●リプレイ本文
「送電停止まであと30秒」
太陽は高くからコンクリートを照りつけている。地面からうっすらと陽炎が立ち昇っている。作戦の参加者たちは、みんな砂漠の岩のように黙ったまま、流れる汗をぬぐうのを我慢している。
能力者たちは、建物の陰で待機していた。
「こちら突入班。デラグエラさん、準備いいですか?」穂波 遥(
ga8161)が、無線の先のデラグエラに声をかける。
「死ぬ準備のことか?」デラグエラが無線から答える。
「包囲の準備です、デラグエラさん」遥が眉を寄せて言う。
「心配するな。あんたがたの突入と同時に、目標ビルを完全封鎖する。ネズミ一匹逃がさないよ」
「デラグエラさんの言葉って何故か軽く聞こえるんですよね‥‥」遥がため息をつく。「ほんとに心配ないんですね。信じますよ?」
「信じろ。おれがいる限り、任務に失敗はない」デラグエラがはっきりと言った。
「時間です」ティーダ(
ga7172)が時計を確認して言った。
能力者たちがビルの側面まで走る。ティーダがガラスに吸音テープを貼り、時間を確認する。数秒後、ビル全体の明かりが落ちた。送電が遮断されたのだ。これでガラスの振動を検知する警報機は作動しない。ティーダと瓜生 巴(
ga5119)が協力してガラスドリルを動かし、不透明ガラスを外す。
そのようにして作戦は、気配なく開始された。
まずティーダ、巴が部屋に無音でビル内部に着地。武器を構えて周囲を警戒する。人影はない。「侵入口、クリア」
続いて蛇穴・シュウ(
ga8426)、ナナヤ・オスター(
ga8771)が部屋に入った。最後に情報収集班のジーン・SB(
ga8197)と遥が潜入した。誰も少しも物音を立てなかった。
「侵入成功」ティーダが無線機に向かって言う。「再送電まで、あと12秒」
「送電から次の停電まで32秒です。間隔をあけて停電を行えば、予備電源が動くのとセキュリティモードの変更を妨害できるはずです」遥が言う。
次の停電を待つため、能力者は武器を構えて部屋で待つ。全員、ぴくりとも動かず、呼吸すら忘れてしまったかのようだ。
警察隊とUPCの制圧部隊は、停電と同時に正面ロビーから突入することになっていた。まずデラグエラ警部補が先に入り、様子を見る。
「静かだな‥‥」
ロビーは広く、天井も高かった。拳銃を構えて周囲を警戒する。誰の姿もない。受付にも、吹き抜けの2階テラスにも、人影はない。
「‥‥逃げられたか?」
デラグエラ警部補がつぶやいた直後、カタン、という音がロビーの隅でした。デラグエラは即座にそちらに銃口を向ける。
天窓のブラインドが、風で揺れただけだった。ほっと息をつく。
次の瞬間に息が凍る。
受付やテラスに、何十人も人がいた。格好は民間人にしか見えないが、銃をデラグエラに向けている。無言。悪意。銃口が光る。自動小銃。
デラグエラが無線機に向かって叫ぶ。
「総員突入だ!!」
ほぼ同時に、自動小銃の群れが咆哮する。
正面ロビーの騒ぎを聞きながら、能力者たちは疾走した。ビルの中は昼下がり特有の間延びした熱気がこもっている。
2階ではエレベーターのドアを押し開け、巴のエネルギーガンでワイヤーを破壊した。ゴンドラが1階に落下。金属がこすれる音と、鉄がひしゃげる轟音がしたが、すぐに静かになった。ロビーでの銃撃戦の音が小さく聞こえる。
3階のサーバールームまで行くと、見張りがふたり立っていた。防弾チョッキ、ヘルメット、プロテクターと、軍の特殊部隊ばりの重装備だ。手には短機関銃。周囲を睥睨している。
ジーンがスキル<探査の眼>を発動し、あたりを探る。「罠はないようだな」
