タイトル:<ゲルニカ −3−>マスター:朝霧カイト

シナリオ形態: シリーズ
難易度: 難しい
参加人数: 6 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2008/06/22 23:36

●オープニング本文


前回のリプレイを見る



 UPCの<能力者連続殺人事件>対策本部のものだ。

 最後の依頼はいたってシンプルなものとなる。



 アッシュ・オービタルを抹殺せよ。



 今回、われわれは情報をふたつ手に入れた。重要な情報と、あまり重要でない情報だ。

 まず、重要なほうの情報から話そう。
 トム・デラグエラ警視(殉職に伴い警部補から二階級特進)の自宅から、日記が見つかった。注目してほしいのは、前回のビル突入作戦の前日。このページに、少し見逃すことのできない記述がある。


『5月23日 曇天 7時起床 近所のカフェで朝食 コーヒー3杯と煙草3本。
 携帯着信あるも無視 帰宅後コーヒーとウォッカを1杯。それでようやくいつもの朝になる。

 1時間ほど部屋で沈思。
 持ち帰ったアッシュがらみの捜査資料を見直す。

 間違いない。
 捜査資料を読む限り、あるいはおれの職業的直感に従う限り、これしかありえない。
 アッシュはあそこにいる。
 グリーン通りに面した古い教会の鐘楼。
 7人目の被害者が殺された現場のすぐ近く。


 こんな単純な事実に気づかなかったなんて、おれは全くどうかしている。
 というより、気づかないふりをし続けていたのだろう。
 難儀なことだ。

 だが、奴がなんのためにこんな茶番劇を仕組んだのかは、やはり分からない。
 明日はビル包囲作戦だ。捕まえて本人に訊くしかないだろう。

 その時まで、おれが警官でいられればいいんだが』
 T・D

 以上だ。

 デラグエラ警視がどのようにアッシュの居場所を推測したかは不明だ。
 しかし、彼は以前より独自に本件を調べていた。
 本部からは独走、命令無視と非難されていたが、その捜査の過程でアッシュの居場所を突き止めたのかもしれない。

 われわれUPCではこの情報を重く受け止め、目標となる教会への調査を決定した。
 そしてこの調査員を、きみたち傭兵に依頼したい。

 対象となる教会の鐘楼は、以下のような構造になっている。

・数年前に使われなくなった教会で、昼夜問わず人は近くを通らない
・鐘楼は高さ20m、直径8mの単純な筒型をしており、頂上へは内壁の螺旋階段を登るしかない
・5階建てで、鐘のある屋上を含めると6つのフロアーがある。いずれも直径8mの丸い部屋で、家具等はない
・各部屋には窓が4つあるが、内部は暗さと死角の多さからよく見えない。人が隠れるだけの死角は十分にある


 次に。
 ふたつめの、あまり重要でないほうの情報を話す。
 これは重要でないというより、われわれとしてもどう解釈していいのか分からない情報といったほうが正しいかもしれない。

 前回の<ビル包囲作戦>の後、デラグエラ警部補の車がハイウェイから落下し、炎上した。そして内部からふたつの死体が発見された。
 ひとつが目標組織の幹部、ダグ・ピリオド。通称<黒い少年>。もうひとつの死体がトム・デラグエラ警視。
 このうち、デラグエラ警視の死体が、事件後、何者かによって持ち去られた。
 証拠品を搬送する業者は、
「ほんの少し、2秒から3秒、目を離したあいだに、黒焦げの死体はぱっと消えてしまっていました。まるで、マジックショーか何かみたいに」
 と証言している。
 持ち去り犯の動機、方法などは不明だ。


 きみたちも知ってのとおり、本件にはまだまだ謎が多い。
 だが、首謀者であるアッシュ・オービタルを逮捕することで、それらの謎は明らかになるだろう。
 当面の問題は、アッシュ本人の物理的脅威だ。
 彼の能力ほかの情報は、組織メンバーもまったくと言っていいほど知らなかった。
 まるで催眠術で、アッシュにまつわる記憶だけを思い出せなくさせられているかのようだ。

 アッシュという凶悪なテロリストを排除し、世界に安息をもたらすことができるのは、きみたちしかいないと信じている。
 それでは、健闘を祈る。

●参加者一覧

瓜生 巴(ga5119
20歳・♀・DG
ティーダ(ga7172
22歳・♀・PN
穂波 遥(ga8161
17歳・♀・ST
ジーン・SB(ga8197
13歳・♀・EP
蛇穴・シュウ(ga8426
20歳・♀・DF
ナナヤ・オスター(ga8771
20歳・♂・JG

