タイトル:【SC】ファームライドマスター:紀藤トキ

シナリオ形態: シリーズ
難易度: 普通
参加人数: 12 人
サポート人数: 0 人
リプレイ完成日時:
2009/11/23 23:31

●オープニング本文


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 エルリッヒ・マウザー、あるいはアーネスト・モルゲン。二つの名前をもって知られる青年の眠りは徐々に浅くなっているかに見えた。5分で終わった最初の実験から数ヶ月。今では、3時間程度の覚醒が行なえるようになっている。長いと見るか否かは、判断が分かれる所だろう。
「ほぼ復元は完了したようですね」
 青年は、静かに頷いた。通信回線越しに映っているのは、彼のいる厳重に隔離された地下室と程近い施設だった。暗く、広い空間の中、真紅の機体がその優美な姿をひっそりと横たえている。
「君の協力のおかげだよ。まぁ、技術局の連中は一生分の頭痛の種を仕入れたんじゃないかね」
 ミノベは、そう言って肩を竦める。『復元』とエルリッヒは言った。回収したパーツを、青年の指示するとおりにパズルの如く組み合わせ、後は勝手に直るのを待つというそれを修理とは言わないだろう。
「‥‥で、今度は僕にその動かし方を聞きたい、というわけですか」
「UPCはそう望んでいる」
 エルリッヒは、微かに笑った。起動条件は単純だが、UPCにとって簡単に承諾できないだろうものなのだ。
「その機械は、生体認証を行なっています。バグアの手でなければ、起動する事はありません」
 つまり、それを起動させたくば、彼自身をその機体に乗せるしか無い、と。
「そんな事だと思ったよ。我らに協力して修復させたのは、それが目当てかな?」
「今の僕に二心はありませんが、そちらが僕を無条件に信じる理由など無いでしょう。それでも、協力をしろと言うのならば、構いませんが」
 即答できる事ではないと、エルリッヒにも判っているのだろう。次の目覚めまでに相談を済ませておく、とミノベは答えた。
「では、今回のお勤めは以上だ。シュミッツ中尉、彼の覚醒時間、残りはいかほどかな?」
「‥‥あと2時間くらいは、安全だと思います」
 質問の意図を理解できずに、エレンが首を傾げる。ミノベは笑みを浮かべる事無くこう告げた。残りの時間、すぐに眠らさずに自由時間を与えるように、と。
「少し、個人的に聞きたい事もあるゆえ、ね」

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 集められた傭兵達を前に、エレンは頭を下げていた。青年の覚醒実験は9月初頭のマドリードへの移動以後も、続けられていたのだという。それを誰よりも知る権利と希望があるだろう彼らに、知らされる事もなく。
「ごめんなさい。知らせたくとも、そういうわけにも行かなくって、ね。事情が変わって、喋っても良い状況になった事は嬉しく思ってます」
 軽く溜息をついた所で、会議室の扉が開いた。エレンに負けず劣らず渋い顔のベイツ少将と、今度は空軍のモース少将までが姿を見せる。二人の前線指揮官に続いて入室してきたミノベ大佐は、表情を完璧に殺していた。
「状況を説明しよう。あの男からの情報提供によって、ファームライドの本体部分はほぼ完璧に復元された。言うまでも無いが、前回に君達に回収してもらった物は、その為に不可欠なパーツの1つだった」
 傭兵がざわつく。実際にあの緋色の悪魔と刃を交えた彼らこそが、あの敵の脅威を肌で知っていた故に。もし、あれがこちら側で量産でもされた暁には、戦力バランスは大きく傾くだろう。が、その場にいた3人の顔色は決して明るいものではない。
「ファームライドも、外装甲や武装を取り外してみれば、そこにあったのは我々の知る科学の産物ではなかったという事だ」
 ミノベは言う。真偽定かならぬ噂によれば、かつて完全な姿で鹵獲されたヘルメットワームがあった。人類最高の頭脳が結集してなお、その仕組みの1割も理解する事が叶わなかったのだという。それから数年。人類側の機体を基にしたというファームライドであれば、異星科学の解明の端緒が掴めるという期待があったのは否めない。
「が、無駄ではない。‥‥と、ULTは言っているよ」
 無駄だと言ってしまえばそこで歩みが止まる。今この時も、LHの頭脳は様々な角度から研究を始めているのだろう。
「君たちを集めたのは、研究の為ではない。あれからフィードバックできるかもしれない、と未来研の連中が言う、基礎的な研究データは既に揃っているからね」
「そして、軍が欲するのは研究材料ではなく、実戦に供する事が出来る物だ」
 ベイツ少将が口を開いた。ファームライドの複製ができずとも、今ここに動くそれがあるのならば。動かしてみればいい。
「あの男の言葉によれば、自分でなければ動かせない、らしい。が、一度動けばそれを逆解析し、起動をロックしている部分を特定できると、言う見方もあるようだな」
 実際にファームライドの脅威に曝された経験のある少将2人は、あの男を乗せる事を見るからに警戒していた。残るミノベは旗幟を鮮明にしてはいない。つまり、この計画を決定したのはそれよりも上の意思と言うことだ。
「‥‥で、もしもそういう事ならば、傭兵の皆に意見を求めるべきだ、と言う事になったのですよ」
 以前と同様、『彼』を良く知る人間に聞く、という建前だが、これは保険でもある。そうミノベは言った。
「もし、あの男の今までの恭順が偽りだったら。我らの手で処分せねばならない。その際に立ち会って頂きたいのです」
「残念ながら、起動実験の遂行は決定事項だ」
 モース少将が肩を竦めた。ベイツよりも強硬に、最後まで反対していたのが彼だったという。
「諸君に問いたいのは、その為に何を用意すべきか。どのような条件を彼に提示すれば安全を買えるのか。そして実験に際しての備えはどうすべきか、だね」
 彼の指揮下の空中部隊は全て警戒態勢に入る予定だ。地下の秘密格納庫を含む一角は、ベイツの陸上部隊が水も漏らさぬ警備を敷く。ジブラルタルやアフリカのバグアの動きは、グラナダ要塞と対峙してきた彼らが、今までに構築してきた情報網によれば特に見られないらしい。それでも。
「正直に言えば、ワシらは不安なのだよ。ベイツも、ワシもだ」
 溜息をついてから、彼ら2人は着席した。ミノベは壁際で立ったまま、眼を閉じている。そちらをチラリと見てから、書類を手にしたエレンが立ち上がった。
「いつもと同じ、よ。終わったら紅茶でも飲んでゆっくりしましょう」
 見るからに、作った笑顔で言う。言いながら、ファームライドの置かれた区画の地図を示した。KVの飛行中隊が優に格納できるスペースは、20m程と天井も高い。KVが中に入るには、直立したまま1機づつエレベーターで降下するしかなかった。対爆コンクリートと鋼鉄で覆われた地下区画は、エルリッヒ自身の安置された部屋と同様、いやそれ以上の備えがしてある。
「それでもね。何が起きるか‥‥。嫌な予感が、するのよ」
 エレンは囁き、僅かに身震いした。