「わたしが行きましょう」ティーダの瞳が猫眼になる。覚醒したのだ。
ティーダが見張りの前に出る。「こんにちは」
「動くな!」見張りの男が小銃を構え叫ぶ。
「あら、ずいぶん優しいのですね」ティーダはにっこり笑う。「てっきり警告なしで撃ってくるかと」
「両手を頭に乗せて腹ばいになれ。でないと撃つ」
「なるほど」ティーダは指を顎に置いて考える表情をした。一瞬の後、膝を曲げず足首の力だけで跳躍し、蹴り上げた爪先で見張りの小銃を破砕。ひるがえって裏拳の要領でもう一人の見張りの小銃をルベウスの爪が3つに切断した。銃が破壊されるまで、見張りたちは攻撃されていることにすら気づかなかった。
呆然とする見張りたちを当身で気絶させ、ティーダはサーバールームに入った。中には誰もいない。
「3階サーバールーム、クリア」ティーダが無線に向かって言う。「いまのところ楽勝ですね」
1階ロビーでは、激しい戦闘が続いていた。そこらじゅうを跳弾が飛び交っている。敵の武装一般人はテラスや階段、踊り場から銃撃している。警察とUPC は入り口の窓枠を壁に応射している。敵組織の自動小銃が放つ音は銃声というより、大型船が流氷を砕いているような腹に響く音がする。
デラグエラ警部補は左手で拳銃を持って、壁の後ろに隠れていた。
「どこが楽勝なんだ、こん畜生」デラグエラが毒づく。「こんな地獄はレキシントン以来だぜ」
右手はぶらりと垂れ下がったままだ。最初の撃ちあいで、右腕に弾がかすった。出血は少量だったが、衝撃の余波で尺骨が砕けたのだ。この自動小銃はそういう銃だ。
「痛ぇ、痛ぇぞ。Damn,Fuck,死にたがりのAss Holeどもが。『おれがいる限り任務に失敗はない』なんて、大見得切るんじゃなかったぜ」
デラグエラは息を整え、拳銃を構える。それから無線に向かって言う。
「作戦本部? これじゃロビー制圧前に日が暮れるぜ。おれは今から連中の裏にまわる。梯子を用意してくれ」
言い終わると、デラグエラは壁の遮蔽から飛び出し、敵に弾丸を撃ち込む。マズルフラッシュが室内を彩る。
サーバールームのコンピュータに遥のノートPCを有線接続してから、作戦本部に指示して電力を復帰させた。遥が社内データベースにアクセスすると、いくつかのプロテクトのかかったデータが見つかった。「これからデータの吸出しにかかります」遥が言った。「ここ数ヶ月のデータだけに限定しても、プロテクトを破ってディスクにデータをコピーするのに10分‥‥15分はかかりそうです。かなり厳重にプロテクトがかけられてますね。逆に言えば、たぶんこれが『当たり』でしょう」
「オーケー」シュウが言った。「じゃあその間、残りの階を制圧しようか。陽動もかねて」
サーバールームに遥とジーンを残し、戦闘班のティーダ、巴、シュウ、ナナヤは階段を使って上階に向かった。
上に行くにしたがって、徐々に敵の抵抗が濃くなりはじめた。各階に10人程度の武装兵がいて、後退しながら応戦してくる。能力者たちは、ナナヤと巴が援護射撃、ティーダとシュウが接敵し敵を無力化するという戦術で応じた。だが、敵もスタングレネードなど対人兵器を駆使して応じた。兵器を使うことはあっても使われることに慣れていない能力者たちは、その度に防衛に回らなければならなかった。
だが、能力者たちは、ひとりの死者も出さなかった。敵兵はすべて気絶、あるいは拘束してフロアに転がした。
5階の踊り場で、黒髪の少年と鉢合わせした。
「撃たないで!」黒いパーカーにジーンズという格好の少年は、両手を上げて叫んだ。「ぼくは戦う気はありません。助けてほしいんです」