●リプレイ本文

●穂波 遥(ga8161

 その夜、サンフランシスコは雨でした。
 私たちUPCの傭兵は、グリーン通りを歩いていました。市街は雨のせいでぼんやり滲んでいました。まるで大昔に沈んだ水底の都市みたいに見えます。
 私たちは傘を差して歩いていました。皆きびしい顔つきです。
「これが終わったら、皆で飲みましょう」暗い雰囲気を打ち消すみたいに、ティーダ(ga7172)さんが言いました。「いいバーを知ってるんです」
「いいねえ。飲もう飲もう」蛇穴・シュウ(ga8426)さんが笑います。「もちろん、連続殺人の起こらないバーでね」
「まったく、少し人が多く死にすぎました」ナナヤ・オスター(ga8771)さんが傘をくるくる回します。「どんな顛末になろうとも、ワタシの傭兵生活の中で一番の思い出になりそうですねえ」
 そうなのです。能力者連続殺人から発展した今回の事件は、警察・UPCをはじめ28名もの犠牲者を出しました。デラグエラ警部補も任務中に殉職しました。御霊が主のもとに正しく召されるよう祈るばかりです。
 そのデラグエラさんについて調査をすると、彼はレキシントンの戦闘で親類縁者をすべて亡くしていました。だから戦争以来、天涯孤独の身だったようです。彼と戦友たちの墓にもお祈りに行きました。
 それから、目的地である古い教会を調べると、気になることが分かりました。
 目的の教会は、アッシュ・オービタルの墓があるらしいのです。
 勿論、遺体はないのでしょう。彼は今も生きていますから。
 そのことを皆に話すと、シュウさんがぼやくように「うーん。私は何となくアッシュの正体が分かってきた気がするよ」と言いました。
 シュウさんはそのことについて皆に話しました。多分その通りだろう、と私は思いました。

 UPCの方があたりを包囲したという報告を待って、鐘楼に潜入しました。鐘楼は暗く、古く、おそろしく静まりかえっていました。
 鐘楼内部の視界は窓から入ってくる街灯が頼りです。部屋の隅の暗がりから、突然アッシュが飛び出してくるんじゃないかという想像にとらわれます。私たちは武器を構え、罠を警戒し、なるべく密集して背中を護りあう陣形で進みました。
 ですが、どれだけ進んでもアッシュがいません。
 デラグエラさんの日記は嘘だったのか、という予感がかすめます。
 私は進みながら、アッシュについて考えます。
 はじめ私は、元神父である彼となら、対話が可能だと思っていました。ですが違いました。彼はもう神を信じるどころか理解さえしていない。彼の瞳には切り立った崖のような深くて冷たい虚無がありました。
 ですがUPCの言う通りに彼を抹殺するつもりはありません。それでは彼の主張を裏付けてしまいます。
 ゲルニカのレプリカ、描かれないアネモネ、そういったものに、私は信仰にも似たものを感じます。彼は神を捨てたのではなく、ただ迷っているだけなんじゃないかと思えるんです。だから私はアッシュに訊いてみたい。神の愛を捨てたあなたが手に入れたゲルニカは、あなたを愛してくれましたか、と。

 そんなことを考えているうちに、私たちは屋上に着いてしまいました。
 屋上には、簡素な屋根の下に鐘台がありました。街並みが一望できます。屋上の端には簡素な柵があるだけです。柵のまわりは屋根がなく、雨で濡れています。
 ふと、煙草の匂いがして、私は振り向きました。
 そこには彼がいました。
 アッシュ・オービタルではなく、トム・デラグエラが。


