、他者の失敗を無能と嘲笑するくせ、自分の失敗については詭弁と自己弁護を繰り返し、反省というものをしない。また、少しでも自分に否定的な意見を言われれば、論点・争点とはまったく別物である相手の人格を激しく攻撃し、一方的に貶め罵り勝ち誇る。
 理想的な自己を思い描き、他人は全て自分のために、自分の自尊心を支えるためだけにいると心の底から思ってる、そんな人間だった。
 そのため、上辺こそは取り繕うことに長けていたが、他者への共感と感謝は皆無である。
 ひどく良心に乏しい利己的な人間。
 それが、他人から見た男の姿だった。

 しかし、男からすれば『自分』ではなく『周囲』が悪い。
 自省を知らないのだから、そもそも『完璧である自分』に悪い所などないと思い込んでいるのだから、何一つ改善しようが無い。
 鬱屈したやり場の無い怒りと身勝手な疎外感を募らせ、苛立ち、敵であるキメラや強化人間を、目溢しされる範囲でいたぶるなどしてそれらを発散させていたが、根本から解消されることはなかった。

 やがて、男はついに「今の人類には自分を正しく評価できる者がいない」として、人類を見限り、裏切る決意を持ってバグアとの接触を図った。

「今から、一週間以内にこの市内の人間を皆殺しにしてきます。そうしたらバグアの陣営に加えてくれますか?」
「能力者ならそれくらい造作も無いことでしょう。それよりもその一週間、あなたが生き残ることが出来れば、ということにしましょう」
「本当に?」
「ええ、その間、私はあなたを殺すこと『だけ』に集中します。他の建物や人を巻き込んだりするのでは、あまりにも簡単ですから」

 男は驕っていた。
 一週間程度ならばどうということはない。『特別な』自分であれば、能力者として人間を遥かに超えた能力を手に入れた自分であれば、何も怖いものは無い、と。

 それでも男は警戒し、慎重に慎重を重ねた生活を送った。
 三日が過ぎ、周囲に何の異変も無いことに首を傾げたものの、自分の隙の無さによってバグアが手を出しあぐねているのだろうと、そう解釈した男はその日、上機嫌で酒を飲み、自室として使用しているマンションへと帰ってきた。
 出かけにドアに挟んでいった小さな紙片が位置を代えずにあることを確認し、いつものように、三つの錠をはずして部屋の中へと入り、素早く閉める。
 高級家具に囲まれているもののまったく生活感の無い、見慣れたはずのその部屋に、男は異変を見つけた。

「あと四日」

 とだけ書かれた紙切れがテーブルの上に乗っている。

 もちろん、男が書いたものではない。
 男は冷水を浴びせられたかのような急激な寒気を覚え、身体を巡っていた酔いが一気に冷めるのを感じ、その場に座り込んだ。
 部屋の中を見回しても、進入された形跡など見当たらない。

 と、その時、マンションの共用廊下をゆったりと歩く足音が響いた。
 男は額に脂汗を滲ませ息を殺す。
 やがて足音は隣の部屋の前で止まり、続いて鍵を開ける音。
 ただ単に、隣室の住人が帰ってきたに過ぎなかったが、その生活音が男の不安を煽った。
 あれは隣人に成りすましたバグアなのではないか?
 一度、そう思い始めると自分を取り巻く全てが疑わしく見えてくる。
 例えよう無く重苦しい恐怖が男にのしかかる。

 この三日、バグアが何もしてこなかったのは、ただ獲物を観察していただけであり、残された紙切れはいつでも殺せるぞというメッセージに他ならない。

 自分はいつだって誰よりも上に立ち見下す側だった。あがきもがく無能者を嘲笑する側だった。
 今の今まで、男は自分が殺されるなどと考えたことは無い。
 だが、人類よりも各段に高い技術と能力を持つバグアに狙われ『自分が』殺されようとしている。
 男はその事態と底なしの恐怖にようやく、バグアとの『取引』が過ちでしかなかったことに気付くが、時既に遅し。

 チラつく蛍光灯の下、せわしなく目線をさまよわせる男の前に、家具の隙間からゴキブリが這い出してきた。
 平素であれば気にも留めない、くだらない虫の姿に、心臓が飛び出すのではないかというほど驚き、バグアが送り込んできたキメラなのではないかと呼気を荒くする。
 じっとりと滲む汗、酷い喉の渇きに水を飲もうと水道を捻るが、その水にも毒が含まれているのではないかと脅え、一滴も口にすることが出来なかった。