「うーん、撃たないで、ですか」ナナヤがスコーピオンを構えたまま言った。「いいですよ、きみがどうしてもと言うなら、撃たないでいてあげましょうかね」
「ありがとうございます」少年が手を下ろす。
「いいんですか?」巴が眉をしかめる。「何か怪しいですよ」
「みなさんにお願いがあります。実は、みなさんを呼んだのはぼくなんです。ぼくが内通者です」少年は微笑んだ。「ぼくたちの目的を教えます。どうか、アッシュさんを止めてください」
黒髪の少年は持っている無線機に向かって、『敵は屋上に隠れている。至急集合せよ』と言った。それで敵の攻撃はぴたりと止んだ。
再び静かになったビル内部を歩きながら、少年は説明した。
「ぼくたちの組織は<ゲルニカ>と言います。今の世界をなんとかしようと思う人たちが集まって作った組織です。ですが、いつからか破壊活動を繰り返すだけのテロリスト集団になってしまった。ぼくは組織の一番下っ端ですが、組織を止めたくて、UPCに情報を」
「きみも世界を変えたくてこの‥‥ゲルニカとかいう組織に入ったのですか?」ナナヤが訊ねる。
「ぼくはメトロポリタンX陥落のとき暴徒化した群集に、両親と妹を殺されました。以来、この世界は何かがおかしいと考えるようになりました。そんな時、アッシュさんに会ったんです。アッシュさんはたったひとりで世界を変えようとしていました。ぼくは彼の言葉に惹かれ、この組織に入ったんです」
「アッシュの主張って何?」シュウが核心を衝く質問をした。
「革命です」と少年は言った。「彼は革命家なんです。倒すべき体制はUPC。そして人類を正しい秩序に誘導する、それが彼の目的です」
「分からないな」シュウが苦渋の顔をつくる。「私もバグアに故郷を壊滅させられた。だからきみの気持ちはよく分かるよ。けど、世界をきちんと正すなら、バグアどもを殺しまくるべきじゃないのかい?」
「アッシュさんは、バグアは遠からず撤退すると考えているようです」少年は極端な意見をさらりと言った。「なぜなら、彼らは今のような長期戦を想定して戦争を仕掛けていないからです。人類がSES技術を手に入れ戦況が一進一退になれば、資源の補給ができない遠征軍であるバグアは遠からず撤退するだろうと。そしてそこからが、人類にとってほんとうの地獄のはじまりだと」
「ほんとうの地獄?」ナナヤが言った。最近誰かが、同じ言葉を使っていたような気がした。
「アッシュさんには未来のビジョンがあるようです」少年が言う。「能力者技術をうまく使えば人類は幸せになれるのに、UPCがいる限りそれは不可能だ、とアッシュさんは言っていました」
「駄目だ、私にはさっぱり理解できない」シュウが首を振った。「UPCはバグアを倒すための組織だ。そのUPCが人類を不幸にする? テロリストの戯言としか思えないよ、悪いんだけど」
「うーん、本人に問いただすしかないようですね」ナナヤが言う。
「それじゃあ、少年」シュウは言った。「これから一番大事な質問をするよ。私たちはこの謎を解くために今回の仕事をしてると言っても過言ではないんだ。いいかい? 聞くよ‥‥『奪ったエミタをどうした?』」
「その答えは、見ていただいたほうが早いでしょう」黒髪の少年は言った。「もうすぐ着きます」
「もうすぐ?」シュウは眉を上げた。「さっきから何か変なにおいがしているけど‥‥それと関係あり?」
「こちらです」
少年はポケットから鍵束を取り出し、ドアのひとつを開けた。その先にはもっと大きくて頑丈そうなドアがある。別の鍵をつかって、それも開けた。厚さ1cmはある頑丈な観音開きのドアだ。
「うッ‥‥!」
心の準備なしにそれを見たシュウが嘔吐をこらえる。ほかの能力者たちも、一様に顔が青ざめる。