●参加者一覧

柚井 ソラ(ga0187
18歳・♂・JG
霞澄 セラフィエル(ga0495
17歳・♀・JG
アルヴァイム(ga5051
28歳・♂・ER
空閑 ハバキ(ga5172
25歳・♂・HA
緋沼 京夜(ga6138
33歳・♂・AA
フォル=アヴィン(ga6258
31歳・♂・AA
ソード(ga6675
20歳・♂・JG
暁・N・リトヴァク(ga6931
24歳・♂・SN
ルクレツィア(ga9000
17歳・♀・EP
ラウラ・ブレイク(gb1395
20歳・♀・DF
二条 更紗(gb1862
17歳・♀・HD
夢姫(gb5094
19歳・♀・PN

●リプレイ本文

 晴れ渡る空の陽光も澄み切った秋の空気も、地下へは届く事がない。エルリッヒ・マウザーの覚醒実験は、いつもそこで行われる。
●実験準備
「ありがとうございます」
 霞澄 セラフィエル(ga0495)の優雅な一礼は、ミノベを面食らわせる事に成功したらしい。
「‥‥どういう事ですか?」
 色のついた眼鏡を押し上げながら、問い返す中年。霞澄は微笑して答える。彼女と仲間達が気にかけている青年に、機会を与えてくれた事を感謝する、と。生きる機会、言葉を交わす機会、そして選択する機会を。ミノベは、唇をゆがめてから少女と同じ方角を向く。地下格納庫にひっそりと駐機した真紅の機体がそこにあった。
「‥‥私はこの10年、クリス・カッシングの影を追って来ました。最初はその名も知らず、多くの部下を失いながら、ね。それが今、ようやく終わりに近づいていると感じます。そして、皮肉を感じていますよ」
 チェックメイトに繋がる一手が、あの男の配下を使った物である事。そして、仇敵がしていたのと同様に、その男を道具の如く扱っている自分を。
「ですが、手を緩めるつもりはありません。エルリッヒ・マウザーに聞いたバグアの習性によれば、連中の文化は裏切りを許容しないらしい」
 剽窃しか出来ぬ連中に、文化と言うものがあればだが。そう言うミノベの目の色は、地下だと言うのに外さぬサングラスの下で見えなかった。
「それに、彼を信じるのであれば、勝手に動くことも無いそうですよ」
 自動操縦ができない訳ではないが、バグアの文化的には、それ以上の『知性』を持たせる事はありえないらしい。判断を必要としないレベルならばいざしらず、命令無く自己判断で動けるような兵器は、決して作らないだろうと。
「まぁ、それは私にとってどちらでもいいのですよ。こうやって、彼を飼っていればいずれ、あの男の耳目に入るでしょう。そうなれば、自ら処分に動くしかない筈です」
 欧州各地での地道なもぐら叩き、そしてグラナダの陥落。老人の手駒はほとんど残っていない筈だとミノベは言う。残る拠点や配下の所在はロシアとルーマニア。いずれもこの場所からは遠い。
「‥‥それでも、私は感謝します」
 そこまで聞いて尚、微笑を絶やさぬ少女に、ミノベが肩を竦める。