●蛇穴・シュウ

 正直なところ、私は振り返る前からトムさんがそこにいることは分かった。
 何故って、彼の煙草の匂いはよく知ってたからね。
 トムさんは鐘台にもたれかかって煙草を吸ってた。雨のシスコを背景に、コートの襟を立ててね。そういうのがイチイチ絵になる人なんだよ。
「遅かったじゃないか」とトムさんは言った。「あんまり遅いんで、マッチが切れちまった」
 ご挨拶じゃないか。私は「火ぃ貸しましょうか?」と言ってやった。トムさんはにやりと笑った。
「驚かないところを見ると、だいたいの見当はついてるみたいだな」
「まあ、ね」と私は言った。「誰かさんのせいで、ずいぶん遠回りしましたけど。‥‥あなたがアッシュ・オービタルなんでしょう?」
 トムさんは黙って肩をすくめた。当たりってこった。やれやれ。
「あなたは前回の包囲作戦でふたつの目的を達成した」仕方がないから解説する。「ゲルニカのお荷物、ダグ・ピリオドを切り捨てることと、トム・デラグエラが殉職したように偽装すること。あなたはダグを乗せた車でダイブし、負傷したダグを放ったらかして脱出した。その後山林火災に乗じて適当な焼死体を身代わりとして用意し、自分が死んだように見せかけた。検死でバレないように、後で死体を強奪。‥‥そんなところでしょう?」
「まあ外れちゃいないな」トムさんは言うと、煙草を指ではじいて柵の向こうに捨てた。
 私はわざと何でもない事のように言った。「ずっと騙してたんですか。私たちを」
「どうかな」そう言うと、彼は指を3本立てた。「ヒントをやろう。エミタ能力者が覚醒することで、起こる現象が3つある。何だか分かるか?」
「3つ?」
「もったいをつけるのは止めたらどうです」銃の狙いをつけながら、瓜生 巴(ga5119)さんが厳しい声で言った。「あなたは今、この作戦が罠だと公言したようなものなんですよ。不本意でしょうが、自白も秘密の告白も、逮捕の後にしてもらいましょう。両手を上げて、膝をつきなさい。警告でないことは、あなたが一番分かっているでしょう?」
「オーケー、そうでなくちゃな」彼は両手を上げた。それから不意に、厳しい顔つきになった。「では全員、武器を構えろ」
 ‥‥何だって?
「あんたらがヒヨコちゃんじゃないんなら、武器を持て。覚醒しろ。いいか、一瞬でもおれから目を離すんじゃないぞ」
 彼は後ろに下がりはじめた。ほどなく足が柵に当たる。柵を乗り越える。両手を上げて、私たちに顔を向けたままで。
 私はS−01の銃口をトムさんに向ける。なにか不気味な事柄が、私たちの知覚できない場所で動こうとしている。
「おれが落ちたら、地面につく前におれを撃て。穴あきチーズみたいにしろ。そういうのは得意だろう?」
 言葉と同時に、トムさんが落ちた。
 落ちやがった!
 急いで鐘楼の縁に走る。柵から身を乗り出す。落下途中のトムさんは微笑んでいる。
 彼の体が地面に衝突する寸前、白い光。まぶしくて、一瞬だけ目を閉じた。
 目を開けたら奴がいた。
 アッシュ・オービタルが。

 ほとんど反射的に銃を撃っていた。アッシュに向けて、痙攣するみたいにトリガーを絞り続ける。
 全員が、柵から身を乗り出して撃ちまくった。
 でも、1秒もしないうちに、私はミスをしたことに気づいた。
 トムさんが『おれを撃て』と言った瞬間、すぐにぶち込むべきだったんだ。落ちる彼をアホみたいに眺めてないで、親の仇だと思って撃ちまくるべきだったんだ。
 アッシュは私たちの弾丸の雨を全部避けた。スウェイだけで。雨飛沫が散る。
 恐怖が胃のあたりからこみ上げる。
 アッシュは壁面に指を突き立て、自分の体を持ち上げる。さらに両手と両足を石壁にめり込ませて、完全垂直の壁を登攀しはじめる。私は弾倉を換えてさらに撃ち続ける。けど、アッシュにはかすりもしない。全部避けやてやがるんだ。まるでD級ホラー映画だ。
 塔の半ばあたりで、アッシュが消えた。
「上だ!」ジーン・SB(ga8197)が叫ぶ。
 アッシュが空中にいた。私たちより頭ひとつ高いところに。
 私は銃を撃つ。それも避けられる。おいおい、空中だぞ? 飛んでくる弾丸がふわふわ飛ぶタンポポの綿毛だとでもいうように、あっさりすべて避けられる。
 アッシュが音もなく優雅に、屋上に着地。
 そん時はじめて、私はなんとなくだけど、思った。