死体。
死体、死体、死体。
解剖死体、切断された腕、背骨と首だけの死体。輪切りにされた脳、神経線維と骨のみの人体、皮膚と筋肉のない死体。
「なんだ、これは‥‥!」
「人体を使った実験場です」少年が言った。
ナナヤは神経線維に接続されたコンピュータに、見慣れた金属片が設置されているのを見つけた。「そうか‥‥そういうことですか」厳しい顔で少年を見る。「ここで行われているのは、エミタ移植実験ですね? 被害者から抜き取ったエミタを、べつの一般人に移植して、機能させるための実験」
少年は死体の山を見て言う。「そうです。我々は能力者を誕生させる方法を探していました。まだ切っ掛けすら掴んでいませんが」
「エミタ移植実験?」シュウが訊ねる。「しかし、エミタを移植する技術は2年も前に完成してるじゃないか。今さらこんな狂ったことをして、何に‥‥」
少年が答える。「エミタAI、それに能力者技術は、UPCの独占技術です。たとえばどこかの軍がUPCに依頼して、能力者手術を受けさせてもらうことはできても、独自に能力者を生み出すことはできないんです」
「だから何だってんだ? UPCが能力者の元締めをやってる限り、無用な混乱は避けられる」
「それは逆です、蛇穴・シュウ」少年が首を横に振る。「これは、UPCに気に入られた組織でないと、自分の組織の人間を能力者にできない、ということを意味します。さらに能力者の情報はすべてUPCがデータベース管理してる。これは1国のみが大量破壊兵器を持っているのと同義ですよ。いや、それより悪い」
「だから能力者を殺してエミタを奪った? みんなで仲良く能力者技術を共有するために? よくあるテロリストの詭弁としか‥‥」そこでシュウは言葉を切った。「待て」
「何でしょう?」
「あんたは内通者と言ったな? だったら、組織の情報を教えるのは筋が通る」シュウは少年を睨む。「だが、UPCが作戦の詳細を内通者に話すとは思えない。あんたどうして‥‥私の名前が蛇穴・シュウだと知っている?」
黒髪の少年はにっこり笑った。
そしてポケットから、大きなサングラスをかけた。
「それは、ぼくが<ゲルニカ>のナンバー2だからですよ」
次の瞬間、シュウの目に激痛が走る。
そしてシュウは失明した。
遥とジーンの情報収集班は、データの解析とコピーをようやく終えた。
データをディスクに焼き、窓の外に投げる。こうしておけば警察がデータを回収する手はずになっていた。
入手したデータには、ターゲット候補の能力者リスト、組織のメンバー表、資金運用の口座一覧など、組織の犯罪を強力に裏付けるデータがいくつも含まれていた。
「これで連中も一網打尽だな」ジーンが満足そうに言った。
「ええ」遥も笑って言った。
「では、戦闘班に合流するか」
「ちょっと待ってください」遥はノートPCを叩きながら言った。「回収したデータの中に、このビルの最新地図らしきものがあります。うまくすればアッシュの居場所も分かるかも」
遥がデータを読み込む。数十秒後、ビルの全容が画面に浮かび上がる。
「うーん」遥がマップを睨みながら言った。「隠れられそうなところはないですね。やっぱりしらみ潰しに探すしかないのかな」
「おや? 待て、こんな部屋、前のマップにはなかったぞ」
ジーンは画面の一隅を指差した。組織がビルを買い取る前に作られた地図では単なる空洞だった場所に、新たに部屋が作られている。しかも入り口らしきものが見当たらない。
「隠し部屋?」
「うむ。わざわざ隠すということは、何かあるのだろう。ここからすぐ近くだ。行ってみるか」