「陸軍のコーヒーは相変わらずまずいな」
「前よりはましになったんだ、これでも」
「ふむ。少しばかり豆が古くなっているようです」
 地上の待機所ではアルヴァイム(ga5051)と、2人の少将がコーヒー片手に可能性を検討していた。まずは、FRの再度の奪取を敵が目論んだ場合について。
「奇襲しかあるまいよ」
 それが少将達の結論だった。最寄の敵戦力は、まずバレンシア。しかしそこの戦力は拮抗しており、バグア側にもここへちょっかいを出す余裕は無い筈だ。次いで、コルシカ、及びイタリア半島。
「海を越えてここに来る、とは考えにくい。それはアフリカも同じだな。ジブラルタルも、単独で攻勢に出ることはあるまい」
 正面からの強襲では、マドリードを落とせたとしても即座にはいかない。時間の余裕があれば、人類側とてむざむざとFRを渡すくらいなら破壊するだろう。
「FRからのビーコン発信の可能性も、考慮すべきと思いますが」
 アルの言葉に、2人は顔を見合わせた。先にベイツが目を逸らし、モースが苦笑しながら言う。
「‥‥それは、ほぼ確定事項だよ。ミノベ大佐がエルリッヒに確認した」
 もしも起動したならば、FRは自身の存在を通知するはずだ、と彼は言ったらしい。その危険は考慮したうえで、それでも実験を行なうという決定を下したのが、この2人ではないのは確かだった。
「まぁ、ここにコレがある事は、そろそろ敵にも知られているはずだ」
「幾ら隠密裏に、とは言ってもな」
 パーツ類や、技術者の移動の痕跡は、辿ろうと思えば辿れる筈だ。実際、北米で拿捕されたステアーやFRの動きについて、敵は情報を収集しているという。ロシアで鹵獲された物だけ見過ごす、ということは考えにくかった。
「奇襲の方法は?」
 問いかけたアルに、軍が示した回答は彼らの予想と同じだった。ステルス機。あるいは簡易光学迷彩と電子妨害の併用。しかし、そのいずれであっても全く発見されずにここまでたどり着けるとは考えにくい。EQについては、もしもここを目指したとすれば外縁部で探知に引っかかる筈だった。
「‥‥ふむ。さすがですな」
 防衛線については、遺漏が無い。とすれば内側から呼応される危険を防ぐのが重要だ。FRが暴れだす可能性と、それを防ぐ為の工夫へ、話題は移っていく。
「廃熱口の位置が判っていれば、そこを半分閉鎖してみては如何でしょう? それから‥‥」
 アルの提案には、燃料の供給制限とワイヤーによる拘束も含まれていた。
「不足になれば、その都度補給すればいいわよね」
 入室してきたラウラ・ブレイク(gb1395)達に、モースは席を勧める。今回のプログラム内容は起動自体と各部の動作、変形程度であり、飛行までは考えていない為、燃料は最小限で済みそうだ。
「ワイヤーでKVと連結してみたら‥‥、少しでも重石にならないかな」
 ルクレツィア(ga9000)の呟きも、検討の結果、採用された。余分な燃料を使わせる事が逃走阻止に有効だというのは間違いない。だが、二条 更紗(gb1862)の提案については、そう簡単にはいかなかった。
「可能ならわたくし志願します。AU―KV装着していれば多少は融通利くと思いますので」
 さらりというが、彼女の提案はかなり乱暴な物だ。外したコクピット前に座り、不自然な挙動に気付いたらエルリッヒを引っこ抜く、と。
「ワシは、不必要な危険については容認しかねる」
「だが、一番確実なのは間違いあるまい?」
 高級将校二人の意見は綺麗に分かれている。キャノピーを外すと言うのは容易だ。しかし、もしもの場合には更紗の生命の保障は出来ない。
「‥‥保障は不要よ。『彼』に信用しろとも、『彼』を信用しろとも言わない」
 横合いから、ラウラが鋭い目で言う。何かあれば、自分達が止めると。
「その代わり‥‥」
 彼女とルカが言い出した内容は、2人の軍人が顔を見合わせるに十分なものだった。暫しの沈黙の後、モースが先に口を開く。
「ワシが黙認するのはな。彼が敬意を払うべき敵だったから、だけではない。君たちの申し出だから、だ」
 そう言った老鷲の目は、刺すような鋭さを宿していた。無言のまま席を立ったベイツは、2歩踏み出してから足を止める。
「俺達の部下は大勢、奴らに殺された。それだけ覚えていてくれれば構わん」
 練習用の小型機は用意しておくと言葉を残して、彼は紙コップをゴミ箱へ放った。