 その日、男は一睡も出来ずに夜が明けるのを待った。
 何が変わるわけでもなかったが光を待ちわび、日が昇り朝の雑踏を感じられるようになった時間を見計らい、男は外へと出る。
 だが、平和そのものであるはずの町を歩く人間、空を飛ぶ鳥、ありとあらゆる全てが自分の命を狙っているように見え、思え、そうだと確信し、半狂乱になってULTの施設に駆け込んだ。
 そこで男は、バグアとの『取引』を打ち明け、他の能力者たちに保護を願った。

 男は施設内の留置所に入れられ、事情聴取が行われた。
 能力者が多く集まる施設、バグアの侵入は不可能だろうと思われる場所で男は少しの落ち着きを取り戻し、少しの睡眠をとった。
 その間に差し入れられていた食事のトレーを持ち上げればその下には

「あと三日」

 と書かれた紙切れがあった。
「うわぁぁぁぁぁぁあああああ!!?!」
 トレーをひっくり返し男が恐怖に引きつった悲鳴を上げるのと同時、市内にキメラが現れたという一報が飛び込んできた。
 慌しく準備を整え能力者たちが次々と出動して行く。
「頼む、頼む、ボクを一人にしないでくれ! 頼むぅ!!」
 男の声が留置所に響きわたった。


●参加者一覧

水無月 紫苑(gb3978
14歳・♀・ER
天羽 圭吾(gc0683
45歳・♂・JG
サウル・リズメリア(gc1031
21歳・♂・AA
那月 ケイ(gc4469
24歳・♂・GD
イルキ・ユハニ(gc7014
27歳・♂・HA
ヴァナシェ(gc8002
21歳・♀・DF

●リプレイ本文



 男の行為は既に組織上位に報告され、施設への内部調査の開始と職員全員への監視命令が下されている。
 遠くないうちに総入れ替えとも言える大規模な人事異動が行われるだろう。
 小規模な下部組織として地域に沿った活動を行っていた施設である。その施設職員が入れ替わるとなれば、地域住人の理解と支援を得るために長年かけて積み上げてきた、職員の努力、人脈、その全てが水泡に帰す。
 事の発端である男の性格や事情などは考慮の対象外であり、『利敵行為』があった、この事実のみが組織上位に切捨てともいえる決断を下させた。

 施設職員関係者は誰も口にはしないものの、男の死を願っていた。
 留置所の片隅で脅え震える男。
 ぱっと見、一時的に見れば哀れみも覚えるだろう。
 だが、数年来ずっと男の自己中心的な振る舞いに悩まされ続け、挙句の果てに自分たちの活動と努力成果が全て台無しにされた彼らからすれば、男は『万死に値する』のだ。
 この施設に縁のない、たまたまその場にいただけの傭兵達に男の処遇を一任したのは、彼らに強靭な自制心があったからこそだった。



「バグアと取引をした男の処置か‥‥。まぁ、放っておく訳にも行かないよな」
 自分の力で皆を守るため、と能力者になったヴァナシェ(gc8002)は件の男も守る対象として意気込みを新たにする。
 男は利敵行為を行った。断罪されてしかるべきである、と天羽 圭吾(gc0683)は思うが、それは社会の法に基づいて行われるべきであり、一介の傭兵に過ぎない自分達には、裁く権限はないことも十分承知していた。
「‥‥生きたいと望み、助けを求めるのであれば、見殺しにすることはできないな」
 この戦時下に法などあってないようなものかもしれないが、バグアと同じにならぬよう、人としての一線は守りたい。
 そう考える圭吾の言葉に同意し那月 ケイ(gc4469)が深く頷く。
「ああ、バグアに付こうとしたが、それを間違いだって本人が認めて後悔してるなら、見捨てるワケにはいかねぇよ」
「『まだ』三日もあるんだゆっくり考えるとしようや」
 目深にかぶったフードの下でイルキ・ユハニ(gc7014)がシニカルに笑ってみせた。
 三日間守り通す自信はあったがイルキはその後を危ぶんでいた。三日が過ぎれば男は裏切りの権利を手にすることになる。
 当人にその気が無くとも、三日過ごしてサヨナラとは簡単には行かないのではないか。
 危惧はあれども、男への対応を一任された傭兵達の総意として『男の生命を守ること』が決定していた。