遥とジーンは、問題の場所に移動した。入り口と思われる場所の壁をジーンの<探査の眼>で探すと、巧妙に隠された隠しスイッチを見つけた。それを押すと、壁がするすると開いた。ふたりは奥に進む。
通路を進むと、狭い部屋に出た。
その部屋には色がなかった。
殺風景な部屋だった。天井に配置された白色蛍光灯が、過剰なまでに白い光を部屋に投げている。壁も天井も、突起のない白いタイルだ。部屋に陰はほとんどない。
部屋の中央に、カンバスを折られ、破られ、ぞんざいに放置された大型の絵画が、いくつも積み重ねられている。
ふたりは息を止めた。壊されたその絵画から目が離せなくなる。
その絵画は、少し長く生きた者なら誰でも知っている、非常に有名な絵だった。
反戦をテーマにした、白黒で描かれた絵画。
ピカソの『ゲルニカ』。
5階では戦闘が繰り広げられていた。
戦闘とはいっても、状況は一方的だった。4人の能力者が、たったひとりの少年に、いいように翻弄されていた。
「何だ、この程度ですか!」少年が哄笑する。「敵陣に乗り込む命知らずな傭兵とは思えないな! まったく期待はずれだ!」
能力者たちは、そう言われても反撃できず、ただ攻撃をガードし続けるしかなかった。
なぜなら、全員が眼を閉じて戦っていたからである。
先刻、少年がサングラスをかけた瞬間、シュウが眼を押さえて叫んだ。何か攻撃を加えられたのだ。しかし、少年が何かした様子は見えなかった。
最初に気づいたのは巴だった。巴は思考した。サングラスは大きすぎはしなかったか? 何かコードのようなものが繋がっていなかったか?
1秒以下で、巴は仮説を組み立てた。可能性は高そうに思われた。仮説は簡単に確かめられる、と巴は思った。そしてそれは、自分にしかできない。
「みなさん、目を閉じてください! 絶対に開けてはいけません!」巴は叫んだ。
同時に巴は少年を見た。決然と見た。サングラスの目尻部分に、小さな穴がふたつ開いていることを確かめた。
同時に激痛が走り、巴の世界からすべてが消えた。白い闇。仲間も、敵も、何も見えない。
「不可視レーザー!」眼の激痛に耐えながら、巴は叫んだ。「サングラスに光学兵器が仕込まれています! 見ると網膜を焼かれる!」
ティーダとナナヤが目を閉じる瞬間、少年が悪魔のように笑った。そして背中から大型の拳銃を二挺取り出し、巴を撃った。
たった2発の弾丸で、練達の能力者である巴が吹き飛んだ。弾丸は腹部をえぐり、体内で砕けた。巴は壁に叩きつけられて静止した後、床に落下。うずくまって吐血する。
「Jack Pot」少年は言った。「能力者も、こうなると脆いものです」
光の位相を揃えて打ち出すレーザーは、エネルギー密度を保持したまま遠距離に届くため、ほんの数W程度の微熱量でも目に入れば網膜熱傷を起こし、一瞬で失明させることができる。乾電池程度の電力で使用でき、発振機も小型化が可能だ。
少年がサングラスに仕込んだ兵器は、肉眼では見えない紫外線をレーザー化して周囲に照射する兵器だ。射線自体が自動で揺れるため、広範囲を攻撃できる。
「馬鹿にしやがって‥‥!」
シュウがスキル<活性化>を起動。通常は再生しない網膜細胞を、エミタの力によって再構成する。だが、スキル使用で動きがとれないシュウに、少年の二挺拳銃がふたたび火を噴く。シュウの肩の肉がはじけ、仰向けに倒れる。
「この銃も、対能力者用の特殊弾です。まだ試用段階ですが、先程の研究の副産物ですよ」
黒いサングラスに、黒髪。
黒ジーパンに黒いパーカー。
黒いフードを目深にかぶった少年は、闇が凝縮して誕生したように黒かった。