 たぶん、勝てない。


●瓜生 巴


 アッシュは鐘楼の屋上を無造作に歩いて、雨の当たらない屋根の下まで着た。それから部屋に帰ったときみたいに、濡れたコートを手で払った。そして私たちを見た。知らないうちに、足が下がる。
「あなたのその能力は何です?」ティーダさんが言った。「ただの能力者とは思えません」
「ただの、能力者だよ」アッシュが言った。低く、抑揚を欠いているけれど、どこか狂気をにじませた声。「能力者というのは皆狂っているのさ。お前達も気づいていないだけだ。人間は能力者など造るべきではなかった」
「それはまるでデラグエラさんの言葉ですね」時間を稼ぐため、わざと挑発を口にする。「アッシュ・オービタル。あなたは誰です? 二重人格だなんてバカにしている。トム・デラグエラの記憶と意志は、どこまで本物なのですか?」
「その質問のヒントはすでに出したはずだが」
 私は思い出す。デラグエラさんの言葉。『能力者が覚醒するときの3つの変化』。
「ひとつは、身体能力の向上です」私は言ってみる。「それから、SES搭載武器を使用できるようになる」
「それを加えれば4つか」アッシュが言う。
 こちらの質問が時間稼ぎなのは分かっているはずだけど、なぜかアッシュは質問に答えるつもりらしい。ならばそれを利用するだけ。
「他にありますか?」
「あるだろう。実に分かりやすい変化が」
「‥‥覚醒反応」私は言った。
 覚醒すると、拳が光ったり、髪の色が変わったりという身体的な変化を起こす。
 おそらくアッシュの場合は、覚醒の変化が身体全体に及ぶのだろう。髪と肌が白くなり、顔の様相までが変化する。だから誰も、アッシュとデラグエラさんが同一人物だと気づかなかった。
 そして、もう一つの変化は。
「まさか」
 いつものあの感覚に引き込まれそうになった。周囲が薄青い暗闇に覆われ、自分の内側の思考にどんどん下降し潜行していく、沈思の感覚。今沈むのは危険だと思いながら、止められない。
 導かれた結論は、にわかには信じられなかった。それでは、私たちもアッシュと同じということになる。
 だけど同時に、頭は可能性はそれしかないと告げていた。それならば、最小の仮定で全てが説明できる。
「オッカムの剃刀」自然と言葉が出た。「ある事象を説明する仮説が複数ある場合、仮定が最も少ないものが真理である」
「気づいたようだな」アッシュが眼を細める。
「あなたとデラグエラさんが同一人物であるということまでは、既に推理していました。しかし私は、アッシュ・オービタルとトム・デラグエラは別の記憶と別の意志を持った存在だと考えていた。特殊な事情による特殊な二重人格だと。けれどそうではなかった。あなたたちは二重人格ではない。そして、あなたもデラグエラさんも、私たちに嘘をついたことは一度もない。あなたたち2人は、同一の記憶と同一の意識を持っていながら、覚醒によって性向がスイッチングする、多重性格者なのですね」
「その通り」
 覚醒に伴う3つめの変化とは、攻撃的になったり、快活になったりする性向の変化だ。これは多くの能力者に見られる変化で、珍しいものではない。
 しかし性向の変化とは、すなわち優先順位の変化。何を望み、何を決定し実行するかの変化。
「有名な寓話と同じだ。人格者であるジキル博士は、人間の善意と悪意を分離する薬品を発明した。だが薬品によって分離された純粋な悪意は、他人をゴミのように扱う殺人者、ハイドを生んだ。私はエミタという新たな技術によって計画的に設計された、現代のハイドなのさ。唯一の違いは、覚醒時の記憶は後催眠で念入りに消してあることだ。他人に催眠をかけるよりも、自己暗示という形で自分にかけるほうがずっと簡単だからな。とはいえ、トム・デラグエラも最後には薄々感づいていたようだが」
 だとすれば、彼は本当にアッシュを逮捕するつもりで行動していたということか。ダグを道連れに車を爆発させたときも、本気で死ぬつもりだったということか。
 ティーダさんと遥さんに目配せを送る。ふたりが頷く。
 私は脳をフル回転させ、作戦を立案する。
 覚醒の条件は2つのパターンがある。1つめは自分の意志で覚醒する場合。けれど自分が能力者だと知りもしないデラグエラさんには、これは不可能。とすると、もう1つのパターンで覚醒するしかない。つまり、「本人に生命の危険が迫った場合」。能力者に危険が迫ったとエミタAIが判断すると、自動的に覚醒が起こる。だがこの場合、デラグエラさんに生命の危機が及ばない限り、アッシュは出てこられない。
 もう一つ、覚醒から元に戻る場合。これにも2つのパターンがある。自分の意志で覚醒を解く場合と、練力切れで覚醒が強制的に解除される場合だ。
 ここまで考えれば、明らかだ。
 アッシュには致命的な弱点がある。