 男の直接の護衛にヴァナシュと紫苑、不審者の警戒にイルキと圭吾、バグア迎撃をケイとサウル、といった具合に役割を分担して行動をとることとし、疲労を感じたら各班協力し無理せず休憩を入れる。夜間の護衛は3時間ずつ、各班順にローテーションを組むことを決めた。
 イルキの提案により、男の身柄を留置所から人払いできる場所へと移動させ、期限最終日まで、男と外部の人間との接触を遮断し、食事から身の回りの世話まで傭兵が受け持つこととした。毒殺を危惧し、食料の買出しにはイルキ自らが出向くといった徹底振りである。
 滞在することになる部屋と男に対し、サウル・リズメリア(gc1031)探査の眼を使用し、罠の有無を調べるが、これといって何かを仕掛けられている様子は無く、盗聴器なども発見されなかった。

「ホント無様だよねー。なんつーか自業自得?」
 男の直衛についた水無月 紫苑(gb3978)が笑顔で毒を吐く。
「守ってやってもいいけどこっちも危険冒すわけだし、相応の対価ってもんがあるよねえ?」
 嘲笑いつつ、実に楽しそうに親指と人差し指で輪を作る。
「か、金、金ならあります! ボクのパパとママがいくらでも出してくれるっ」
 男が持つ最大の後ろ盾である金銭。男にとって他人を支配するための力。
 それが通用するだろう相手の出現に男は嬉々とした表情を浮かべ、紫苑の手を両手で握り締めた。
 冷たく汗ばんだ掌の不快さに紫苑の笑顔が引き攣る。
「俺達が最後まで貴方を守るよ。だけど、約束の時が過ぎたらバグアとは決別する事、いいね?」
 ヴァナシェが釘を刺し
「此処で死ぬか、生き延びる方法か、だよなー」
 サウルは男に傭兵達と協力して生き延びるか、バグアに協力して死ぬか、その選択を迫った。
「ああ、勿論。ちょっとした気の迷いだったんです」
 男にバグアにつく意思がない事を確認した紫苑は、手を自分の衣服で拭きながらぞんざいに言い捨てる。
「ま、金の分くらいは働いたげるよ」
 そこへと圭吾が合流し、取引をしたというバグアについて尋ね、その名を聞いてサウルと圭吾が表情を曇らせた。
「あれは、面倒なバグアだ」
「めんどくせーな」
 同時に同義のことを口にする二人。
「ただ普通に人を殺す、という手段は使わないだろう」
「‥‥あー、とりあえずあんた、俺達を巻き込むように努力しろ。そうすりゃ、敵の取引違反っつー事で。作為的でも、俺達が敵の攻撃に巻き込まれたらいーんだよ」
 サウルが思いつきを口にし、圭吾は眉根に皺を寄せて考え込む。
(殺す、と言っても‥‥自分で手を下す以外にも手段がある。未来も居場所も無いと、絶望させて自殺に追い込んだり、「味方を殺せば助ける」等唆し、味方に粛清させることだってできる)
 ただ、その危惧を表に出すことは男の手前憚った。

 ヴァナシュは付きっ切りで男を護衛しながら、不安を和らげるために、と会話を持ちかける。
 今までどうやって生きて来たのか、等々。
 男はその従順とも言える態度に気を良くし、また、護衛に六人もの傭兵が付いたことに安心を覚え、尊大な態度を取り戻していた。
 そんな男が語る話といえば、自慢と道理の通らない自分勝手な不平不満。
 自分だけは傷つかないように、自分を庇い、自分に甘え、かつ、他人にも甘える。自分のためであれば他人の犠牲などお構いなし。そんな姿勢がありありと見えるものばかりだった。
 傭兵達、話を聞いているヴァナシュすら見下すような内容まであった。
 だが、彼女はじっと男の話に聞き入り、合間に諭した。
「人が一人で出来る事なんてたかが知れている。だけど、二人以上でやれば、何倍も色んな事が出来るんだ」
 これを機に、男が協調を覚え、色々な人々と仲良くなれればいい、というヴァナシュの思いがその言葉にこめられていた。
「雑事など無能にやらせればいいんですよ。ボクがやることじゃない。ああ、そうだ、今度パパに頼んで政治家の●●先生に紹介してあげましょう。きっと気に入られますよ」
 男は言葉と思いを一笑に付し、好淫そうな笑みを浮かべてヴァナシュの胸元に目線を注いだ。