「最初、ぼくは自分を『組織の一番下っ端』と言いましたが、それもまた真実です。なぜなら<ゲルニカ>とは、アッシュさんとぼく、ふたりだけの組織だからです。他の人間はすべて駒です。白のアッシュさんと、黒のぼく、ふたりだけが<ゲルニカ>なんです」
<黒い少年>が哄笑する。
隠し部屋を調べた遥とジーンは、いくつかの点を発見した。
「確認していこう」とジーンは言った。「まず、ここにある絵画はすべて最近描かれたレプリカだ。色合い、サイズ、それにたぶん油絵の具の種類まで、ピカソのオリジナルとそっくり同じ。私は芸術史、絵画鑑定においてもエキスパートだから絶対に完璧に間違いない。‥‥たぶん」
「絵画はどの絵も、細部が少しずつ違います。この絵には肋骨の浮き出た白猫が新たに加えられています。こっちは折れた大木、こっちは腹を押さえてうずくまる少女、これは朽ちた白骨です。‥‥どうしてでしょうか? ふつう絵画の贋作を作る時は、寸分たがわず同じにしたいと思うのが人間心理だと思いますけど」
「うむ。加えて、この絵何かが不自然だ。何か足りない気がする。うーむ、何だろう?」
「絵から、離れろ」誰かが言った。
空気が凍りついた。
ジーンが恐怖を無視し、スコーピオンを構えて声のしたほうを向く。
だが誰もいない。
「銃をおろせ。今日はお前達の死ぬ日ではない」
今度は部屋の奥で声がした。
ジーンは銃を下ろさなかった。だが敵を倒すことはすでに諦めていた。必要なのは、ここから生きて脱出すること。
部屋の奥で、白い男は絵画の破片を見下ろしていた。
白いコート、白いチュニック、白いブーツ。白い肌白い髪。そして赤い瞳。
アッシュ・オービタル。
ジーンは一歩下がった。かわりに遥が一歩前へ出た。
「犯罪の証拠データはすでに警察が回収しました。あなたたちは終わりですよ」遥が強い調子で言った。アッシュに反論させ、情報を引き出すつもりだった。「仮にも主に仕えていた身でしょう。あなたは罪の償いをすべきです」
「静かにしろ」とアッシュは言った。「頼むから静かにしてくれ。頭が痛いんだ」
「主のしもべとして、退くわけにはいきません」遥は強気に出た。これは二度とないチャンスだと思った。「アッシュさん。貴方は貴方の良心を主にお返しすることが出来ますか?」
アッシュは遥を見た。遥は強い目で見返した。
1分ほど沈黙があってから、アッシュは言った。
「主? それはどういった概念だ?」
遥は絶句した。
アッシュの目から、彼が本当に、理解できていないことを訊ね返しただけだと分かったからだ。
「そうか。今おまえの顔を見て、ようやく気がついた。このゲルニカのレプリカに足りないのは、アネモネの花、だな?」ジーンが言う。「オリジナルのゲルニカには、中央に一輪のアネモネが描かれている。ちっぽけな花だが、それが絵画全体に希望を与えている。だがこの絵にはそれがない。この絵はただの虚無だ」
<黒い少年>の攻撃に、能力者たちは為すすべもなく後退していた。
ティーダが巴をかばっている隙に、巴は<ロウ・ヒール>を使い網膜細胞を回復した。しかし腹部からはまだ血液が流れ出ている。
全員が弾丸を受け血だらけになりながら、背中を見せて後退していた。
「あなたがたの敗因を教えてあげましょう。それはバグアとの戦闘に慣れすぎたことです」黒い少年は銃撃を加えながら言う。「この10年、人類は対バグア技術ばかりを集中的に向上させました。その結果、悪意ある人間が設置した兵器との戦いを忘れてしまった。そんなことではこの後、バグアを倒した後に必ず来る国家同士の領土略奪戦に生き残れません。その程度のことが何故分からないのですか?」