●実験への道
 地下格納庫へ、『彼』は自らの足で向かっていた。以前にラナン女史が告げたとおり、意識の無い時間の長さの割に身体機能は衰えていないらしい。ひっそりと従うニナと、少し下がってエレン。夢姫(gb5094)は歩幅を埋めるために足早に、大人たちを追う。
「エルリッヒ‥‥さん、こんにちは」
 黙礼を返してくる青年から、威圧感は感じない。少女はふわりと笑顔を見せる。
「エルリッヒさんはいま何か、やりたいことってありますか?」
「‥‥?」
 首を傾げた彼に、夢姫は言葉を続けた。実験終了後の自由時間の事を。
「何か私たちにできることがあったら言ってくださいね。もし今日はできなくても、次に会った時にできるかもしれないし」
「‥‥次、ですか」
 不思議そうに、その言葉を繰り返す。彼にとっては、やはり慣れない単語だった。それ以外にも、次を期待できない理由はある。彼自身を目覚めさせるべき理由も、それに寿命自体も、徐々に尽きてきていると彼は知っていた。無論、夢姫も知らない事ではないが、それでも彼女は無邪気に笑って見せる。それは、『彼』には無い強さの形だった。
「楽しみが後に待ってると、ワクワクしますよね☆」
「‥‥そう、ですね」
 ほんの少しの微笑を浮かべて、青年はそう答える。ニコッと笑ってから、夢姫は後ろのエレンのほうへ駆け出した。
「あ、エルリッヒさんの隣、お願いしますねっ」
 通り過ぎ様に、俯き加減のニナにそんな声を投げてから。
「夢姫ちゃんは、今日も元気ね」
 挨拶を交わしたエレンは相変わらず化粧っ気が薄い。しかし、何処か少し違う気がして、少女は瞬きした。

「‥‥話がある」
「何ですか?改まって」
 先を行く顔ぶれから離れて、緋沼 京夜(ga6138)はフォル=アヴィン(ga6258)を呼び止めた。通路を照らす灯に、京夜の肌は白い。声を掛けるだけ掛けてから口をつぐんだ京夜を、フォルは急かすような真似はしなかった。皆の足音が聞こえなくなってから暫くして、彼はようやく喋りだす。
「俺は異変があれば全力で戦う。FRを止めるためには、命を賭ける必要があるだろう」
 一息、吸い込んでから。
「いや‥‥命を捨てる必要がある」
「命を捨てるだなんて‥‥まだそんな事を言ってるんですか?」
 失望よりも、大きな怒りのせいで拳に力が篭った。踏み止まったと、思っていたのに。
 ――だが、そんなフォルに、京夜は深々と頭を下げる。
「‥‥だからこそ、力を貸して欲しい」
 寸秒の間。
「っとと、頭を上げてくださいよ、らしくない」
 慌てたようなフォルの声にも、すぐには顔を上げる事無く京夜は言う。
「死ぬわけにはいかない。俺を、守ってくれ」
 腹の底の何かが、ふっと溶けた。思わず溜息をついてから、起き上がった京夜の顔を見上げる。自分をこれだけ振り回しておきながら、全く気づいていない顔に腹が立って、握った拳で軽く胸を突いた。
「言われるまでも無く、守りますよ。その為に、此処に来てる訳ですから」
 そう。フォルがここにいるのは蠍座の男の為でも人類の為でもなく。目の前の頑固で意固地な戦友の為なのだから。
「FRは二度とバグアには渡せない。それだけは絶対に阻止するんだ」
「ええ、あんな物騒なものをくれてやる訳には行きません」
 言いながら、通路へと向き直る。
「さ、行きましょう。皆を待たせては悪いです」
 返事はなく、ただ空気だけが後ろで動く気配がした。

 格納庫に、その真紅は静かに横たわっていた。データ採取の為に立ち働いている技術者は、思いのほか少ない。物の機密レベルを考えれば、当然かもしれないが。
「これがFR‥‥」
 呟いた柚井 ソラ(ga0187)。彼と更紗には、その存在への忌避はさほど無い。しかし、戦場にてその真紅と対峙した者は無感動ではいられなかった。暁・N・リトヴァク(ga6931)が、ゆっくりとその機体へ歩み寄る。
(一年、か‥‥)
 この機体と戦場で対峙して、追い続けていた時間を暁は思った。パーツを輸送したり、奪還した事も有るのだがこうして形になったものを間近で見るのはまた、別の事だ。
「‥‥取って喰われはしないようですよ。得体は知れませんが」
 壁際のミノベに頷いて、そっと手を伸ばす。
「‥‥っ!」
 装甲の裏で、何かが脈動しているような感触に暁はぎょっとした。それは、生命ではないながらも極めて有機的な構造をしているらしい。
「要するに、何も判らないのですよ。動かしも出来ず、分析しようにも手をつける場所もわからない。かといって、破壊してしまうには惜しい」
 肩を竦めるミノベ。この場に科学者がいないのは、得られる物が無いと見切ったという理由もあるようだ。自分が乗れば動くとエルリッヒが言うならば、そうなのだろう。しかし、それを逆解析できるかどうかと言われれば絶望的だ。
「だから、私の手元に回ってきたのですがね。役立たずといえど、航空博物館に置くには危険すぎる代物ですから」