 その間、紫苑は施設職員から名簿を借り人員を把握する。
 こちらに接触を試みようとする者がいた場合には、十分に警戒する必要がある、と。
 また、バグアが変装し、既に潜入している可能性も否定できないため、名簿等と照らし合わせ怪、疑わしい者に対しては能力を使用してまでも徹底的に調査していった。
 イルキは男に食事を運んだ職員を探し、誰が紙切れを仕込んだのか話を聞きだそうとしたところ、事務職の女性が自分がやったのだと淡々と白状した。
 極力感情を抑えた声ではあったが、言葉の端々に怒りと憎しみが滲み出していた。
 おそらくは、とそれを察していた圭吾は、嫌がらせ等、精神的に追い詰める意味行為が行われないよう、職員や駐在の動きに注意を払う。
 ケイはバグア襲撃を警戒しつつ、女性が入りにくい場所での護衛や食事の毒見等を率先して引き受け、男とは積極的に会話を行い、緊張をほぐし信用が得られるように努めた。


 こうした、傭兵達の慎重な行動と警戒態勢、献身的ともいえる対処が功を奏して、何の問題が起こることなく三日が過ぎ、ついに期限最終日を迎えた。


 傭兵達と男は、バグアと直接交渉するために、取引をしたと言う場所、町外れの廃工場へと向かう。
 一足先に現場へと向かったイルキは下調べを行い、周辺に埋没兵などがいないことを確認していた。
 自衛のための装備、防具は兎も角として武器までも要求した男に、圭吾がやや煩わしそうに答える。
「自分の力だけではバグアから身を守れないと判断して助けを求めたんだろう? その助けを求めた相手の力を信用できないってのか?」
 彼が男から武器を遠ざけようとしたのは、自殺の可能性や錯乱して仲間を攻撃する危険を考えてのことだった。
 だが、男はそんなことを知ろうとも考えようともしない。結局、刀を渡すことで落着した。
 ケイは盾を男に手渡し念を押す。
「貸すだけ。ちゃんと返してくれよ‥‥無事に帰るぞって事だ言わせんな」
 生き延びるのだと。