●ティーダ

 アッシュが動いたのは、その瞬間でした。
 彼の動作には独特の間合いがあります。伸びたゴムが縮む時のような、予兆を感じさせない動作。
 どうにか反応が追いついたのは、一瞬も彼の動きから目を離さなかった為が半分、あとの半分は僥倖としか言いようがありません。
 アッシュは回復役の穂波さんを狙いました。私は体当たりで穂波さんを突き飛ばします。
 私は応撃にルベウスをアッシュに叩きつける、と見せて上段回し蹴りを放ちます。アッシュは体を落として軽く躱します。ですが私の膝から下が軌道変化し、後頭部を狙う踵落としになります。頭を振ってアッシュが回避。畳んだ脚をさらに跳ね上げ、アッシュの顎へと爪先蹴りを放ちます。読んでいたアッシュは、ガードしながら後ろに跳んで衝撃を減殺。ナナヤさんとジーンさんの援護射撃を、さらなる跳躍で躱します。
 床から跳ね上げられた飛沫が、思い出したように落下して波紋を広げます。
 瓜生さんが、そっと空を指さしました。例の作戦ということです。
 私はアッシュに低空接近します。
 アッシュの手刀。私は柱を回り込みます。石柱が、粘土細工のように破砕。
 その瞬間、残る全員が石造りの屋根に向かって斉射、瓦礫が落下します。その直下にはアッシュ。
 アッシュの姿が霞のように消滅します。
 ぱしっ、と軽い音がして、雨が弾き飛ばされました。
 アッシュは私の目の前に出現。反射的に腕で脇腹を固めますが、アッシュの蹴りがガードを貫いて肋骨を何本も折っていきます。目の前が白くなる激痛に、苦鳴を漏らすしかありません。
 膝をつきそうになるのを、気力で堪えます。
 ですが、一連の行動はすべて作戦のうち。予想通りアッシュは瞬間移動を使用し、その正体を晒しました。雨のおかげで埃を使う必要がなかったのは幸運でした。
 彼の瞬間移動の秘密は、あまりにシンプルでした。覚醒の時のみアッシュの人格になるという事実、瞬間移動の瞬間に弾き飛ばされた雨の水滴、そして着地の水音。そこから帰納的に結論が導かれます。
 私は脇を押さえながら立ち上がり、構えをとります。
「皆さん、私がアッシュを捕まえたら、私ごと最大火力で撃ってください」
 全身の血液が沸騰し、周囲のノイズが消えていきます。
 覚醒は、水中に潜ることに少し似ています。
 周囲の景色が消え、過去や未来という雑多な情報が消え、敵と自分の存在だけが浮き上がります。特に私の場合はそうです。世界のあらゆるものが色を失い、闘争の今だけが脈動をはじめます。
 私はルベウスで横薙ぎの斬撃を放ちます。アッシュが回避。バランスを失った私に、下段蹴りを放ちます。ガードの腕を上げますが、蹴りは当たらず、直前でアッシュが消失。
 私の背後にアッシュが現れます。
「危ない!」誰かが叫びます。
 アッシュが薄笑いを浮かべながら私に貫手を放つのが、背中越しに確かに感じられました。
 この瞬間を私は待っていたのです。
 アッシュの攻撃が当たる瞬間、私の体が消えます。
 アッシュの攻撃は空を切ります。
 直後に、私がアッシュの背後に出現。
「穴あきチーズがご希望でしたね?」
 アッシュが回避動作を取る前にすべては完了しました。
 私は左手でアッシュの首を掴みます。抵抗のために振られた腕を右手でホールド、脚を振り上げ腕と首をロック。飛びつき腕十字のスタイルで背中から落下。肘関節を極めに入ります。
「今です!」私は叫びます。
 銃弾の雨が、アッシュに降り注ぎます。