●起動実験
 その奥で、エレンがモニターを注視している。霞澄が提案した、『彼』の身体状況の観測データだ。何らかの異常が現れた場合は即座に実験を中止するように、と言う意味合いである。
「大丈夫、ちゃんとモニターできているわ」
「そうですか。宜しくお願いしますね」
 言ってから、霞澄は彼を見た。隻腕である事を忘れるほどに自然に立つ青年の、気配は薄い。身体の数箇所に貼り付けられた発信機に頓着する様子はなく、彼はかつて自分が駆っていたのと同系の赤い悪魔を懐かしげに眺めていた。
「先に伯爵にお会いして来ました、あの方はあの方なりに貴方の事を気にかけているようです」
「ああ、アーネストの事ですね」
 霞澄の言葉に、エルリッヒはそう返す。かつて、その名を口にする時に見せていた敵意は、もう影を潜めていた。
「彼だけではない、と思います」
 あの伯爵が、青年の中の人格を区別して考えているのかどうかは判らない。が、おそらくはそうではないのだろうと霞澄は思う。ここに集った者が今の『彼』をあるがままに受け入れているように。
「貴方が自分の為に、そして貴方が気にかけている人達の為に何を残せるのか、私はそれが見てみたい‥‥」
 そう呟いた少女に、彼はしばし黙考した。纏う空気が、僅かに柔和さを増す。アーネストが表に出てきたのだと、雰囲気が告げていた。
「何を為すべきでも無い。僕は‥‥、いえ、僕達はそう思っています」
 そう答えた青年に、空閑 ハバキ(ga5172)が首を傾げる。
「僕達?」
「ええ。彼の感じていることが、少し分るようになってきたんです。少しだけ、ですけれどね」
 そう告げた青年の背中に、ルカがそっとコートを掛ける。
「何処にも‥‥行きませんよね?」
 囁いた声は、少し震えていた。泣き出したいくらい不安だろう、とハバキは彼女を案じる。そんな気持ちを知ってか知らずか、青年は僅かに微笑して頷いた。
「ええ。彼にもそのつもりはありません」
「‥‥あ、それじゃあさ」
 ハバキが、ニッと笑う。FRを、アーネストが動かす事が可能かどうか、実験してみたらどうかと。それは、この実験においてもそれ以外でも、友人の存在が忘れられている事への彼なりの抗議でもある。
「‥‥なるほど。それはやる価値がありますね」
 ミノベがややあってそう言った。遅れて入ってきた京夜とフォルへ、アルが手順書を手渡しにいく。
(皆が納得できる道を、見付けられるかしら)
 壁にもたれてそれを見ながら、ラウラは思った。自らに迫ったタイムリミットを逍遥と受け入れたかに見える『彼』と、彼を恨む者、慕う者。青年が救われれば怨嗟は行き場を失い、さもなくば慕情は儚く消える。二律背反を満たす解が無いのならば、ただ時が過ぎるのを待つのが正解なのだろうか。――いや。
「全員が納得する答えは無いかもしれないけど‥‥。少しでも皆が、笑顔になれたらいいのにな」
 夢姫が言う。その言葉は、ラウラの胸にすとんと落ちた。
(何も出来ない、そんな思いをしたくないから傭兵になったのに)
 出来る事を、するまでだ。後悔を二度としない為に。

――実験開始時刻。

 上空を飛ぶ空軍の部隊よりやや低高度を、アルと暁、霞澄とソード(ga6675)は飛んでいた。
「地殻変動計測器に感なし。両少将の部隊も同様のようですね」
 アルの言葉に頷きつつ、暁はIRSTの反応を見る。ソードは、ちらりと眼下を見た。そろそろ、実験開始の時刻だ。
「無事にすめばいいですが‥‥」

「‥‥ダメですね。僕じゃ、無理のようだ」
 コクピットで操縦桿を動かしていたアーネストが、ややあって首を振った。瞬き一つの間をおいて、その口元に冷笑が浮かぶ。
「身体的には僕達は同一のはずなのに、不思議な事です」
「変わったんですか」
 取り外されたキャノピー前縁。そこに腰を据えた更紗に目を向けたまま、ゆっくりと頷く。
「一つ聞いていいですか? もし自由に羽ばたく羽があるなら、今何をしたいですか?」
 小さな声は、目の前の青年にしか聞こえなかっただろう。少し、間をおいてから青年は囁く。
「‥‥今の僕は、屍です。屍に望みは無い、‥‥と言いたい所ですが」
 エルリッヒは、周囲に並ぶKVを見た。万が一を想定して、待機した傭兵達の機体を。
「折れた剣であっても、僕はあくまでも剣のようだ。剣として作られたのならば、最期までその本分は尽くしたいと思います」
 一拍遅れて、甲高く泣き叫ぶようなエンジン音がする。その言葉に更紗が身構えた、瞬間。
「懐かしい、空気ですね」
 そう微笑する青年に、剣呑な気配はなく。からかわれたのだと気がつくまでに、少しかかった。