 海沿いの廃工場
 潮風に晒され、風化し、錆びて崩れた壁の穴から、冬曇に鈍くのっぺりとした空と海が見えている。

「やあ、皆さん。お揃いで」
 その穴からひょっこりと現れ、気安い笑顔で挨拶するバグア、春遠 朱螺(gz0367)
 彼から男を隠すようにして並び立つ傭兵達。

 交渉役としてイルキが一歩進み出て声をかける。
「一度約束したもんを反故ってのもアンタにはムカつく話だろうがな」
 世辞ではなくこれは本意からの言葉であった。
「コイツへの罰をテメェが下すか、俺等人類が加えるか。その取り合いってのはどうだろうな。守りきり期間を過ぎれば此方で罪の償いをさせる。正直、アンタにゃ何の利点もねえが、遊びに付き合ってくれって感じだ」
 男以外は巻き込まないこと、7日という制限には敢えて触れず、それを満たした所で此方の勝ち、という言葉遊びに持ち込もうとする。
「あー、もうこいつの事は諦めろ」
 サウルがそれに続く。
「俺達巻き込まれたっぽいから、取引内容と違ってるだろ」
「ああ、そういう解釈も可能でしょうねえ」
 微笑みながら頷く春遠。
「なんで、コイツをわざわざ追い詰めた?」
「あら? 一度、期日をお知らせしただけですが」
 ケイの問いに、悪気は無い、といった具合で春遠は小首を傾げた。
「白々しい、けどな」
 ケイは後方に控え、ヴァナシュと紫苑に守られている男にちらりと顔を向ける。男にバグア側に付く意思がない事を告げさせるためだ。
「あ、貴方との取引は間違いでした、バグアには屈しません!」
「‥‥って事だから、今回は手引いてもらえねーかな」
「こっちも仕事だからね。大人しく退いてくれると楽なんだけど」
 ややどうでも良いといった風だったが、紫苑も畳み掛けるように続け
「クーリングオフしてくれないかな。もうこの男には興味を失う頃合いじゃないか? 人間観察もできただろうし‥‥」
 圭吾が一押しする。
「ええ。構いませんよ。退きましょう」
 拍子抜けするほどあっさりと、春遠は傭兵達の言葉を受け入れた。
「その方が今後、人間社会で生きて行けるかといったら否でしょうしね。『利敵行為』、ご実家でも庇いきれますかね? そうそう、聞けば今度の国政選挙でお兄様が立候補なさるそうじゃありませんか。そのために各方面に大金を動かしておられたようですが‥‥それも無駄になりそうですな」
 これまで、男を支えてきたのは自身の能力ではなく、親の金とそれで得た社会的権威。
 バグアとの取引によりそれら全てを、自らの所属する社会を裏切った男に何が残るというのか。何も残るはずが無い。
 虚飾と借り物の威光により万能感を満たし続けてきた男は、ようやく失ったものの大きさに気付き、その場にがっくりと膝を着く。
「失敗したら反省してまたやり直す、それでいいじゃねぇか!」
 ケイが眼光鋭く男を一瞥し、春遠の言葉から気を逸らせようと声を上げる。
「分からないなら帰ってから分かるまで説教してやる、覚悟しやがれ」
「いやもう、個人でどうにかできるような範囲をはるかに超えた影響が出てますけどね。既に情報はULTやUPCは言うまでも無く、公安、警察、果てはメディアにまで流出していますし」
 春遠が気楽な調子で続ける。
「顔や名前を変えて逃亡? それは無理でしょうな。彼の行為はこの地域の現行法で外患誘致罪にも該当しますからね。誰もが血眼になって追うでしょう。然るべき施設に収監され、裁判が行われるでしょうがこのご時勢、極刑判決があってもおかしくはないのでは?」
「お、お、お前ら、ボクを助けろ! お前らはボクを守ると言ったんだからな!!」
 社会的に抹殺されるだろう。その春遠の言葉に男は取り乱し、ヴァナシュと紫苑に命令する。
 ここまできてもまだ、男は現実と向き合おうとしなかった。
 他人が自分のために動き、他人が犠牲になって自分を守るのが当前としか考えていなかった。
「傭兵を殺したら助けてあげますよ。バグアの一員となって人間社会と決別すればいい」
「は、はははは、そうだ、人間なんて、社会なんてボクには必要ないんだ! ボクは無能で下等なヤツらとは違うんだからな!」

 男が初めて、他人の力を当てにせず、自分の力だけで行おうとしたことは、仲間を殺すことだった。

「待て、落ち着け!」
 刀を振り回す男をヴァナシュが取り押さえようとするが、死に物狂いの力に敵わず振りほどかれる。
「大丈夫だ、俺達を信じろ!」
 地面に叩きつけられながら、なお、落ち着かせようと声をかけるが、返ってきたのは明確な殺意と刃だった。
「ボクのために死ねえええ!!」
 イルキが咄嗟に子守唄で男を昏眠させる。
 男の手から落ちた刀を紫苑が蹴って飛ばし、息をついた。

「や、『敵』を殺さない? それでこそ、傭兵さん達だと思いますが‥‥」
 男を無力化するに留めた傭兵達に春遠は微笑みかけるが
「なぜ、悪いことは悪いと正さなかった。なぜ、彼に立ち向かわせようとしなかった、供に戦おうとしなかった。彼は無力な一般人ではなく、バグアと戦う力を持った能力者。そこまで過保護に守る必要など」
 顎を引き眉を吊り上げ笑う、その表情はこのバグアにしては稀有なことに苛立ちを顕わにしたものだった。
「私に一矢報いようとすらしないとは、実に──厭きれたものだ」
 廃工場内の空気が凍りついたように軋み、重さを持って傭兵達を圧す。
 だがそれも一瞬。
「──些か残念ではありましたが、これにて失礼します。クーリングオフは成立してますしね」
 いつも通りの和やかに、見るものの安堵を誘うような笑顔で春遠は会釈をし、ゆったりとした足取りで廃工場を後にする。

 傭兵達は警戒を続け、やがて、何事も起こらないと悟るとめいめいに力を抜いた。

 確かにバグアを退け、男を守りきった。物的にも人的にも被害も出さずに済んだ。
 たとえ、この場で男が死を望んだとしても、物理的に止めることは十分に可能だろう。
 だが、と圭吾は思う。
(俺は言えるだろうか‥‥それでも生きろ、と)

 潮騒と海鳥の鳴き声が響く廃工場内。
 しばらくは誰一人として口を開こうとしなかった。