●ジーン・SB

 何が起こったか、まるで分からんかった。
 ティーダがアッシュに関節技を極め、銃弾を撃ち込んだ瞬間までは分かっている。
 次の瞬間には、アッシュがまったく別の場所に立ち、ティーダが足を押さえて転がっていた。
 ティーダだけではない。
 遥が腹を押さえて嘔吐している。巴の指はすべて折れ、銃が持てない。シュウの肘が両方ありえない方向に曲がっている。
 アッシュの指が赤い肉をつまんでいる。もぎ取られたティーダの足の腱だと気づくまでにしばらくかかった。
「なかなかいい瞬天速だった」アッシュが言った。「だが、慣れてしまえば大したことはない」
 最悪だ。
 奴がここまで強いとは。
 おそらく奴は、グラップラーの基本スキル<瞬天速>と、超上級スキル<限界突破>を連続使用している。
 瞬天速は、タイムロスなしに数十mを移動する。一般人には瞬間移動したように見える。奴は、能力者の知覚力でさえ捉えられない瞬天速を連続使用しているのだ。それが瞬間移動の正体だ。連続使用することで、障害物を回避しあらゆる場所に出現できる。そして<限界突破>を使用し、複数を同時に攻撃したのだ。あまりに単純な戦い方だが、それを可能とするには膨大な練力がいる。
 アッシュは覚醒している間しか出現できない。にもかかわらずゲルニカというテロリスト組織で活動を行えたということは、連続覚醒できるだけの練力があるということだ。少なく見積もっても、今の傭兵に比べて数倍の練力を持っているはずだ。
 アッシュは最初期につくられた能力者だ。そしてエミタは時間をかけるほど使用者に適合する。そこらの能力者とは比較にならないほど、奴のエミタは人体に『慣れている』のだ。
 実力が違いすぎる。
 戦闘兵法のエキスパートゆえに、分かってしまうことがある。
 奴には勝てない。
 そしてそれが逆に、私から迷いを吹き飛ばした。
 私はプロテクトシールドを捨て、スコーピオンを構えて突撃。同時に<自身障壁><GoodLuck>を同時発動。アッシュが消え、すぐ隣に出現。
 貫手が脇腹にめり込む。覚悟していなければ気絶するほどの痛みだ。だが私はアッシュの腕を掴んで引き寄せる。
「撃てッ!」
 距離をおいてライフルを構えていたナナヤが<影撃ち>を展開。狙撃体勢から、4発を発射した。
 だが、アッシュは予測のさらに上をいった。
 1発目と2発目の弾丸を跳躍して躱し、着地点を予想して撃たれた3発目は体を倒して回避。4発目は手の甲を斜めに構えて弾丸の軌道を逸らした。皮膚が焦げ肉が削げたが、ダメージには程遠い。しかも、それらの回避行動を、片手を私の脇腹に突っ込んだままで行ったのだ。
 アッシュが私の腹にさらに手をねじ込む。痛みが倍増し、何もかも忘れて逃げ出したい衝動にかられる。
「手を離せ」アッシュが言う。
「‥‥つれないな。もう少しこうしていようではないか」私は笑って言ってやる。喋りながら、喉の奥に熱いものが混じる。血だ。
「覚えているぞ。貴様はいつか、私を虚無だと言ったな」
「そうだ。なぜならお前は誰でもない」時間を稼ぐため、口が自動的に言葉を紡ぐ。
「‥‥その通りだ。私は何者でもない。エミタのエネルギーが生み出す、影にすぎない」
 アッシュの声は、なぜか寂しそうだった。
 次の瞬間。
 アッシュの指がさらにもぐり込み、私の肋骨を掴む。
 折られる、と思った瞬間には腹を肋骨が飛び出ていた。
 激痛の砂嵐が頭蓋を駆けめぐり、思考が止まりそうになる。
「だが、お前達こそ、自分が何者で、なぜ戦うのか、知っているのか?」
 思わず力を緩めた隙に、アッシュは私を放り投げた。床に無様に転がる。
「お前達は何も知らない。9人目の被害者が何者だったか教えてやろう。エミタ型の発信器を埋め込まれた死刑囚だよ」
 死刑囚?
「お前達の最初の依頼は、囮役だった。覚えているだろう? だが、UPCは最初から、お前達には囮として期待などしていなかった。より確実な囮として、UPCはデータベースを改変して死刑囚を能力者であるように偽装し、泳がせた。そいつが殺されエミタ型発信器が抜き取られた後、UPCの処理班が男の死体を焼却して身元を消した。後は知っての通りだ」
 アッシュが低い声で言う。
「UPCとはそういう連中なんだよ。犯人逮捕のためなら、人の命など消耗品扱いだ」
「ならば‥‥能力者を何人も殺し、仲間の命も簡単に捨てたお前は一体何なのだ?」私は激痛を殺して起きあがる。立っているだけで精一杯だ。だが今ここで膝を折るわけにはいかぬ。
「あなたを止めます。神があなたを愛しているからです。今この瞬間でさえも」遥が立ち上がる。内蔵から出血しているのか、吐血した跡がある。「貴方のゲルニカには、愛がありましたか?」
「あなたには致命的な弱点がある。練力が尽きれば、アッシュでいられなくなる点です」巴が折れた指でアーミーナイフを握っている。「悪いとは思いますけど、そこを突きます」
「よう色男。観念しな」両腕が折れた状態でどうやって点けたのか、シュウは煙草をくわえている。「私たちゃ本気出すと強いよ。泣いちゃうよ」
 アッシュが私たちを眺め、笑う。
 私は少し驚いた。
 アッシュの笑みは、いつもの狂気の笑いではない。
 涼しげな微笑みだった。