 FRに灯が点った瞬間、ソラはKVを半歩前に動かしていた。エレンを、まず守る位置。少年の中では大切な順番は至極単純だ。それを微笑ましくも遠く思いながら、フォルは呟く。
「大丈夫、何事もなく済みますよ」

 ――フォルの言葉どおり、実験は何事も無く進んだ。歩行、変形には全く支障が無いという。ほぼ完全な状態で回収されたのだから、当然とも言えるが。ただ、光学迷彩は不調のようだった。
「‥‥まぁ、もしもその機能が故障しなければ自力で逃げたんでしょう」
 ミノベが肩を竦める。30分にも満たない短い緊急配備は、こうしてあっさりと終わりを告げた。
「わたくし、もう少しここでこの機体を見ていっても良いですか?」
「どうぞ、と私が言うのはおかしいですが。機体には罪が無い。あなたのような目で見てやれば喜ぶ事でしょう」
 更紗の言葉に、機から降りたエルリッヒが言う。固唾を呑んで見守っていたルカが、ホッと息をついた。

●自由時間
「そうですか。貴方の新型機。先ほど拝見できればよかったのですが」
 思う形が完成したというソードに、エルリッヒは頷く。
「正直な所を言いますとね。新しくなったフレイアで、あなたと戦ってみたかった」
 笑みを消して、ソードは言う。アルヴァイムと同じく、彼も戦士だったらしい。だが、隻腕の青年は首を振った。
「僕はもう、貴方達とは戦う理由がありません。二度までも、折られたのですから」
 今、死を間近に迎えたかつての敵が何を思っているのか、ソードは知りたいと思う。問いかけたソードにエルリッヒは微笑を浮かべて答えた。
「僕は、願って止まなかった『自分』を手に入れた。望みを果たした筈なのに、まだ新しい欲が出てくる自分を、つくづく度し難いと思っている所です」
 遠くを見るエルリッヒの正面の席へ、ルカが座る。少女は、彼に礼を告げに来たと言った。
「貴方が居たから私は私の闇と向き合う事ができた。そのままのアーネストさんにも会えた‥‥だから」
 微笑む少女に、エルリッヒは小さく首を振る。
「この手は血にまみれています。そんな手が受ける物としては、そんな言葉は相応しくない」
 そう言った所に、ラウラが声をかける。その手には、ビデオカメラが握られていた。
「いいかしら? ちょっと、時間を頂戴」
 ルカとソードに会釈してから、青年は席を立つ。言葉を選んでいたルカが、瞬きした。
「あ、あの‥‥」
 何かを察してソードは笑う。そこに、トレイを持ったニナが通りがかった。
「ソードさんは、日本茶でしたね。エレーナさんから伺いました」
「あぁ、ありがとうございます」
 好みまでは伝え切れていなかったのか、良い茶葉を使っているようだ。立ち上る香りにそれでも微笑を浮かべてから、ソードは二ナの顔を見上げる。
「最近‥‥」
「はい?」
 ソードのかけた声に笑を向けるニナ。申し訳ない思いを感じつつ、彼は気になっていた事を尋ねる。
「最近、彼の様子で変わったことはありますか?」
 彼女は少しだけ考えてから、ためらいがちに口を開いた。
「少しだけ。以前よりも、アーネスト様とエルリッヒの違いが無くなった気がします」
 以前ならば、間違いようも無かったのに。目覚めた瞬間がどちらなのか、注いだ紅茶の礼を言ったのがどちらなのか、眠りに着く前の挨拶をどちらがしたのか。迷う時がある、と彼女は言った。
「‥‥彼とは、ちゃんと会話しているんですか?」
 口をついて出た質問に、彼女はゆっくりと首を振る。
「そういえば、余り。避けられているのかもしれませんね」
 寂しげと言う事もなく、微笑すら浮かべた横顔は、死を控えた家族同然の青年へ向いた物には見えなかった。どこで見たのか、少し考えてから思い出す。慈母の笑顔、だ。
「この時間で、少し話したらどうですか?」
「いえ。構いません。もう、話さねばならない事はありませんから」
 笑顔はそのままに、そう言う。
「白鳥の卵は残ってる?」
 ハバキの問いかけに、ニナは確りと頷いた。
「いつか、オデットとみんなで飛びたいわね。‥‥ところで、提案があるんだけど」
 横で聞いていたラウラが言う。