「私はそのレプリカを描きながら、何度も考えた」アッシュが絵画を見て言う。「どうしてゲルニカは白と黒のみで描かれている? なぜ赤や紫で戦争の悲惨さを表現しなかった? なぜアネモネは赤でなく白なのだ? 分からなかった。専門家のどんな解説も、説得力を持たなかった。だが、理由は分からなくとも、意味は分かった。だから私は組織を作り、その絵の名を冠した」
アッシュは左手を掲げて顔を押さえた。白いコートに隠れた右手はだらりと下がったままだ。
「だが、それも今日で終わりだ」アッシュが言う。「私のパートナーは、力を見せつけるためだけに情報を流し、戯れに殺し合いを始めた。もはや組織に正義はない。今日をもって、ゲルニカは解散する」
アッシュはマッチを取り出した。左手だけで擦って火をつけ、絵画の山に放る。
火は新しい油絵に引火し、たちまち燃え広がった。すぐに天井に届くほどになる。
次の刹那。全く予備動作なしに、アッシュが遥の背後に現れた。それまでは遥とジーンの前方3mくらいの位置にいたはずだ。
「お前達も少し休め」
アッシュの左手が遥の後頭部を襲う。だが、辛うじてジーンが反応した。直前に展開していた<自身障壁>と共に、遥とアッシュの間に割って入った。
指突がジーンの腹筋にもぐり込む。
「がッ」
「ジーンさん!」
手首まで入ったアッシュの指が引き抜かれる。赤い血がしたたる。ジーンは腹を押さえて倒れる。
遥が必死に<練成治療>でジーンを治癒しはじめた。しかし傷は深い。
アッシュは何も言わず、部屋に背を向ける。
「待て‥‥アッシュ‥‥」ジーンが声を絞り出す。
だがアッシュは既に消えていた。
部屋にはただ、ジーンと遥、燃える絵画だけが残される。
炎は音もなく天井を舐める。
そして、天井の火災報知器が反応する。
<黒い少年>と戦っていた能力者たちの頭上で、突然火災報知器が鳴り響いた。直後にスプリンクラーが作動し、部屋に散水される。たちまち部屋は水煙で何も見えなくなる。
全員が一瞬、動きを止めた。
状況の変化に最初に反応したのは巴だった。「チャンスです! 水煙の中ではレーザーはエネルギーロスを起こします!」
「ってことはどーゆーこと!」シュウが怒鳴る。
「目を開けてもいいってことですよ!」
「おっしゃあ!」
シュウがヴィアで斬りつける。少年は床を蹴って後退する。ティーダがスキル<先手必勝>を起動。イニシアチブを取ったうえで手近なオフィスデスクを蹴り上げ、空中のデスクを蹴り飛ばす。
デスクが当たるのを待つほど能力者たちは気長ではなかった。水平飛行する机の裏から、ナナヤがフルオートのスコーピオンを発射。<黒い少年>も机を無視して応射。相手が見えない状態のまま、お互いノーガードで弾丸を吐き出し続ける。弾丸が机を次々に貫き、両者とも負傷。
机を飛び越える少年の動きを読んで、スキル<レイ・エンチャント>を乗せた巴のエネルギーガンが吐き出される。少年は天井を蹴って下方への逆跳躍で躱す。
遠距離ではレーザーの効果が薄いと見て、<黒い少年>が前進。接近戦で確実に仕留めようとする。
だが、巴は逃げるどころか、より近くに踏み込んだ。
少年が巴の懐に入る。レーザーが巴の瞳を焼き、巴の視界を再び奪う。
少年が拳銃を揃えて、巴の胸を射撃。巴の薄い胸板が貫かれ、鮮血が噴き出す。
だが弾丸は貫通したほうがダメージは小さい。巴はそれを見越していた。さらに前に出る。
両者の額が触れるほど接近する。
巴はスキル<布斬逆刃>で非物理化したアーミーナイフを、すれ違いざま少年のサングラスに叩き込む。
接近しすぎたため回避できず、また非物理化したことで物質の抵抗を受けなくなったナイフが、少年のサングラスの奥の右目に、すうっと何の抵抗もなく、柄まで刺し込まれた。