●ナナヤ・オスター

 ワタシは照準装置越しにアッシュを見ていました。
 ティーダさんが片足だけで<瞬天速>を発動し、アッシュの襟を掴みます。アッシュは裏拳でそれを払って、瞬間移動。距離をったアッシュにジーンさんがスコーピオンを斉射。アッシュは鋼鉄の手刀で弾丸の軌道を逸らして躱します。
 ワタシの指が汗でぬめります。
 狙撃するには、対象の動きを1秒程度止めれば十分です。ですがこの怪物相手に、1秒がなんと長いことでしょう。
 そして仮に、誰かがアッシュの動きを止めたとして、ワタシに彼の眉間を撃てるのでしょうか?
 彼はテロリストのアッシュであると同時に、デラグエラ警部補でもあるのです。できれば死なせず、罪を償ってほしい。けれど一撃で彼を行動不能にするには、頭か心臓を撃ち抜くしかない。
 ワタシが迷う間も、戦闘は続きます。
 迷いが胸の中で増幅します。
 突撃するジーンさんの頭部をアッシュが掴んで床に叩きつけました。石板が飛び散ります。ですがジーンさんもアッシュの腕を掴んでいます。
 巴さんが非物理化したアーミーナイフを無音で投擲。殺気を読んだアッシュが首を反らして回避。体重が流れたところにティーダさんのルベウスによる刺突。掌を貫かれながらアッシュが受け止めます。
 両手を使ったアッシュの動きが鈍ります。その瞬間に、ワタシは決断しました。
 アッシュの眉間から照準をずらし、足首に狙いをつけます。
 アッシュがこちらを見て、何故か一瞬、完全に動きを止めました。
 この瞬間を逃したら、二度とチャンスは来ない。ワタシはそう確信しました。
 <鋭角狙撃><狙撃眼><影撃ち>を全発動。
 そして狙撃。
 連続で放たれた弾丸は、無防備なアッシュの足首を半分近く斫ります。
 さらに続く狙撃で肩関節を破壊。再装填し、膝関節も狙撃破壊しました。
 
 降りしきる雨の中、ゆっくりとアッシュが崩れ落ちます。

 雨音。

 ワタシは自分でも何が起こったのか分かりませんでした。
 突然、アッシュが戦いをやめたように見えたのです。

「警部補‥‥」
 シュウさんが呆然と言いました。
「煙草、恵んでくれ」
 雨の中で倒れているのは、アッシュではありませんでした。
「どうして覚醒を解いたんです?」
 巴さんが力なく問いかけます。
「痛てて。全身穴だらけだ。すうすうするよ‥‥なあ、煙草、くれ」
 シュウさんがポケットから煙草の箱を取り出して振ります。「水びたしです」
「やれやれ」
「なぜ覚醒を解いたんですか!」巴さんが叫びます。
「アッシュが引っ込みやがったんだ‥‥おれに最後の告開をさせるつもりらしい。おかげでいろいろと思い出したが」デラグエラさんは声を低くして続けます。「‥‥もう2年近く前になるか、おれは能力者適正があると知らされた。だがおれは能力者になんてなりたくなかった。それでも手術を受けたのは、あいつらを‥‥戦友を助けられると思ったからだ。だが、無駄だった。部隊は全滅した。仲間はみんな死んだ。手術を受けに前線から退いていたおかげで、おれだけが生き残ったんだ。おれの神はそこで死んだ。あとには虚無だけが残った‥‥おれは死のうと思った。自分を殺し、代わりに戦友をひとり生き返らせてやろうと。だから死んだ兵士のなかで、わたしに容姿が似ていた戦友のひとりになりすまし、普通に生きようとした。兵士はトム・デラグエラという名前だった」
 デラグエラさんは語り続けます。床に彼の血が広がっていきます。
「だが、覚醒状態のおれはそれを善しとしなかった。覚醒したおれは激烈で、妥協を知らず、何より死を恐れた。とうとう『私』はおれの意志に反して行動をはじめた。おれと『私』の、長い戦いがはじまった」
 デラグエラさんは、撃ち抜かれた手足で這うように移動しはじめました。柵の欄干に背中をあずけます。