 ラウラの提案は、エルリッヒからアーネストへの言葉を、ビデオメールのように贈る事だった。そして、アーネストから彼へも。
「感傷的な行為だと一笑に付すかもしれないけど、‥‥あなたという人の記録を残してもいいんじゃない?」
 ビデオを構えたラウラに、エルリッヒは苦笑する。いや、その笑みはもう少し深い。
「‥‥僕の記録は無くていい」
 アーネストとの対話は、筆談で行なった事があると彼は言う。アーネストの思考の裏には常にエルリッヒがいるというのに、その逆が成り立たない理由は判らないけれども。
「僕達には、どのような罰が相応しいか。‥‥考えたのですよ、2人でね」
 可能な限り、自分達の痕跡を残さない事。自己の存在証明を強く願った仮初の青年と、望まずして歪んだ運命を背負った青年の、それが結論だった。
「そう簡単には逃げられないわよ」
 カメラを持った手をそのままに、ラウラは言う。人の記憶とは、そんなに容易く消したりできるものではない。彼女の記憶も、それにこの場に集った面々の記憶もだ。その言葉に、彼の表情が歪んだ。
「‥‥そうですね。私には為すべき事が、まだありました」
 すぐに戻る、と言い置いてから青年は壁際へと足を向ける。

「失礼」
 エルリッヒの声は普段どおりだ。京夜は、自分の前に立った敵に隻眼を細める。
「‥‥失せろ」
「これは手厳しい。‥‥では、用件だけを」
 エルリッヒは、腰を折る。慣れていないのだろう。深すぎず、さりとて浅くも無い角度は、先刻の京夜と似ていた。
「‥‥エルリッヒ・マウザーは、貴方が記憶に止める価値の無い名です。僕が死して後も、この名前とその怨嗟を抱えていては、地獄の僕を喜ばせるだけですよ」
 ぎりり、と音が響く。それが自分の歯の音と知って、そんな反応を見せる自分を京夜は冷笑した。理性の力で押し止められるのは、血の通わぬ右腕だけだ。固めてしまった左腕の拳を、意識して解く。
「それでは」
 再度一礼した男を、殴ろうとは思わなかった。殴られた痛みで、赦された気分を味わわせてやるつもりは無い。自分の敵意に気づいているのならば、その負い目を感じたまま、苦しめばいい。
「チッ」
 火をつけた煙草の味は、しなかった。

「不思議ですね。僕の顔で僕の声なのに、別人だな」
 ラウラのカメラ映像を見たアーネストは、なんとも言えぬ表情で笑う。そういえば、何もかも違う2人の、笑い顔だけは良く似ていた。想いを噛み殺すような苦笑。以前のアーネストの笑顔は、もっと朗らかだった。以前のエルリッヒの笑顔は、もっと猛々しい。
「アーネスト様。あちらで、ルクレツィアさんがお待ちですよ」
「ああ、一緒に見て感想を聞かせて欲しいな。これ」
 呼んできてくれ、等と言う青年に、ニナは苦笑する。
「最後までそんな調子では、私がハミル様に怒られます」
「え? なんで?」
 きょとんとしたまま、アーネストは廊下へ続く扉へと歩いていく。

「‥‥オデットは、伯爵さんが預かってくれているそうです」
 従姉から聞いた、と言うルカに青年は目を落とした。
「僕と同じで、あいつは飛べない鳥だった。なんだか、今日は僕だけ飛んで申し訳ない気分だな」
 伯爵もいずれ、会いに来ると思うと彼女は言う。
「いずれ、か‥‥」
「それとっ」
 普段より、少し強い口調で言葉をかけたルカ。アーネストが驚いたように目を上げた。
「‥‥アーネストさんが好きです」
「え」
 ぽかん、と口が開くのを見ながら、返事はいらないと早口で続ける。
「ただこの気持ちを無かった事にしたくなかったから‥‥伝えたかった」
「‥‥戻ろうか。皆が心配するから」
 必死に、想いを告げた少女に青年は何も返さず。ただ、優しくそう答えた。

●空へ
「飛行機の準備が、できたわよ」
 エレンが声をかけたのは、実験が終わって1時間ほどが過ぎてからだった。無いと予想しつつも、バグアの動きが実際に見られないと確認するのに、それくらいの時間が掛かったらしい。ぼうっとした様子のアーネストの手を、ハバキが笑顔で引く。
「‥‥『彼』の残り時間があとどれだけなのか、エレンさんは知ってるんですか?」
 ソラの問いに、エレンは首を振った。あるいは、一ヶ月、半年。状態から言えば、今すぐ倒れても不思議は無いのだとも。
「残された時間が僅かなら‥‥友達だったら、やっぱり彼の好きなものを見せてあげたいと思う」
 あそこにいる人は、エレンにとって大切な友人達が好きな人だ。そして、軍に入ってからの知り合いを大勢と、父や兄を奪ったバグア。憎むべきか、赦すべきか、彼女も揺れている。
「友達‥‥戦友。‥‥エルリッヒには、戦友と呼べる人はいたのかな」
「ひょっとしたらね」
 見送る彼女達の目の前で、飛行機はゆっくりと動き出す。
「エレンさん、辛い時は私に愚痴っちゃってくださいね」
「愚痴って訳じゃないんだけど、ちょっと‥‥ね」
 小声でそう言った夢姫に、エレンはやはり小声で片目を瞑ってから。
「フフ、中々相談できる相手、いないんだ」
 一番相談したい相手には、重過ぎる問いかけだと彼女は察していた。
「私は聞くことくらいしかできないけど‥‥。エレンさんにも、元気になってほしいから」
「ふふ、ありがと」
「‥‥あ、飛びました」
 そんな女同士の会話が聞こえたのかどうか、少年はその名の如く青い空を瞳に映していた。