少年が魂消えるような絶叫を絞り出す。
「ぎゃああああっ!? 痛い、痛い、痛い!?」
右目からは蛇口から水が出るように鮮血が噴き出した。
少年は滅茶苦茶に銃を乱射しながら後退した。サングラスは両断され役に立たない。
「逃がすかっつうの!」シュウが叫ぶ。
少年はエレベーターホールまで逃走した。そこで壁に背をつき、能力者たちを睨む。
「おとなしく、諦めてください」ティーダが濡れた髪を額に張り付かせて言う。
「あんたたちに何が分かる!」少年は残った左目でティーダを睨んだ。「この世界はもう、バグアを倒しただけでは元通りにならないんだ! 撤退の混乱の中で、軍車両に轢かれ両足を切断された妹は、それでも2日生きていた! この世界がまともなら、妹は助かったはずだ。でも妹は、痛がりながら死んでいった!」
シュウが舌打ちをする。「甘えるんじゃないよ」とつぶやく。
「ぼくは死なない。捕まりもしない!」
少年は拳銃を全弾発射。能力者たちが防御姿勢をとった隙に、背後のエレベーターのドアをこじ開ける。緊急時手動で開くようになっていたドアの隙間から身を躍らせる。
「しまった!」
ゴンドラを落としていたエレベーターシャフトの中を、少年は落下していく。
「正面出口から逃げる気だ!」
少年は疾走した。手負いとはいえ、その動きは一般人についていけるものではない。何が起こったか分からない顔をしている警官を、何人も素手で殴り殺した。
少年は復讐に燃えていた。やはりUPCも傭兵も悪だ。滅ぼさなければ。妹のために。正しい世界のために。
正面出口を飛び出すと、包囲網を突破した。ビルから1kmほど遠ざかると、車が通りかかった。銃で脅して止めようかと思ったが、車は少年の前で止まり、「乗ってください、早く!」と言った。組織の人間が車を回したのだ。これで逃げ切れる!
後部座席で息をついた途端、右目のナイフが異様に痛みはじめた。
「くそ、痛い痛い痛い痛い‥‥この痛み忘れないぞ。ぼくの眼にナイフを刺した女‥‥必ず殺す。他の連中も全員殺す」
「そうかい」と運転手が言った。「そりゃ忙しいね」
ぎょっとして少年は運転手を見た。運転手はにやにや顔でミラー越しに少年を見返した。
デラグエラ警部補が運転していた。
「何だって?」少年が低い声で言う。
「あんた、その年で働きすぎだ。お互い休暇をとろうや。長い休暇だよ。ハイウェイを越えて、見知らぬ土地へ。ヒットチャートにありそうだろう?」
「黙れ。縊り殺すぞ」
「やってみろ。今車は高架の上を時速140キロで走ってる。運転手が死んだら、ふたり仲良くハイウェイ・スターだ」
「何のつもりだ」
デラグエラは笑った。
「仕事だよ。あんたと同じさ。連中と約束しちまったんでね。ネズミ一匹逃がさないと」
「ゲルニカを潰すつもりか。けどアッシュさんがいる限り同じだ」
「そうだな」デラグエラは言って、窓の外を眺めた。高架道路は地上10mほどを走っている。遠くがよく見えた。「あいつらならうまくやるさ。きっとアッシュの野郎に一泡吹かせられる。おれが見込んだ能力者だ。間違いない」
「止せ。頼む、やめろ」
「やれやれ。これでようやく人生とかいう面倒くさい作業から開放される。せいせいするぜ」
「やめろ!」
「さよならだ」デラグエラはそこにいない誰かにむかって微笑んだ。「じゃあな」
車はハイウェイを飛び出し、なにもない空中を泳いだ。優雅にすら見える空中浮遊のあと、人工林の地面に激突。ガソリンが引火し、大爆発を引き起こした。
林に引火した火はあたりを焼き尽くし、まる1日かかって消化された。車の残骸からは2人分の骨が発見された。