「私には目的が必要だった」声が変わりました。口調も、アッシュのそれに変わります。ワタシは反射的に銃を構えます。しかし、アッシュが覚醒した様子はありません。「分裂した存在である私は、自分が自分として生きていい理由が欲しかった。そうでなければ狂ってしまいそうだった」
 アッシュは犯罪者ゆえに、エミタのメンテナンスを受けられないのだと、その時気づきました。以前から『頭が痛い』と訴え、不安定な言動をしていたのは、その兆候だったのでしょうか。
 ごく稀にしか覚醒しないとはいえ、メンテナンスもなしに生きる能力者の苦痛は、誰にも想像できないでしょう。
「私は自分が何者か知りたいと思った」アッシュの声で、デラグエラさんが喋ります。「私はエミタを盗み出し、研究をはじめた。ダークと会ったのはそんな時だ」
「ダーク?」遥さんが問いかけます。
「本名はダグ。だが誰もが彼をダークと呼んだ。悲しい子どもだった」
「Dark Period(くらやみの時代)‥‥?」
「彼はすべてを壊したいと言った。妹を失った世界の無意味性に耐えられない、と。自分と同じだ、と私は思った。私は彼に生きる目的を与え、UPCという敵を与え、組織を与えた」
「UPC転覆はあなたの意志ではないのですか?」巴さんが言います。
「誰にも言わなかったが、私は革命などどうでもよかった。私の望みはひとつ。自分が何者なのか知ること。‥‥だが、皮肉なことに、それを私に与えたのは誰でもなく、天才画家が描いた一枚の絵だった」
 デラグエラさんが咳き込みながら続けます。
「それを見た瞬間、私はすべてを理解したよ。長い間求めていたものが、その絵にはあったのだ。私は‥‥混乱した。死、絶望、人間であるということの避けられない業。そして異物としてのアネモネ。私にはパブロ・ピカソが、私とまったく同じことを考えていると知った。それは、愚痴だ。自分が自分であることの愚痴、人間が人間であることの愚痴」
 出血が多いのか、デラグエラさんの呼吸が浅くなっていきます。
「なあ‥‥能力者たちよ」遠いどこかを見つめながら、アッシュが言います。「エミタは人間を人工進化させた。だが、能力者が誕生して1年半。人間ならまだようやくよちよち歩きを覚える頃だ。これから先、10年、20年経っても、能力者は狂わずにいられるか? 正しく老い、正しく死ぬことができるのか?」
 アッシュは、自分の首の後ろに手をあてます。
「能力者たちよ。最後に、お前達より少しだけ早く能力者になった、老能力者の愚痴を聞いてくれ」

 私のようになるな。

 アッシュはそう言いました。
「ようやく言えた」デラグエラさんの声で、彼は笑います。「不器用で口下手だから、こんなに話がややこしくなっちまった。面倒かけたな」
 デラグエラさんが、首の後ろを強く掴みます。
「おれのエミタは、ここにある。延髄に埋め込まれてる」指に力が入り、首の皮膚が破れます。「おれの中の異物、おれの中のアネモネだ。ずっとこいつを取り出したかったんだ。だが、これだけエミタとの融和性が増すと、除去手術をしてもほぼ間違いなく死ぬ」
 白い光と共に、アッシュが覚醒。さらに指が首にめり込んでいき、骨が軋む音をたてはじめます。
「どうせUPCに捕まれば、略式裁判で被告弁論さえ許されないまま即死刑だ。そうなる前に、こいつを外したい」
「あなたがそう望むなら、止めません」悲しい顔で巴さんが言います。「ですが、できれば私はあなたに生きていてほしい」
 アッシュは驚いたような顔をして、それから少し笑います。「そうか。その言葉が聞けただけでも十分だ。‥‥オスター君。急所を狙わず、足を撃とうとしたな。なんだか、救われた気がしたよ」
 ごきり、と鈍い音がして、アッシュの首が曲がります。
 ゆっくりと腕が引き抜かれます。指は血まみれのエミタを握りしめています。
「      」
 首が後ろに落ちていきます。
 頭の重みで皮膚が千切れます。
 ワタシは、反射的に手を伸ばして、それを支えようとしました。
 けれど手は届かず、頭部は、まるで音を立てずに、鐘楼の縁を越えて下へ、地上へと落ちていきました。

 ワタシはひどく、泣きたい気持ちになりました。

 雨はやまず、星は見えず、世界は温度の低い沈黙を保ったまま、首のないアッシュを見下ろしていました。