「夢は、見る?」
 そう問いかけたハバキ。後席で頭を振る気配がした。
「でも、今が夢のような感じだな。‥‥また、こんな形で空を飛べるなんて」
 その受け答えに、ほんの少しの違和感を感じてハバキは首を傾げた。何かが違う。それが何か判らないまま、セスナはゆっくりと高度をあげていく。
「お前と会えて、良かった」
「‥‥僕も、ですよ」
 あれはもう、随分前の事に思える。やはり後席に傷ついた彼を乗せて、ハバキは空を飛んだ。あの日の空は、今日と同じだろうか。それとも、違うのか。
「気持ちよく飛ぶなあ」
 その後姿を見て、暁はそう口にした。戦いの為ではなくそれ以外で飛ぶ空は、自分には覚えの無い空間だ。居心地はいいのだろうか。吐いた紫煙は、青空にゆっくりと溶けていく。
「‥‥行ったか」
 感情を込めず、あくまでも事務的な口調で京夜はセスナを見送る。機内の様子は、周囲に知らされていた。

『‥‥僕には、友達がいない。だから、誰に話したらいいのか判らないんだけれど‥‥』
『俺に、言いなヨ』
 ハバキの声は、あくまでも優しい。暫くしてから、ポツリと声が返った。
『こんな僕の事を、好きだといってくれる人がいたんだ。‥‥って、知ってる顔だね。僕よりも先に、か。鈍いからなぁ、僕は』
 気を許しているときのアーネストの声は、あのエルリッヒとはやはり違う。喋り方も、口調も。だから、今は彼なのだろう。流れる会話にそんな事を考えながらフォルは頭上の青空を見上げた。ラウラと霞澄の2機を左右に従え、KVやHWの高速機動に慣れた目からは止まっているようにすら見えるセスナがゆっくりと旋回する。
『‥‥恥ずかしいけれど、そんな経験が無いから良く判らない。手を繋いで歩いたり、一緒にボートに乗ったりするのかな、普通は』
 かなうはずの無い話と、解っている。そんな口調だった。天はどこまでも高く、雲ひとつなく、雨は機中にだけ降る。
『‥‥ああ、もうすぐクリスマスなのか』
 ふと、彼がそう呟いた。奇跡が起きるらしい日。
『そうだよ。去年は寝てたんだっけ。今年は‥‥』
 クリスマスは一ヶ月ほど先だ。何事もなければ、希望を持てない数字ではない。ガン、と後席で鈍い音がした。アームレストを叩いた音。大好きな筈の空の中、青年は窓の外を見ることもなく俯いていた。
『死にたくない、って言う資格が無いのは解ってる。でも、まだ死にたくない。死にたくないよ‥‥』

●漂う虚無の中
「‥‥」
 京夜は、その会話を黙って聞いていた。しでかした事への後悔に泣きながら、決して報われぬ思いを抱いて惨めに項垂れる負け犬。自らの望みどおりのその姿を前に、胸に去来するのは満たされた思い‥‥、ではない。満たされる事など、無いのかもしれない。虚無は、底が無いから虚無なのだから。

 そして、別の虚無の中で。
「‥‥ほう。生きていたのか」
 面白がるような老人の声がした。
「私に必死に隠そうとしていたのは、この事か。残念だったが、知ってしまったよ‥‥」
 ぎし、と軋む音を立てて長身が椅子から立ち上がる。どことも知れぬ暗い室内で、その男、カッシングの周囲だけが茫と照らされた。
「エルンストと、アニス、それにサイラスを呼ぶとしよう。アフリカにも通信を入れておくのがよかろうな。ジェミニもそろそろ働かせねば‥‥」
 喉を鳴らすように笑いながら、カッシングは骨ばった手を左右に広げた。居もしない観衆に向けて語り掛けるように、朗々と言う。
「裏切り者は、処理せねばなるまい。我らバグアにそれ以外の解決法はありえないからね。しかし、『カッシング』よ。ヨリシロとなりながらも我意を通そうとした君に敬意を表して、私も相応の手段で彼を殺そう」
 例えるなら、喉元に刺さっていた棘が抜け落ちたような感覚。ただの人間でありながら、何処か得体の知れなかったあのヨリシロが、自分に隠そうとしていた物が『エルリッヒ・マウザーの存命』だったと確信したバグアは、満足げだった。